鈍行列車 | ナノ
07

「縢くん、待って!!」

後方から女の子の声がする。声質自体は柔らかく耳障りがいい。それが今は切羽詰まっている。こちらに駆け付けながら懸命に、制止の声を発する。
縢はドミネーターを構えた。彼女の声に耳を傾ける気は、端からなかった。

『対象の脅威判定が更新されました。犯罪係数オーバー300。執行モード リーサル エリミネーター。慎重に照準を定め対象を排除してください。』

音声アナウンスが縢に指示を出す。まどろっこしい音声だ。わかってるっつの、んなこたぁ。指示なんかなくてもこいつの犯罪係数がぶっとんでることくらい。こちとら目の前でギャアギャア喚いてる男と同族なんだ。
唯一違うのは、自分はドミネーターを持つことを許された執行官であること。世間は犯罪者による社会奉仕活動なんて言う。言い得て妙なのが少し癪だ。
縢はゆっくりと唇を舐めた。
そう、世間様の言う通りだ。執行する側に立つことを『許された』のは別に自分の人権が回復したわけじゃないし、根本的なところで犯罪者扱いされている事実は変わらない。都合よくシステムに組み込まれた使い捨ての駒。首輪を繋がれた猟犬。だけど、トリガーに指をかける意思は、俺のもんだ。
「縢くんっ!」再度、制止を求める常守の声がした。
待たねえよ。縢は口の中で呟くと、対象に向けてエリミネーターを放った。



犯罪者を執行したことで今回の事件は決着がついた。
単独犯だったのでこれ以上の追求もない。縢が護送車で帰路につき、報告書を書くべく公安局刑事課フロアに戻ると、偶然にも一係へ訪れていた唐之杜志恩と鉢合わせた。
唐之杜は揃って帰ってきた縢と常守の姿を認めると、からかうように笑みを浮かべた。
あ、これめんどくせーやつ。瞬時に判断した縢は、第一声をかけられる前に「げっ」と声を漏らした。

「聞いたわよ、朱ちゃん。シュウちゃんの部屋にお呼ばれしたんだって〜?」

「え? まあ、はい」縢の後ろで常守はのんびりと答える。にやつきながら煙草をくゆらす唐之杜の言葉の意図には気づいていないらしい。
だが縢にはその意図がわかった。セクシャルな話に関してオープンな唐之杜の言うことなど、しばらく付き合っていれば察せることだ。

「センセ、まーたそういう言い方する。俺はただ朱ちゃんに料理振るまってただけだっつーの」

唐之杜の隣では当たり前のように六合塚がデスクに向き合っており(珍しく唐之杜が一係を訪れる形で世間話をしていたらしい)、縢はわざと二人を交互に見ながら昨夜の出来事を話した。この二人がデキていることは周知の事実であるが、一係に来て日の浅い常守はまだ知らないだろう。暇になると一係フロアから姿を消す六合塚は十中八九、総合分析室で唐之杜と逢瀬を重ねているし、共に仕事をしているうちに二人の関係には気づくだろうが。
唐之杜と六合塚に、常守が嬉々としてワインを一本カラにした話を聞かせると、本人は「やめてよ、まるでわたしが飲んだくれみたいに言うの」と不満げだ。

「縢くんがお酒弱いだけでしょ」
「いやいやいや。百歩譲ってそうだとしても一本空けるってどうよ。もーちょっと可愛く酔ってくれたらからかい甲斐があったのにさあ」
「先に潰れた縢くんに言われたくない」

そんなやりとりをしていると、唐之杜が「ダメよ、朱ちゃん」と諭すように言った。

「そんなに簡単に部屋に入っちゃ。襲われちゃっても知らないわよ?」

唐之杜は冗談っぽく片目を瞑ると、しかし常守が反論するのを制するように、彼女の唇に人差し指をあてる。

「シュウちゃんだって男なんだから」

宜野座からはたびたび、執行官のくせに監視官との距離が近い、馴れ馴れしい、などと叱られることがあった。それでも、男と女だとか、そのへんの分別はつけてるつもりだ。
しねーよ、そんなこと。
口を開こうとした縢より先に、常守の明るい声が響いた。

「大丈夫ですよ。縢くんはそんなことしません」
「そう? でもアタシだったら、こんなに可愛い子が目の前にいたら食べたくなっちゃうわ」

やけにねっとりとした声で唐之杜は言う。唇にあてていた指をするりと移動させ、短い茶髪を耳にかけると、露わになった耳殻をなぞった。もともと艶のある声をしているが、今はさらに、わざと色を滲ませた喋り方をしているようだ。

「唐之杜さんだって。そういうコトは冗談でも恋人の前で言っちゃいけないんですよ」

距離を詰めた唐之杜を意にも介さず、常守は笑って指摘した。
唐之杜と六合塚、そして縢も、驚いて常守を見た。

「じゃ、そういうことだから。わたし、宜野座さんに事件の報告をしてきます。縢くんは文書をまとめておいてね」

何事もなかったかのようにフロアを出ていく後ろ姿を三人で見送る。「変わった子ね」と呟いたのは、我さきに常守をからかっていた唐之杜だ。
縢はデスクにはつかず、常守の後を追いかけた。報告書類は様式が決まっているので、よっぽど重大な事件でない限りぱぱっと書いてしまえる。出来に関しては、これまた宜野座から質の悪さをたびたび叱られているが、やる気を出せばすぐに書いて提出できる形に持っていけるだろう。
小走りしながら周囲を探すと、小柄な後ろ姿はちょうどエレベーターを待っているところだった。

「朱ちゃん」
「縢くん。どうしたの?」

こちらを見上げてこてんと首を傾げる。その仕草のせいか、常守は年齢よりやや幼く見え、監視官という先入観がなければどこにでもいるごく一般的な女性にしか見えない。

「や。なんつーか」

言葉に詰まった縢は気を紛らわせるように頭を掻いた。
『縢くんはそんなことしません』
常守の言葉を反芻する。男だとか女だとか、そういうことはどうだっていい。俺は執行官だ。つまり、蓋を開けばただの潜在犯なのだ。自分たち刑事がもっとも重要視している数値、犯罪係数は健全の域を超えている。
唐之杜は「襲われちゃうかも」などとあくまでも冗談っぽく言っていたが、色相がクリアな者が潜在犯を警戒するのは当たり前のことで、そこに疑念を抱くとむしろ色相は悪化してしまう。
なのに、常守は警戒することもなく疑念を抱くこともなく大丈夫だと言い切った。
縢にはそれが新鮮で、不思議だった。
何を根拠にそう言い切れる? 俺だって潜在犯なんだよ、わかってる?

「……俺がドミネーターを構えた時、なんで待てって言ったわけ?」

縢は口を引き結んだ。尋ねたかったことは、こんなことじゃないのに。

「あー、えっと、わたしもまだよく分からないんだけど」
「はあ?」
「ドミネーターで執行してしまえば、それで終わりでしょう?」

当然のことを問われ縢は困惑した。常守は一体何を伝えたいのだろうか。

「今回の犯人に関してはまだ打開策が残ってるんじゃないかって……思ったの。だから縢くんに撃ってほしくなくて」

たどたどしく言葉を紡ぐ姿は、まだ本人も思考を消化しきれていない証拠だろう。新米である彼女の手探りの仕事ぶりが、縢は嫌ではなかった。
「うーん、難しいな。まだわたしも、自分の気持ちが掴めてない」そう言った常守の表情は朗らかで、制止を命じた部下が言うことを聞かなかった咎を問い詰めるものではなかった。
縢もそれ以上は追求せず、肩を竦めてみせた。

「悪いけど俺、忠犬じゃないから待てはできないよ?」
「いいよ。縢くんは犬じゃない。刑事だもん。トリガーを引いたのがあなたの意思なら、わたしはその意思を尊重する」

驚いて常守を見つめる羽目になったのは今日でこれが二回目だ。
今、彼女は何と言った?
尊重? 執行官を、監視官が?
エレベーターが到着を示す音を鳴らした。常守の背後で扉が開き、彼女はそれに乗り込む。

「また今度、おいしいごはん食べさせてね」
「うん、酒も用意しとく」
「それはいいよ。唐之杜さんにまたからかわれちゃう」

空気の抜けるような音を残して扉は閉まった。
縢はしばらくの間、ぼんやりとエレベーターホールに立ち尽くしていたが、次に開いた扉から出てきた宜野座に見つかり、「こんなところで油を売ってないで仕事しろ」と小言を言われながら一係に戻った。



鍋がほこほこと湯気をたてている。アルミ製の大き目の鍋だ。茹だった水かさの中に三人分のパスタ麺を投入し、タイマーのスイッチを入れた。
縢が慎也の家で居候を始めて一週間が経つ。毎日ヒマを持て余しているので、自然と慎也宅の家事をこなすようになっていた。掃除、洗濯、夕飯の準備。アレ? 俺ってコウちゃんの彼女? 公安局の宿舎にいた頃はあまり真面目に家事をしていたとは言えないが、ここにきて格段とスキルが上がった気がするし、そこのことがわりと満更でもない。
期待していた刺激的な出来事はなく、かつ今まで散々振り回されたシビュラからも解放され、七日間は穏やかに過ぎていった。

「ただいま。いい匂いがする」
「すずちゃんおかえりー。さて今日のご飯はなんでしょう?」

帰宅するとすずはパンプスを脱いで、鼻からすんと空気を吸い込んだ。一瞬、考える素振りを見せたが、匂いだけでは分からなかったようだ。

「バターっぽい匂いがする、かも」
「お、いい線いってんね。正解はバター醤油のきのこたっぷり和風パスタでした〜」

すずがリビングに入ってきた。部屋に入るタイミングで脱いだらしいコートを腕にひっかけている。タイトなスーツスカートから覗く足は若干透けた黒タイツに包まれているが、それでも寒そうだった。
縢はそこでおや、と思った。
いつもなら一緒に帰宅する慎也の姿がない。
縢が居候を始めて一週間、すずが一人でこの部屋を訪れたことはなかった。必ず仕事帰りに慎也とやって来ては、三人で縢が作った夕飯を食べ、遅くならないうちに隣室へ帰るというのがパターンであった。
珍しいと思いながら、キッチンですずを出迎える。

「コウちゃんは?」
「残業中。すぐ終わらせるから先に帰ってろ、って」

ふうん、と軽く流して見せる。
手元ではフライパンの上で舞茸やらエノキやらが熱にあぶられパチパチと音を立てていた。麺の茹で具合を確認し、水気を切ってから投入する。
醤油、バターの他にニンニクも少し入れると、調味料を加えられた具材はあっという間に香ばしい匂いに包まれた。
縢が言葉を発したのは、つい、思い出したからだ。唐之杜が、自分と常守を見てからかっていたあの台詞。
菜箸で麺をほぐす動作を一旦止めて、縢は冗談を飛ばした。

「いーのォ? コウちゃんもいないのに一人で来ちゃって。すずちゃん、俺に襲われちゃうかもよ?」

小さく吹き出す音が聞こえた。部屋の隅に荷物を置いていたすずは、可笑しそうにふふっと笑う。

「本物の犯罪者はわざわざそんなこと言わないよ」
「わっかんないよ。すずちゃんだって俺のこと一週間かそこらしか知らないわけだし。もしかしたらとんでもない悪さして逃亡してる極悪人かも」

自分で言っといてなんだが、正解に近い。
潜在犯の烙印を押された自分は、悪人さながらの扱いを受けてきた。
皮肉っぽくなるのは性分だ。縢は自分の発言を内心苦々しく思いながら、上辺を取り繕うべく調理作業を再開した。

「でも、秀星くんはそんなことしないでしょう」

聞こえてきた台詞は聞き覚えのある内容だった。
かつて、自分を潜在犯だとわかった上で同じことを言った上司が……友達がいた。

(……どいつもこいつも、)

どうして簡単に俺なんかを信用するかな。
 
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