いつかの春へ



桜が風に煽られて青い空に吸い込まれていく。
その光景を私はぼんやりと見送っていた。
かりかり、さらさら、紙とペンのこすれる音が教室の中にあふれている。
2つ隣のクラスだろうか、英語のリスニング音声が聞こえていた。

2階にある自教室からは校舎裏に植えられた桜の木がたいそう美しく見える。
この教室に授業に来る先生たちは口を揃えて「美しい景色だね」と絶賛していた。
4月の上旬、この時期にしか見られない絵画。
また涼しい風が吹いて花びらを上空へ巻き上げた。

あの子たちは桜が好きだった、とふと思い出す。
桜の花びらが舞うたびにそれを目で追い、時には走って手で捉えようとしていた。
授業中でもなんでも桜が咲けば目がいくから、私は決まって「桜じゃなくて私を見なさい」と冗談めかして叱ったものだった。
ごめんなさいと謝りながらも無邪気に笑う横顔が本当に可愛くて、愛おしくて。
私はこの子たちとともに歩んでいくのだとそう思ったのだ。

彼らはもうここにはいない。
1か月ほど前、彼らはこの学校を巣立っていった。
入学した時より随分と大きくなり、大人びた顔になった彼らは私に「6年間お世話になりました」と告げて、それぞれの行く先へ進んでいったのだ。
あんなにも幼かったのに着実に大人になっていく彼らが誇らしく、けれど彼らが近くにいないことに言いようのない寂しさを感じている。
それは4月に入り、新たな学年を迎えてもなかなか変わることがない。
奇しくも私はまた中学1年生を担当することになった。

ああ、あの子は彼によく似た顔立ちだな、とか。
彼女は誰それと同じような考え方をするな、とか。
無意識のうちにあの子たちとこの子たちを比べては、寂しさと申し訳なさを感じてしまう。
あの子たちとこの子たちはまったく違う人間なのに、私だけが春の季節に置き去りにされている。

ぴぴぴ、無機質な音が時間を告げた。
私は慌てて視線を教室の中に戻し、意識して固い声を出す。


「はい、そこまで。解答用紙を回収します」


ばっと弾かれたように顔を上げた子供たちは一様に息を吐き、張りつめていた表情を柔らかに変えた。
お前解けた?無理無理、難しかったよなあ。
小さな声で小テストの感想を述べる子供たちが前に送ってきた解答用紙を数え、不足がないことを確認する。
さあ、授業を始めよう。そう言おうとして。


「うわあ!すっげー!桜吹雪だ!」


クラスの一人が歓声を上げる。
つられて外を見やると、強い風が地面に落ちた花びらすら巻き込んで桃色の吹雪を成していた。
4月のこの時期だ、授業に集中させなければ、と思うのに声が出ない。
視線が桜吹雪から彼らに動く。

みんな、目を輝かせて花びらの行方を追っていた。
口をぽかりと開けて、間抜けに見えるような顔。
それでもその表情には見覚えがあった。
6年前の春に、あの子たちが浮かべていたものとよく似ていた。

ああそうだ、あの時も誰かが桜吹雪に歓声を上げた。
新任だった私は子供たちと一緒になってはしゃいで、綺麗だねえと笑った。

自分の頬に指をあてる。
彼らの卒業から笑っていなかったことを思い出した。


「あっ、ご、ごめんなさい先生……」


私が何も言わないことに気付いたらしい女子生徒が控えめに謝罪をする。
その声に我に返ったのか、子供たちが次々と気まずそうに座席に戻っていく。


「……古来から」
「え……?」
「古来から、日本では花と言えば桜をさしました。『世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし』という和歌があるくらいです」


突然授業に入った私を不審に思ったのか、しかし席について話を聞こうとする子供たち一人一人の顔を見る。
彼らは緊張したような顔で私の顔を見返してきた。
こんな顔をさせたかったわけではなかったことを思い出す。
そうだ、私は。
さっき桜吹雪を見たときのような。あの子たちが浮かべていたような。
楽しくて仕方がないのだという顔をしてほしかった。


「ですから、日本人が桜を見て楽しくなることも、それを愛でたいと思うことも、何ら不思議ではありません。不思議ではないので、実際にやってみましょう」


ぽかんとした顔をした子供たちに笑いかける。


「……どうしたの?ぼやぼやしてないで、早く靴を履きかえて校舎裏に行かないと、風が止んだら桜吹雪は見られなくなっちゃうわ」


砕けた口調で、ほんの少しおどけた様子でそう言えば、子供たちは遠慮がちに行動を開始する。
しかし授業中に抜け出すという非日常的な感覚に楽しくなってきたのか、すぐにきゃあきゃあと笑いながら昇降口のほうに小走りで駆けていった。


「先生、授業中ですよ!」


2つ隣の教室から呆れたような顔をした先生が顔を出す。
教室の鍵を閉めながら私はそちらに大きな声で「すみません」とだけ言った。


「でも、桜がたいそう綺麗だったもので!」


廊下の向こうで子供たちが「先生、早く!」と呼んでいる。
そちらに笑みを返しながら、いつかの春とは違う新しい春めがけて走り始めた。


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