安らかな朝を夢見た

 見えない方がいい。何もかも。その方が平穏で安寧を手に入れることができると彼は知っている。
 人の目というのは雄弁にものを語る。こちらから見る相手の瞳も、こちらの眼が見るものも、声に出さずとも音がなくともある程度分かってしまう。
 人混みにいると視線を探してしまうのは職業病だった。誰が何を見ていて、どういう意味をもって見ているのか。いつも探してしまうから、彼は人の多いところを嫌う。かといって人が少ないとその視線を詳細に分析してしまうので、誰もいない場所を特に好んだ。たとえばそれは自室だったり、職場の喫煙室であったり、閑散とした古い住宅地であったり、シャッターが並んだ商店街であったり。休日の彼はもっぱらそういう場所を探して歩いた。第九研究室室長の脳はあまりに重要な情報を持ちすぎているので、人気のない場所は危険だと上から釘を刺されている。人が居たところでやはり危険だと言われるのは分かりきっていたので、常にGPSを身に付けることで双方が妥協した。彼はいつも監視されている。たまに、その辺りは治安が悪いから止めておけとメールがくる。
 それは別に構わないのだ。位置を知られるくらい、彼にとってはどうでもいいことだった。彼にとって重要なのは目であり、視界である。
 彼の自室は極端にものが少なかった。数少ない荷物も衣装ケースや収納ボックスに収められていて、そのまま引越し出来そうなくらい片付いている。なるべく見ていたくなかった。特徴といえば食材でいっぱいの冷蔵庫とセミダブルのベッドと、大きな窓くらいのものだ−−誰が作ったのかもわからないものを食べられなくなったのはいつからだろう。いつのまに潔癖になったのだろう。冷蔵庫はいつも腹を膨らませている。
 窓の側にはダイニングテーブルとセットだった椅子の片割れがあって−−何故か二人用のテーブルを買ってしまっていた−−そこが彼定位置だった。
 仕事を終えて帰ってくると、昼だろうと夜だろうと彼はそこに座った。セキュリティを重視した故にそれなりに高価なマンションの窓からは、いつも薄青い街並みが見えている。ところどころ背の高いビルがはみ出た地平線に、彼は海を見ていた。
 彼には気に入りの小説があった。主人公が姉の遺書を見つけるシーンが特に好きだった。
『−−考えることは苦痛であり、喜びであり、唯一ゆるされていること』
 主人公は姉の文字をなぞる。その指は震えている。彼女は凪いだ表情でそれを書き記す。短い手紙だけが残された海辺の部屋はとても美しいのだろうと思う。
 薄青い地平線の海を眺めながら、考えるのだ。自分の最期を。可哀想な窓辺の椅子に座って。この小説の、彼女のような死を望んでいる。そんなふうに穏やかに死ねたら良いと思っている。平穏と安寧のためには、何もかも、見えない方が良い。秘密は秘密のままで、誰も見ないままで。
 まだ学生だった頃に読んだ小説のタイトルは忘れてしまって、再び手にとって読むことは叶わないだろうけれど、その遺書の内容だけは忘れられなかった。
 考えることだけが唯一ゆるされている。それは痛みであり幸福である。
 視線のない街並みを歩く休日に、彼は世界の終焉を見ている。自らの死を見ている。穏やかな死を望んでいる。
 部屋にはいつでも、彼女の遺書が置いてあった。うろ覚えだから少し違うかもしれないが、彼が書いたものだ。夢見がちな文学少女だってこんなことはしないだろうと思いながら、二階堂大和はその短い手紙を、部屋を出る度に窓際に残す。

***

 浅い眠りから覚醒して、最初に窓の外に目をやる。
 彼女の愛したうつくしい海がある。
 何もかも、見えない方がいい。
 そこにあるのは薄青いでこぼこの地平線。セミダブルの寂しいベッド。一人きりのダイニングテーブル。GPSが仕込まれたスーツ。うつくしい海はない。そんなものはない。
 見えない方がいい。考えることだけがゆるされている。見えない方がいい。余計なものを知るくらいなら。盲いたくらいがいい。
 ぼろぼろになった偽物の遺書が、椅子の上で眠っている。ああ、書き直さなくては。今度こそはなるべく、女の書いたような字で。
 いつか誰かの震える指で、かの文字がなぞられる、そんな日をずっと待っている。

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