束の間の一日
雑踏の中でも、紫苑の白髪はよく目立つ。 たとえ帽子を被って鮮やかな髪色の大部分を隠していても、ネズミには関係なかった。 紫苑の姿がどれほど地味でも、惹き付けられるように紫苑を見出だすことができた。
「紫苑」
人々の間を縫い、音もなく紫苑の背後に近付いて、耳元に囁きかける。 弾かれたように振り返った紫苑は真っ赤になった耳を押さえ、大きく目を見開いた。
束の間の一日
「ネズ…ミ。なんで、ここに」
ここは、紫苑の通う大学。そして今は、この大学の文化祭。 紫苑はたこ焼きの模擬店で忙しそうに立ち回っていた。
「なんだっていいだろう。それとも、おれがここに来ちゃだめなのかよ」 「もちろん、いいんだけど」 「けど?」 「いま、きみがいる場所がおかしいんだよ、ここは屋台の内側。たこ焼き買うの?買うならちゃんと列に並んで。買わないなら手伝うなりなんなりしなよ、見ての通り忙しいんだ」 「おやおや、ご挨拶だな」 「正論だと思うけどな。…あ、いらっしゃい」
そっけなくあしらわれても機嫌ひとつ損ねず、ネズミは微笑んだまま紫苑の働き姿を眺める。 ただし、邪魔者扱いされているにもかかわらず、ネズミはちゃっかり屋台の中にいた。
秋の気配の近づく晩夏といえども夏は夏、晴れ渡った今日は特に暑い。 そして、たこ焼き模擬店では当然ながら鉄板でたこ焼きを作るのだから、さらに屋台周辺の気温は上がる。
この暑いなか、紫苑は白髪を気にしてしっかり帽子を被っている。 シャツの襟首もきっちり閉められている。
ネズミは紫苑の額を流れ落ちる汗を見て、あの帽子が暑そうなんだよな、と思う。 そう思ったら、体が勝手に動いていた。
「なっ…、ちょ、ネズミ!」
ネズミはふわっと帽子を紫苑の頭から取り上げ、くるりと手の内で回した。 ふふっと笑い、帽子を被っていたせいでぺしゃんと潰れた紫苑の髪を手でかきあげてやる。
「帽子!返してよ!」 「やーだ」 「なんでだよ、からかうなよ」 「からかう?おれが、あんたを?」 「そうだよ、ぼくの髪目立つんだから帽子がないと」 「いいんじゃないか」 「は?」 「今日は文化祭なんだろ?仮装やコスプレしてる奴らがうようよいる。あんたの髪くらい、目立ちやしないさ。それに…」
再び紫苑の耳元に唇を寄せる。
「それに、せっかく綺麗な髪なんだ。今日くらいおれ、ずっと見ていたいんだけど」 「なっ…」
首から上を全部真っ赤にした紫苑は、ネズミを力一杯押しやり、すごい剣幕で叫ぶ。
「ああもう、分かった、分かったから、ぼくのシフトが終わるまで大人しく待っててよ。あと30分くらいだから!」 「そりゃあ、良かった。ところで紫苑、お客さんが待ってるぜ?」
くすっ。 押しやられたネズミは楽しそうに笑う。 紫苑は気まずさと恥ずかしさにさらに顔を赤くして黙り込み、そのままくるりとネズミに背を向け、たこ焼きさばきに戻る。
ネズミはジーンズのポケットに手を突っ込み模擬店の柱に寄りかかると、目元を和ませながら紫苑を見守った。
終わったよ、ネズミ
おつかれさん。じゃっ、案内してくれる?
え?
え?じゃない。あんたの大学だろ?
あ、ああそっか。うん…じゃあどこ行こうか…
…紫苑
わっ、ちょ、なんだよいきなり、なんでわざわざ耳の近くで囁くんだよっ
ふふっ、やっぱりあんた、耳が弱点なんだ
もうネズミっ、からかうなって言っただろ…!
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