音、未完成



昔から、嫌なことがあると歓楽街に足が向いた。
煌めくネオンの毒々しい光と、酔っぱらった男たちの喧騒。
それらはすべて私の世界には縁ができにくいもので、それゆえに居心地がよかった。

体を売り出したのは17のころ。
何事にも生きづらさのようなものを常に抱えて生きていた私は、ある時興味本位でこの歓楽街に顔を出した。
そうしたら、恐ろしいほど相手が見つかった。
年齢の割には大人びた顔立ちをしていることもあってか、私より少し年上の、その当時働き始めたくらいの男性たちがよく私を買っていた。

彼らも何かを抱えていたのだろうか、と思ったのは自分が仕事を始めてからだ。
自覚もなく守られていた学校というシステムを失い、自分の足だけで立たなくてはならなくなった。
彼らはこんな覚束ない思いを抱えて、そうしてまだ学校に守られている私を抱くことで何かを得ていたのかもしれない。
いや、ただの性欲処理と言う可能性が極めて高いのだけれど。

働き始めてからも私はこの歓楽街に顔を出していた。
高校生や大学生の頃ほどではないにしても、若ければ男は寄ってきた。
ストレス発散とばかりに一晩中、違う男に抱かれ続けたこともある。
私にとってこれはカラオケやボウリングと変わらない、ただ少し自分の体を使うだけの趣味のようなものだ。

とはいえ、君いくら?と声をかけられる年齢はとうに過ぎた。
まだぎりぎり、金銭の授受が起きないような出会いができているものの、これも長くは続かないだろう。
もうじき私は、逆に金銭を与えて誰かを買うことになる。
自分を客観的に眺めてみればそんなこと、よほどの阿呆でもない限りすぐ分かる。
ただ後腐れがないだけの、一晩の情欲を満たすには便利な女。
若さもなく、美しさもなく、性格にかわいげがあるわけでもない私。
34歳になった私はどこまでも消耗品になるしかないのだと、ここにいると痛感できる。


――カオル先輩、今晩どうですか。


人懐っこい笑顔で私を誘う男を思い出し、ぎり、唇を噛む。
いくら言っても私を呼ぶことをやめない後輩は今日私がここに来た原因でもあった。


――あっ、いけね。嫁さんから子供が熱出したから帰ってきてって連絡来た


ホテルについて、いざ、という段になってラインで呼び戻されて男は帰っていった。
当然の事だ、と思う。
どこの世界に、まだ2歳の子供が熱を出しているのに不倫相手との密会を優先させる馬鹿がいるだろうか。
あの男はある種の屑ではあるが、そういうところはまだ馬鹿ではないようだった。
むしろ、馬鹿は私だ。
そういう事情を知っていながら、あの男に体を曝け出そうとしているのだから。
ある種の、などという形容を必要としない、根っからの屑。
会社の後輩と不倫関係など、本当に終わっているとしか言いようがなかった。

それだけでも終わっているのに、今日の逢引きができなかったことを悲しいと思っているのだから、本当に、本当に救いようがない。

ああ、今日は体を売りたい。
性欲の部分ではなく、靄がかかったような理性がそう言う。
体を売って、お前など消耗品以外の何者でもないのだと断じてほしい気持ちだった。


「オネーサン、こんなとこでどうしたの」


そんなことを考えながら辻でぼんやり立っていると、控えめなボディタッチと共に声が降ってくる。
お姉さんだなんて笑っちゃうな、と思いながら振り返ると、なるほどその声掛けも納得がいった。
私より一回りは下ではないかと思うような若い男が、私をじっと見ている。

硝子のような目をした男だ、と思った。
私を見ているはずなのに、その奥、心のうちまで見透かされそうな光をしている。


「迷子?」
「……私が迷子に見えるかしら。もうそんな年じゃなくてよ、ボウヤ」
「そう?迷子みたいな顔してるから大丈夫かなって思ってさ」


青年はからからと気持ちよく笑う。
迷子みたいな顔というものをしていた自覚はないが、こんな年の子にそう言われるということはよほどひどい顔をしているに違いなかった。
そんな顔の女に話しかけてくれるなんて、きっと優しい子なのだろう。


「そうね、迷子ではないのだけど」


優しい子ならばついでに、と思った。


「相手がいなくて困ってたの。ボウヤ、このあたりのホテルを教えてあげるわ」


その言葉にきょとりと大きな目をしばたかせ、そののち彼は笑った。
そっかあ、そんな誘い文句があるのかあ、と笑った彼は、まるっきり子供のような顔をしていた。



名前を、何度も呼んだ気がする。
熱に浮かされた頭の中で、飛んで落ちる感覚の中で。
ただびくりびくりと体を痙攣させながら、揺さぶられるがまま。

コウ、と。
嬌声の狭間に今日私を抱いたはずの男の名を、呼ぶ。



俺のあだ名もコウって言うんだ、と私に腕枕をしながら青年は言った。
健康のコウって書くからさ。
私はふうん、と興味なく相槌をうつ。
このくらいの年の子と思考回路が同じと言うことは、私もまだまだ精神的に幼いのかもしれなかった。
青年はそれからも私がほとんど聞いていないことを分かっているくせにいろいろな話をした。
大学生であること、サークルの飲み会の帰りにたまたま通りがかったこと、私が昔好きだった女性に似ていること、私がコウと言う名前を呼ぶものだからなんだか気恥ずかしかったこと。
オネーサンのことも教えてよ、と厚かましく言う青年に、しかし嫌な気はしなかった。

もしかしたら私はめちゃくちゃにされたくて此処に来たのに、存外大事にされてしまったことを不服に思っていたのかもしれない。
自分がいかに最低なことをしているのかをこの優しい青年に突き付けて、責めて欲しかったのかもしれない。
私が話す言葉を彼は真剣に聞いていた。
相槌をうつこともなく、ただただ私の言葉を逃すまいと耳を傾け、そして聞き終わるまで一言も責めるような言葉を発することは無かった。


「そのコウってやつのこと好きなのはわかるけどさ。オネーサン、自分の事切り刻みながら生きてるみたいだ」


憮然とした表情でそう言う彼の目には純粋な心配と、それから怒りが浮かんでいる。
拍子抜けしてしまう。
責められたくて言ったはずなのに、どうして私を心配し、彼を怒るのだろうか。
少し考えれば私も彼も同類だということが分かるはずなのに、その判断ができていないのはもしかしたら私を抱いたことで少しばかり同情心のようなものが芽生えているからかもしれない。
しかし、綺麗な瞳の奥に感情をたぎらせる幼い彼を美しいと心から思った。

今の私には彼のように感情をむき出しにすることはできない。
いや、やろうと思えばできるのかもしれない。
けれど、感情をむき出しにした後の周りの目や自分の取るべき行動を考えてはそんなことはできないと思う。

大人になることが思ったよりも不自由なのだと気づいたのは、きっと最近だ。


「馬鹿ね……というより、若いのかしら」


甘い煙草をふかしながら私は笑う。
感情の代わりに煙を口から吐き出して、誰からも突っ込まれないように曖昧なほほえみを浮かべる。
私の言葉に青年はまた不服そうな眼を向ける。
きらきら、抑えられているはずのラブホテルの明かりでさえ反射して美しく煌めく瞳。

ああ、もしかしたら。
そんな思いが浮かぶ。
彼の美しい瞳に映っている今くらいは、思っていることを口にしてもいいのかもしれない。



「そう言われて諦めることができる気持ちを、私は愛とは呼べないのよ」



ぽろ、口から言葉が零れる。


「道徳倫理的に私の行動は許されるものではないでしょうね。読んで字のごとく、不倫だもの。奥さんと小さな子供がいる相手を、身の程もわきまえずに愛している。汚いわ、不純だわ。それを捨てきれないのがもっと汚いわ」


それは紛れもない本心だった。
常に思い続けた贖罪の念。
こんなことはやめようと提案し、その都度断られ、抱かれているうちにその思いがまた有耶無耶になる。
奥さんと子供に悪いと思わないのと泣いて詰ったとしても彼はあの捨てられそうな子犬の瞳で「俺のことが嫌いなの」と問うただろう。
酷い男だ。
酷い男だと分かっていながら、これがいけないことだと分かっていながら愛を感じている私はもっと酷い女だ。


「それでも、愛してしまったのね」


――けれど同時に、私はその思いを正当化している。


硝子の目をした青年はその言葉を聞いて柔らかに口角を上げる。


「なるほど、そういう考えもあるのか」
「……それだけ?」
「それだけだよ。なんで?」
「軽蔑すると思った」
「なんでさ」


戯れるようにキスを一つ落としてくる青年は唇を離し、からりと笑う。
私が言ったようなことなど微塵も思ってない顔だった。
ただあるがままに私の考えを自分の中に受容しただけ。
本当に、硝子球のような青年だ。
こちらを写し、こちらの何もかもは彼をすり抜けていくしかない。
そんなことができるのも若さの特権ねと自嘲めいて笑ったが、いやな気持ちはしなかった。


「勉強になったぜ、オネーサン」
「精進してね、硝子くん」


そう言う。
「硝子くんとはたいそうな名前だね」と笑った彼は、その曇りひとつない綺麗な目に私を映していた。

明日彼に会ったら、なんて声をかけてみようかしら。
そんなことを考える。
別れてくれ、という世間体を気にした言葉ではなく共に破滅してくれと言えば、彼は頷くのだろうか。
いや、それとも。
登り始めた朝日を背に笑うこの青年を愛せたら何かが変わるのだろうか。
そうなったらどんなにか楽だろうと思いながら、甘い考えを一笑に付して私は青年と並んでラブホテルを後にする。

愛にならないどころか、恋にもならない感情を宵闇に取り残して、私はまた今日を往く。




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