鈍行列車 | ナノ
08

かたんかたんかたんかたん。ゆったりとしたスピードで発車した反対方面行きの鈍行列車は、徐々に加速しながら駅を出ていった。プラットホームには微かな風の動きだけが残り、すずはなぶられた前髪を手で押さえる。

「まだあと30分あるね」

スマホを確認すると、すずと慎也が乗る予定の列車が出発するまでまだ時間がある。都会の交通事情に慣れていると、半時の待ち時間はやたらと長く感じられる。

「ま、すぐ来るだろ」

そう言って隣に立つ慎也はスラックスのポケットに探るように手を突っ込んだ。が、今の時代、駅は当然禁煙で、ため息をついて思い留まった。
今日は捜査の一環で、署の最寄り駅から電車で二時間の地方を訪れていた。先日起きた事件の参考人から事情を聞きだすことが主な目的で、あらかた達成はできた。本当は直接会うまではないと考えていたのが、先方の強い要望でこちらが出向くことになったのだ。あまり乗り気でなかった周囲に対し慎也だけはこの聞き込みを前向きに捉えていたので白羽の矢がたった、というか押しつけられたわけだが、本人にその気はなくむしろ自分の仮説の材料を揃えるために積極的に調査をしていた。
生き生きと捜査している姿を見ると、慎也にとってこの職は適職なんだろうとすずは思う。
それに比べて、わたしは。
いつか縢は自分のことを「コウちゃんに似てる」なんて言っていたけど、そんなことはない。怖いものが多すぎる。怖がって、守れなくて、刑事の仕事なんて後悔の積み重ねだ。

「しっかし、あいつらは事が思うように運んでさぞ満足だろうな」
「あいつらって?」
「署の連中だよ。俺と花崎にうまく仕事を押し付けられて喜んでただろ」
「はは。まあ、大した親御さん達だったね」
「わざわざ二時間かけて出向いたわりにキツい対応だったな」
「そんなこと言って、慎也くんは結構楽しんでたくせに」

容疑者となった息子の両親。話を聞かせてくれと頼めば「身体が不自由だからそっちが出向け」と言われ、行った先で息子を殺人犯に仕立てるなと喚かれた。特に母親はその傾向が顕著で、こちらが何かを言う前に次々と強い語気で遮られた。父親からなんとか聞き出したい情報は得られたが、対応は帰り際まで散々なものだった。
歪んだ愛だな、と慎也が呟いたのは、帰路についてからだった。

「あの様子じゃ到底真実は受け止めきれないだろう」
「……そうかもしれないね」

ついでに、息子に縁のある土地や人物をめぐって、すずと慎也は駅へと戻った。『通勤』に二時間もかけるのは大変なので、今回で最後とばかりに気になる箇所はすべてしらみ潰しに調べた。時刻は日は沈む一歩手前である。
少し風が出てきた。さっきのように列車が発する生ぬるい風ではない。夜の空気をまとった、身体の熱を奪う冷たい風だった。
電車はあとどのくらいでくるのだろう。スマホに目を落とすと、前に確認したときからまだ五分しか経っていなかった。先は長い。
慎也がふらりと離れた。後ろ姿を視線で追いかける。その気配に気づいたのか、慎也はひらりと手を振って「タバコ吸ってくる」と言い残した。
そういえば改札横に喫煙室があった。あまり印象に残らなかったので今まで忘れていたけれど、喫煙者は覚えているものらしい。
すずはぐるりと辺りを見渡した。風除けはないが、待合スペースを奥に見つけた。底が丸みを帯びた青緑色の椅子に座り、迎えが来るのをじっと待つ。



かたんかたんかたんかたん。電車の動きに合わせて身体が揺れている。
すずは目を覚ました。いつの間にかうたた寝していたらしい。
車窓に添って平行に設置された二列の席。すずは進行方向に向かって右側の、真ん中あたりに一人で座っていた。不思議に思って見渡してみるが、車両には他に乗客はいない。
慎也はどこだろうか。
窓の外はとっくに夜の帳が落ちている。真っ暗だ。トンネルを通過しているのかと思うくらい、街明かりも街灯も見当たらない。行きにはトンネルなんてなかったのに。
ふと、この状況に不安を覚えた。何かおかしい。どうしてこうも人の気配がないんだろう。ちりちりと点滅し始めた車両内の光源も、余計にすずの不安を煽った。
隣の車両の様子を見に行こう。すずは立ち上がった。すると、隣で誰かのすすり泣く声が聞こえた。
いつの間に? さっきまで、誰もいなかったのに。
おそるおそる振り向く。一人の子どもが、すずと同じ列の椅子に座り、ぽろぽろと泣いていた。
こんな子どもはさっきまで絶対にいなかった、とすずは判断する。けれど、泣いている子どもを放っておくほど薄情ではないつもりだ。

「……どうしたの?」

二メートルほど離れていた距離を、おそるおそる縮める。長袖から覗いた手のひらは懸命に溢れる涙を拭い、短パンから伸びた脚は幼さを助長させるほど細い。

「どうして、泣いてるの」

すずは子どもと視線を合わせるようにその場にしゃがんだ。といっても俯いたまま顔をあげようとしないので、視線が交わることはない。
明るい茶色の、短い髪をした子どもだった。髪の長さや服の色から、男の子だろうかと予想する。
子どもの頬を伝う涙はなかなか止まらなかった。嗚咽が連続して響き、不安に駆り立てられていたすずも、さすがに困惑のほうが増した。
この際、細かいことはどうでもいいと感じた。どうしてこの子は泣いているのかとか、こんなに小さな子を残して親はどこに行ったんだとか、他の乗客はどうしたんだろうとか、そんなことはどうだっていい。
すずは子どもの膝に手を置いた。小さくて頼りない、まるっきり子どもの膝小僧だ。

「大丈夫。ちゃんとおうちに帰れるよ」

励ますつもりで明るく言うと、子どもは、ようやく顔をあげてくれた。
泣き腫らした顔。自分の置かれた状況がわからず、不安のままに泣いていたのだろう。涙でぐちゃぐちゃになった目の周りに、泣き疲れのような、密度の高い疲労を滲ませていた。
顔を見たことで余計に幼さを感じ取った。長い睫毛は女の子を思わせるが、この顔立ちは、やっぱり男の子だろう。
少年はじっとすずの目を見た。真意を探るような瞳の色彩。この子は無邪気なだけの子どもじゃない、何か大きなものに裏切られ、不安定になっている。

(この子……誰かに似てる。)

どういうわけか胸がちくりとした。微かな面影を捉えたものの、その相手が誰なのかまではわからない。
しゃくりあげながら、少年は、少しずつ言葉を発した。

「ほんと、に? おうち……帰れる?」
「うん。帰れるよ。わたしが一緒に行ってあげる」

だから泣かないで。男の子でしょう。そう言うと、涙を拭っていた手がそろそろと膝付近に降りてきた。すずはゆっくりと、その手を自分の両手で包みこんだ。
小さくて柔らかく、弱弱しい手のひらだった。
この手があと十年もすると、握力を有し、骨張り、今の自分の手をすっぽりと覆う大きさまで成長することが信じられない。
少年がおずおずと手を握り返した。よかった、少しは心を開いてくれたんだろうか。視線を向けると、少年はまだ沈んだ表情をしていたけれど、涙は止まっていた。

「じゃあ、わかる範囲でいいんだけど、乗ってきた駅とか、家の近くに何があるとか、わたしに教えてくれるかな」
「ずっとここにいたよ」
「……え?」
「ずっとここに座ってた。いつからとか、わかんない……」

ぐらり、と身体が揺れた。眩暈ではない、車体が大きく傾いたのだ。

「おかあさんとおとうさん、ぼくを置いて行っちゃった。ぼく、それから……ひとりぼっち」

触れていたはずの少年の手がするりと抜ける。慌てて掴もうと手を伸ばすけれど、空気を掴むばかりで手応えはない。
少年の瞳に、再び不安の気配が忍び寄る。寂しさの色が宿り、すずではない、もっと遠くにいる誰かへ訴えかけるような仕草をする。
ああ、とすずはようやく思い当たった。
この子、なんとなく、秀星くんに似てるんだ。

「やだよう。置いて行かないで」
「ぼく、いいこにしてるから」
「おかぁさん……」

少年の声が遠くなる。すずの身体は夜の海へ放り出されたように、暗闇の中をゆっくりと落下していく。
少年のいた電車が、室内の明るさが、徐々に加速する鈍行列車のように遠ざかっていく。
もう一度あの手を包んで安心させてやりたい。
強くそう思うのに、もはや少年の姿を捉えることはできず、すずの身体は落下を続けた。



びくんっ、と足が跳ね上がった。万人が睡眠中に体験したことがあるであろうジャーキング現象は、けして心地いい寝覚めではない。
隣に人の気配を感じて振り向く。慎也が呆れたようにこちらを見ていた。
かたんかたんかたんかたん。
帰路の電車は、快速とは違い、各駅停車しながらゆっくりとわたしたちを連れていく。帰る場所へ。帰る場所が、わたしにはある。
秀星くんは今日は何をして過ごしたんだろうか。最近はわたしや慎也くんの驚く顔見たさに、凝った料理を披露するようになった。秀星くんが慎也くんの家で暮らし始めて一週間。彼について知っていることは、あまりにも少ない。
年齢は近い。未成年ではないと言い張る彼の生年月日を示すものは何もなかったが、たぶん、わたしより二、三歳は年下だろう。生まれた土地。家族構成。どんなふうに育ったか、どうしてあの日、あんな場所に立っていたのか。
ゆうべ縢は「すずちゃんだって俺のこと一週間かそこらしか知らないわけだし。もしかしたらとんでもない悪さして逃亡してる極悪人かもよ」なんて冗談めかして笑っていた。そうは思わない。確かに初対面でやってることはめちゃくちゃだったし、荒事を楽しんでいるような刺激を求める一面を持っているとは思う。はぐらかすばかりで、出自も詳しくは話そうとしない。だけど。

(悪い人には、見えない……)

だからと言って「良い人」と判断するのも違う。そもそも良い人、悪い人だと人間を区別するのは極端な話だ。人間には生きていればいろんな面が生まれる。友人に向けた一面や、恋人に向けた一面。家族しか知らない癖。家族だからこそ知られたくない感情。自分にとって都合のいい一面だけで判断するのは傲慢だとすら思う。
それでも良い人、悪い人と考えてしまうのは、シロかクロかと犯人を断定する警察官としての職業病に近い気がした。
隣で慎也が、花崎、と名前を呼んだ。

「次の駅で降りるぞ。ずいぶんと長い居眠りだったな」
「ごめん。仕事が終わって気が抜けちゃったのかな……何か、夢を見てたような気がするんだけど」
「夢?」
「うん。だけど、もう思い出せないや。夢っていつもこうだよね」

慎也は前向いたまま、そうだな、と応じた。
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