完結
 薄いグレーのかかった青と、オレンジというより橙色といいたいような紅いその色がグラデーションになっている。灰色の雲が少し紅く染まっている空を見上げると、なんだか胸の辺りがきゅっと切なくなったように名前は感じた。別に何かがあるわけではないが、この時期はなんだか寂しい。頬を撫でる冷たい風がよりそう思わせるのかもしれない。
 刻々と冬に向かっているのを肌に感じながら名前は教室の窓を閉めた。最近は、昼間は暖かくても夕方になると一気に寒くなる。今日から名前はマフラーをすることにした。朝は持っていかなくてもいいかも、と思っていたが家に置いてこなくて正解だったなと思う。ただ、スカートから伸びた太ももは変わらずに寒い。

   ○

「名字ちゃんは受験どこにするの?」
「いろいろ考えたんだけど、歩いて通える距離の烏野を志望してるよ」
「確かに学校が近いのはいいなぁ。私は部活の関係でちょっと遠いトコ」
「ああ、前言ってた有名な顧問の先生がいる学校だよね。高校でも頑張ってね」
「有り難う」

 名前が友人とそんな会話をしたのはいつだったか。暑い夏頃だっただろうか。あの日から季節は変わり、冬になった。
 何度も鞄の中に忘れ物はないか確認をする。
 身形を整え、コートを着る。マフラーをして深呼吸をして家を出た。背後から家族の声が聞え、振り向いて手を振る。名前の手は微かに震えていた。今日が本命である高校の受験日だったからだ。


 烏野高校には予定していた時刻よりも十分ほど前に着いた。
 試験を行う教室の中を見渡し、普段使う中学の教室とはやはり違うなと思いながらマフラーを外す。ここにまた戻ってきたい、いや絶対に生徒として通うんだと思いながら鞄の中から必要なものを取り出した。教室内は暖房がしっかり効いており、手の先からじーんと伝わっていく温かさを実感する。ペンケースから鉛筆を二本取り出して名前はふと気が付いた。消しゴムが無いのだ。

 おかしい。昨日確かに確認したはずだ。机の上で用心のため三本の鉛筆を削った。消しゴムは……と、そこまで考えて名前は思い出した。ずっと使っていた消しゴムが小さくなり、新しい物と取り換えようとペンケースから取り出しておいたことを。けれども、その後すぐ夕食に呼ばれて……。新しい消しゴムを入れるのを忘れていたことを思い出し、どっどっと速く動いている心臓の辺りをぎゅっと抑える。
 名前は削った鉛筆をペンケースに入れて満足してしまったのだ。夕食後お風呂に入って、そのまま布団の中で単語帳を見て遅刻をしないように寝た。
 そう、忘れてしまったのだ。あんなにも忘れ物がないように確認しろといろんな人に言われていたのに!!

 どうしよう。どうしよう!! 名前は再び教室内を確認するも、周りに同じ中学の生徒はいなかった。烏野に受験する生徒は確かいたはずだが、どうやら違うクラスのようらしい。
 先ほどまで少しの緊張で済んでいたのにも関わらず、今の名前の手は震え、心臓はばくばくと煩い。
 名前は今までテストで消しゴムを使わないで済んだ試しがない。消えにくいが、せめて消しゴム付きの鉛筆にすればよかった。えっと、こういう時、どうすればいいんだっけ……!? そんなことを考えていると不意に隣りから声をかけられた。

「大丈夫?」
「……えっ?」

 名前に声をかけたのは隣に座っていた名前も知らない少年だった。見たこともない少年に驚いているうちに少年は更に質問を続ける。彼は周りを気にしてか、少し小さな声で話しかけてきた。

「具合とか悪いの? それとも忘れ物?」
「いや、あの……、消しゴム、忘れちゃって」
「消しゴム……。そっか、消しゴム忘れちゃったのか。なら俺が貸すよ」

 そう言って、彼は私に元々彼の机に置いてあった消しゴムを一つ差し出した。

「でも……」
「俺、消しゴムもう一つ予備に持ってきてたんだよ。だからさ――」

 彼は鞄の中からペンケースを取り出して、そこからまだ少ししか使われていない四角い消しゴムを取り出して、「ほらね」と名前に見せる。「だから気にしないで」と少しだけ照れくさそうに首元に手をやって笑った。
 受験で少しピリピリとした教室におかしいほど不釣り合いな彼の優しさに驚いてしまう。優しいな、すごいなと思いながら消しゴムを受け取ると、また彼は照れくさそうに頬を人差し指で掻いた。

「気にしないで」

 優しい声でそう言われ、名前は私と同じ歳で、同じ受験生で、同じように緊張しているだろうにどうしてこんなことが出来るのだろうと驚いた。しかしその優しさが嬉しくて嬉しくて、もう既に単語帳を見つめている彼に向かって心の中で有難うとお礼を言った。

   ○

 あれからまだ一年も経っていないのかと、名前は思った。教室掃除をしていた際、誰のかわからない消しゴムを拾った時にふと受験日のことを思い出した。
 名前は彼の優しさのおかげで少し緊張がほぐれ、無事合格点を取り、烏野に進学することが出来た。しかしあまりの焦りと緊張のせいか、名前に消しゴムを貸してくれた少年の顔をぼんやりとしか思い出すことが出来なかった。薄情な奴だなと、自分のことながら名前は思っている。

「あの人は、この学校の生徒なのかな」

 帰宅しようと下駄箱へ向かう際、背の高い男子生徒とすれ違った。薄暗い廊下の中、その男子生徒は驚いたような声を上げた。

「もしかして、受験の時消しゴム忘れた子じゃない?」

 名前は驚いて振り返る。そこにいたのは背の高い、黒い髪の男の子だった。
 雲がどんどん流れて綺麗な満月を見せていく様子をじっと見た時のように、名前は少しずつ目の前の少年に対して確証を得ていった。

「あぁ、あの時の!」

 確かに、今烏野にいる自分が最も感謝すべき存在であるあの時の少年が、ジャージ姿で立っていたのだ。

20151126
20160430 加筆

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