※注意※

・お手数をおかけして大変申し訳ないのですが、今作をお読みになる前に、第5回「Hero」の“あなたのためならば夜をも喰らう所存だ”→第6回「Villain」“嘘とラブソング→第5回「Hero」の“もし君がヒーローだったら”→第8回「自己犠牲」“君に捧げた忘れじの恋”を読まれることをオススメします。(読むのがメンドイと思われた方は“夢主は浅井氏の同盟国の姫で、一時期浅井領にいたため高虎とは幼馴染以上で戦国のロミジュリで、夢主だけ死亡、夢主と主君を相次いで亡くした高虎は出家して高野山なう。”とだけ頭の隅に置いて頂ければ読まなくても無問題です。)

・無双の知識は勉強中かつアニメと動画サイトのゲーム実況のみ。

・キャラ崩壊あり。

・話はやや史実ベースで進行しつつも、話の都合により改変・捏造あり。

・話の都合上の理由で捏造設定&オリキャラが乱舞。(高虎の初婚の年を捏造してます。最初の奥さんスマン。)

・高虎の出家後の名前は戒名から取っています。(調べたけど出てこんかった。)

・安定の駄文・駄作クオリティ。

・話の都合上、後半はかなり巻いてますが高虎さんは実際、一杯仕事してますので気になる方は……続きはwebで!

・バファリンの半分は優しさで出来ている。夢あるあるの話の9割は捏造で出来ている。
以上を読んでもバッチコイの猛者の方&例え読後が不快に感じても首に手ぬぐいを巻き、なびかせながら「馬鹿野郎!この駄作製造マシンがっ!」と吐き捨てるだけで済ませられる方のみお進みください。今回でこのシリーズは終わりです。最後までお付き合い頂きありがとうございました!











―亡き君の 夢をばみたり 夏の朝 夢と分かれば 覚めざるものを




「……とら、たか……とら……た……ら……高虎。」

腕の中の温もりと、自分を呼ぶ声に高虎は眠りから目覚めた。
瞼をあけると、直ぐそこに恥ずかしそうに頬を染めながら伏し目がちに、こちらを見ている名前の顔が間近にあった。

「……名前……。」

家のために自害した筈のかつての想い人が、何故此処にいるのだと高虎は彼女を見返す。彼女は寝衣を身にまとっており、どうやら自分も同じようで、ふたりして床の中にいるようだと高虎は辺りを見回し確認した。

「どうしたのですか?」

と黙りこくったままの高虎に不審に思ったのか、彼女はソッと高虎の頬に触れた。

「疲れが取れませぬか?御顔の色が優れませぬが。」

「……あ、いや……夢を……見ていたようだ。」

高虎は順調に出世を重ねた自分が彼女を娶って数年経つ事……そして、来年には待望の第1子が産まれることを思い出し、少し目立ち始めた彼女の腹に自分の頬を当てた。そんな高虎の頭を彼女は優しく撫でながら

「どのような夢だったのですか?」

優し気に問う彼女に高虎は自分が見ていた夢を話始めた。

「俺が出世してお前を娶ることになったんだが……お前が殿下と北条殿との板挟みになって……自害してしまう夢を見た。夢だったんだな……良かった。」

高虎は彼女の腹から頬を離し、腹を押さないように、今度は彼女を優しく抱きしめると

「どこにも行くな……俺よりも先に死ぬなよ。もし死んだら……閻魔と1戦交えても、お前を取り戻してみせる。お前と離れるのも……置いていかれるのは……もう嫌だ。」

と彼女の肩口に顔を埋める高虎に、彼の頭を撫でながら

「……何処にも行きません。何処にも……余程、怖い夢だったのですね……大丈夫。大丈夫ですよ。」

と微笑む。掌から伝わる温もりに安心した高虎は再び瞼を閉じた。

「もう朝ですよ。そろそろ起きねば……。」

「……嫌だ、もう少しだけこのまま……。」

と言う高虎に彼女は苦笑しながら

「困った父上ですね……。」

と自分の腹に手を置いた。
そうだ、あれは自分が見た悪夢で、現(うつつ)にはこうして自分の妻になった彼女がいる。
北条が秀吉にくだり、関東とも協調路線が取れ、秀吉主導の元、天下は泰平に治まっている。
主君の秀長も病気から快復し、自分と彼女のことを話した時は随分驚かれたが、手放しに喜んでくれたうえに、晩酌人になり多忙な身であるのに、この婚姻をまとめてくれたのだ。
彼女の輿入れに伴い、こちらに来た政岡も相変わらず渋い顔をしているが、何だかんだと言いながらも、生まれてくる子供の産着や襁褓(おむつのこと)を侍女と共に縫ったり、子供の学問指南役は、どの禅師(禅僧の敬称)に頼むかで頭を悩ませているようだった。
幼い頃、望んだことが全て自分の手の中にある。

(長政様……お市様……俺は幸せです。)

と瞼を閉じようした時、顔に痛みを感じ高虎は飛び起きた。
開いた目に飛び込んだのは、全身の毛を逆立てながら自分の手から逃れようと爪を立てている手負いの所を助けて保護した孕み山猫に、経典と書物に文机以外には何もない殺風景な自分の宿坊だった。

「……わるかった……わるかった。今、離してやるから……爪を立てるな。あまり怒るな……腹の仔に障るだろう。」

彼が眠っている間に床に入り込んできた山猫を無意識に抱きしめてしまったのだろう、自分の腕の中でもがく山猫を離してやると、立ち上がり障子を開けた。
山猫は一目散に、彼をふりかえることなく山の中へと消えてしまった。

「腹に仔を抱えているというのに……母というものは……人も獣も強いものだな。」


それを見守りながら、高虎は自分の鼻の頭に出来た山猫に作られた傷の大きさを想像しながら鼻の頭を撫でた。彼女を失い、追い打ちをかけるように敬愛する主君の豊臣秀長と秀保の両名を相次いで失った高虎は官位と領地を返上した後に出家し高野山にあがり、亡き主君と彼女の供養のために経を唱え、写経に没頭する日々を送っていた。
だが、世を離れ高野山に篭り、どれだけ経をあげよとも、写経しようとも彼の心は晴れることはなく、時折、先程の自分の願望とも、未練ともとれるような夢を度々見るのだった。

(…俺が大事に……大切にしたいと思う人は皆……俺より先に逝ってしまう……俺の手の届かぬ所に……。)

そう思いながら、高虎は障子を閉めた。
外では蝉の鳴き始める声が聞こえる。

「亡き君の 夢をば見たり 夏の朝 夢と分かれば 覚めざるものを(夏の朝に、亡き貴女の夢を見ました。夢と分かっていたなら……ずっと眠っていたのに。)……我ながら……とんだ生臭坊主だな。」

ボソリと呟き高虎は自嘲気味に嗤ったあと、文机に向かい写経をし始めた。
名も高虎から道賢と改めた彼が高野山に上がって2回目の夏を迎えようとしていた。
時は慶長5(1596)年のことであった。


=======

高野山にて隠遁生活を送る道賢のもとへ、秀吉の名代として生駒親正らが訪れたのは、京の伏見(現在の京都市伏見区)、大坂(現在の大阪府)、播磨(現在の兵庫県)、讃岐(現在の香川県)に大打撃を与えた―のちに慶長伏見地震と呼ばれる大地震が発生して1月も経たない慶長5(1596)年の秋口のことであった。

秋口とはいえ高野山は、下界より早い冬の訪れを匂わせており、自分の宿坊で生駒たちを迎えた道賢は、雲水(若い修行僧のこと)に火鉢を持ってこさせたが、それだけでは暖が取れる筈もなく、肌寒さに耐えながら彼らの話を聞いていた。

「佐渡守(高虎の最終職が佐渡守のため佐渡守と呼ばれていた)……いえ道賢殿もお変わりなく……。」

平伏する生駒に対して道賢は

「そちらは大変だったようですな。家中は御無事で?」

「はあ……家屋敷は跡形もなく崩れ去りましたが……我が家中では命を亡くすものはなく……ただ、あれだけ大きな地震でありますと……太閤殿下の御家臣の中にも数名犠牲者が出まして……。」

と生駒は言葉を切り、道賢を見た。

「先年、甥御の関白秀次公を……やむえない事とはいえ御自分の手で処され……今回の大地震……殿下はお気が弱くなっておられるのか……昔を懐かしむような事を良く口にされます。京や大坂が荒廃した今こそ、是が非でも……道賢殿には御還俗して頂き、殿下のために御働き頂きたいと……殿下もそれを強く御望みであれば……本日は再び豊臣に御尽力頂きたくお願いにあがった次第です。」

そんな生駒を見たまま、道賢はフッと笑うと

「有り難くも殿下からは、今年に入り何度か帰参するように文を頂きましたが……この道賢……もはや現には未練はありません。今はただ……亡き主君の菩提を弔う事こそが生きがいなれば……御話は有り難くはありますが……御辞退させて頂きたく存じます。それに……私は3度も主君の死に目に遭った不吉者……御傍に侍ることで……殿下にまだ早い死をもたらす事になるやもしれませぬ。」

言い切り、生駒に頭を下げた。
元々、秀吉を好ましく思っていない彼ではあったが、長政を始め、秀長、秀保を死という形で喪い続けた身とすれば、己の存在も彼らの死の原因に関与しているように感じる部分もあった。生駒に行った言葉は、秀吉への再仕官を断る方便でもあったが、半分は道賢の本音でもあった。

(俺が大切に思う人達は……俺より先に死んでしまうから……もしかしたら傍にいるだけで、秀吉にも早い死を招くことになるのかもしれん。それなら、もう独りでいい。)

長政とお市、秀長と秀保、それに

(名前……をただ想って生きていければいい。)

と心の中で道賢は呟き黙り込んでしまった。そんな彼に生駒はかけるべき言葉を失い、困り果てたように宙を見たが、はたと思い付いたように

「……左様でございますか……それほどに御決意がお堅いならば致し方ありませぬ。分かりました……ただ、道賢殿に是非お目にかけたい者を本日は連れて参りまして……よろしいですかな?」

生駒は道賢の顔を見た。道賢は不思議そうな顔をしたが頷くと、生駒は外に声をかけた。
その声に誘われるように障子が開くと、そこには平伏した若武者の姿があった。

「御久しゅうございます。佐渡守……いえ道賢殿。」

そう言って顔を上げた若武者は、名前の弟であり、苗字家当主のなった苗字諫早守清嗣であった。


=====

生駒の計らいで清嗣とふたりで話すことになった道賢は、あれから彼女の家がどうなったかを清嗣に尋ねた。小田原征伐の折も後方支援と形で豊臣方に参陣した清嗣とはろくに話が出来ないまま今日この日を迎えていたためだった。

清嗣の話によれば、名前が自害したことと、愛娘の自害を嘆き悲しんだ父の急死により、北条と豊臣の板挟みになっていた事態からは解放され、時局を見極めることが出来たこと、重臣たちと討議の結果、豊臣への服従を決め、北条の重臣に嫁いでいた叔母に夫を説得させ、味方に引き込むことに成功し、小田原征伐が始まる前に北条の情報を豊臣に流し、戦を有利に進めることが出来た功績により叔母の嫁ぎ先共々、領土の安堵が許されたこと、そして、豊臣と北条の両家の手前、遠慮していた名前と父の葬儀がようやくあげられたことなどを話した。

「そうか……よかった……本当に良かった。」

清嗣の話を聞き終わると、道賢は何度も頷き安堵したように笑みを浮かべた。
彼女が命をかけてまで守りたかったものは、今も此処にあるのだという事実が彼を安堵させていた。彼女が若い命を散らせてまで守ったのだから、そうでなければ甲斐がないというものだ。

(名前……良かったな。お前が命を捨ててまで守りたかったものは……今もあるぞ。)

心の中で彼女に語りかける彼に清嗣は懐から、皺のついた書状を取り出し彼の前に差し出した。それを道賢が手に取ると、懐かしい彼女の文字が綴られた。

「姉上が……貴方宛に書いた書状です。」

清嗣が告げた通り、それは道賢宛に書かれた書状であった。
書状の内容は、豊臣と北条の板挟みになった彼女の苦悩が綴られており、道賢を通して秀長に返答期日なんとか延ばしてもらえないかという内容だったが、道賢自身がそれを見た記憶がないこと、1度書いて丸めた時に出来るような皺があることから、それは書いたものの出されずいたものであることが分った。

「姉上は、あの時……北条の殿と太閤殿下との板挟みにあった時……本当に苦悩していました。ひとりで苦しんで……苦しんで……貴方に頼りたくて書いたものでしょうか……出してしまえば貴方を苦境に立たせてしまうだろうと……書いては丸め……書いては丸め……本当に……姉上は……。」

と言葉を詰まらせながら清嗣は続けた。

「姉上は……女人なのに……男以上の責務を果たし……見事に死んでいきました。姉上は死ぬ時に……国の、家の禍根になってはならないと……遺すことで不利になるような書状や書物は公的・私的……問わずに全て焼き捨てられましたが……それだけは……姉上の乳母の政岡が哀れに思って遺したものです。姉上は“死にたくて死ぬのではない”と申しておりました。“家のために死ぬのだ”と……どれだけ無念だったことでしょう……。」

清嗣は一旦言葉を切り道賢を見つめた。しかし道賢は黙ったままだった。

「どれだけ悔いても命を亡くしてしまってはどうにもなりません。けれども道賢殿は生きておられます。此処に現(うつつ)にいらっしゃいます。僭越ながら高野に籠り……亡き御主君の菩提を弔うのは……もう少しお年を召してからでも出来ることです。道賢殿……いえ佐渡守様が今すべきことは……殿下がお作りになり、それをお助けした御主君の築いたこの世をお守りすることではないかと、そう思います。」

一気に言い切った清嗣の顔を道賢は一瞬も見た後、何を思ったのか肩を震わせて急に笑い始めた。戸惑う清嗣にひとしきり笑った道賢は

「……いや、笑って悪かった。ただ……やはりお前ら姉弟だな。本当に嘘が下手だ。」

道賢は、清嗣の鼻先に先ほど渡された書状を付き付けると

「これ……アイツが書いたものと良くは似ているが……あいつの字にしては墨が少し濃すぎる……それに遺して困るようなものを……あの政岡が一時の些末な感傷で遺すわけがない。それがアイツに傷を付ける事になるのなら……猶更だ。そんなことを、あの政岡が許す筈がない……自分が殺されることになってもしないだろうさ……あの婆は。」

ヒラヒラとさせた後、書状を床に落とした。

「それに……アイツは……名前は1度だって政(まつりごと)で俺に頼ってきたことはなかった。アイツはアイツの国の重臣達を信じて、いつも奴らに相談しながら決めていた。俺の助けなんて始めから必要なかった。お前の姉は立派な領主預か……いや立派な領主だった。」

道賢は落とした書状を拾い上げ、清嗣に渡すと

「どうせ太閤殿下にでも何とか昔のよしみで泣き落としてでも俺を連れて帰れと言われたんだろう?違うか?」

清嗣の顔を覗きこみ、彼の頭を撫でた。清嗣は1度だけ視線を床におとすと溜息をつき姿勢を崩した。

「……御見通しでしたか……政岡が何故、貴方を毛嫌いしたか……今なら分かるような気が致します。これ……姉上の手習いを見ながら何回も書き直したんですよ。いけると思ったのにな。」

残念と呟き苦笑する清嗣に道賢は

「付き合いの長さだな。それに俺はアイツに心底惚れてる……アイツの考えること位わかるさ。助けて欲しい時ほど助けを求めない女だった。俺に迷惑をかけまいと1人で踏ん張って……笑って……笑って、笑顔しか思い出せないようにして逝っちまいやがった。」

少し鼻を啜る音がしたが、清嗣に背を向けて座る道賢の顔は彼からは見えなかった。
清嗣は床に大の字に寝転がると

「……還俗してはくれませんか?殿下、最近……怖いんですよ。俺も生駒様も手ぶらで帰ったらどうなることか……。」

弱音を吐くような、甘えるような声で言う清嗣に道賢は

「……アイツは俺に頼らなくても何とかしたぞ。お前もアイツの弟なら自分で何とかするんだな。まあ、もっと上手く立ち回らん事にはどうしょうもないかもしれんがな。人を欺きたいならもっと上手くやれ。俺ごとき欺けんようでは家の未来はないぞ。」

と道賢は文机に向かい写経を始めた。それをしばらく眺めたあと清嗣は諦めたように溜息をつき起き上がった。

「なら……道賢殿が還俗して俺に世渡りのイロハを教えて下さいよ。」

「……。」

清嗣は道賢の背中を見つめるが、道賢は何も言わなかった。
しばらく彼の背中を見つめた後、清嗣は立ち上がり部屋を出て行こうと障子に手をかけた……その時だった。

「……俺の指導は並外れて厳しいぞ。それに途中で投げ出すのは許さん……それでもいいなら引き受けてやるが……。それに……アイツが命がけで遺したものを消すわけにはいかんからな……どうもアンタじゃ……まだ頼りない。」

と道賢が言うのと、清嗣が振り返るのと同時だった。
清嗣の目には、もう僧侶である道賢の姿は映ってはいなかった、そこには、かつて猛将として知られた藤堂佐渡守高虎の顔をした男の姿があった。

その年の暮れ―道賢は還俗し、藤堂佐渡守高虎として再び豊臣政権に復帰する。
彼の帰参は大いに秀吉を喜ばせ、帰参したてであるにも関わらず彼に5万石を加増し伊予国板島(現在の愛媛県宇和島市)7万石の大名として、その地に封ずる。

慶長2(1597)年、明国(現在の中国大陸にあった王朝)との国際紛争である―慶長の役では水軍を率いて出兵し、朝鮮(現在の朝鮮半島は当時、明国の支配下にあり、秀吉は朝鮮半島から明国へ攻め込んだ)水軍を殲滅させることに成功。
朝鮮の官僚を捕縛し捕虜として日ノ本(日本)へ持ち帰るなど数々の武功を立てた。彼と共に清嗣もこの役に参戦し高虎を助けた。
高虎のこの姿は、2年ものあいだ高野山に篭って隠遁生活を送っていた人間のものとは思えず、敵味方ともに高虎の勇猛さを畏怖した。

慶長3(1598)年の夏―尾張(現在の愛知県)の百姓の倅から1代で身を起こし天下人にまで上り詰めた希代の人である太閤・豊臣秀吉が伏見城(京都市伏見区にあった秀吉の居城)にて正室の寧々並びに側室で浅井長政とお市の方の遺児である淀殿(浅井茶々)と彼女との間に出来た世継ぎである秀頼、豊臣政権の屋台骨である徳川家康、足軽時代からの親友である前田利家、腹心の石田三成らに見守られ薨去する。62年の権謀策略の人生に自ら身を投じ、栄光を掴み取った波乱の生涯であった。

秀吉の薨去に伴い、朝鮮半島から引き揚げ命令が出されたため出兵していた高虎達は帰国の途につく。文禄4(1592)年から始まった明国との6年間に及ぶ国際紛争は秀吉の生涯と共に幕を閉じることになる。

帰国後、高虎は徳川重臣と親交があった清嗣を通じ徳川家康に接近する。
高虎の内政手腕と築城技術を高く評価していた家康は高虎を歓迎し自身の家中へと迎え入れた。

秀吉が薨去して1年後の慶長4(1599)年に加賀国主であり秀吉の無二の親友であった前田利家が逝去。そのことにより、危ういながらも保たれていた豊臣政権の均衡は崩壊の一途を辿ることになる。

世は再び戦乱へと逆戻りを始めようとしていた。

政権の均衡を保つ役割を担う利家の死から間もなくして、徳川家康と豊臣恩顧の家臣団が対立、豊臣政権を保つためには家康は不要であると論じられ、家康もまた秀吉時代から自身が冷遇されていたことに加え、暗殺を企てられていたことに危機感を抱くと共に、我慢に我慢を重ねていた堪忍袋の緒が切れ対立派に宣戦布告する。

慶長5(1600)年、上杉征伐を経て関ケ原の戦(現在の岐阜県不破郡関ケ原町で起きた戦い)にて勝利した家康は朝廷より征夷大将軍を叙任され、江戸(現在の東京都)に幕府を開く―約260年の長きに渡る徳川政権の発足である。この時には完全に豊臣政権を離れていた高虎は、家康の家臣として獅子奮迅の活躍をすることになる。
関ケ原後に戦績を評価された高虎は20万石に加増される。
高虎は、その後、生涯で2人妻を娶ることになるが、それは同時にではなく先妻を亡くした後に再婚を勧められて娶ったというものであった。
2人目の妻が懐妊し、高虎は初めての実子を得る。待望の嫡男であった。その時の高虎の年齢は45歳であったと言われる。


また高虎は、江戸城の普請も任されるなど家康からの信任も益々厚いものになっていくのだった。この普請には清嗣も高虎の補佐として参加しており

「相変わらず……えげつない高さまで石垣を積み上げますね。」

と積みあがった石垣を見上げて呟く。石垣を積み上げるにも技術が要されるため、ただ積み上げればいいというものではないことを理解しているだけに清嗣は呆れとも感嘆とも取れる声を上げた。それを隣で聞きながら高虎は

「“石垣を 幾重幾重に 積み上げど 妹が住みたる 天には届かず”(どんなに石垣を高く積み上げたところで……貴女がいる空には届きません。それが分かっているのに今日もまた石垣を高く積み上げてしまう私を……貴女はどう思うのでしょうか?)。」

同じく石垣を見上げ小声で呟く。

「申し訳ありません……聞き取り損ねました。今なんと?」

と聞き返す清嗣に高虎は何でもないと言い小さく笑うだけだった。


時は流れて―豊臣が大坂の陣で滅亡し、天下は徳川に定まった。
翌年の元和2(1616)年に徳川家康が逝去。高虎は外様(代々の家臣ではない新参者を指す)ながら家康の枕に侍ることを許され、彼の死を看取った。

「天下の大事がある時は高虎を先鋒に立てよ。」

家康が自分の世継ぎであり2代将軍の秀忠に言い残した遺言であった。
家康亡き後も、高虎は徳川幕府に貢献し、藤原摂関家のように朝廷を操ろうと目論む秀忠が、自身の5女である和子を後水尾天皇のもとへ入内させようと画策。

高虎は朝廷との交渉役を任されるが、秀忠の度重なる公家・朝廷への締め付けに対し激怒していた後水尾天皇と朝廷の“徳川の娘など貰えるものか”という強固な拒否の姿勢を取り続けた。それに痺れを切らした高虎は『和子姫の入内が叶わない時は、この場で自害する』と血の穢れを忌み嫌う宮中で切腹しようとし、それに慌てた朝廷は渋々であるが和子の入内を認める他なかった。

この話は宮中で語り草になり、こんな暴挙を働く武士のいる関東など未開の野蛮な土地に違いないと宮中を震え上がらせた。その話は幕末まで語り継がれたという。

和子の入内には成功したものの、和子が生んだ皇子達は次々夭逝(幼くして亡くなること)し、秀忠の横暴に耐えかねた後水尾天皇は激怒のあまり、まだ7歳である和子の生んだ皇女の女一宮に天皇の位を譲位(位を譲ること)し、自身は上皇として政治の実権は譲らず、譲位前と変わらぬ権勢を振るうことになる。

女一宮は奈良時代の孝謙天皇(称徳天皇)以来、実に859年ぶりの女帝として即位する。後に明正天皇と呼ばれることになる女帝の誕生であった。女帝は皇統の正統性を保持するため生涯独身であることが義務づけられるのだが、明正天皇もこの例にもれず72歳で崩御するまで生涯独身であったという。和子の生んだ皇子達は夭逝し、明正天皇をはじめとする4人の皇女達はそれぞれ臣下に降嫁、生涯独身を貫くなどし、皇室に徳川の血が残ることはなかったのだが、意外にも後水尾上皇と和子と4人の皇女は仲が良く、修学院離宮(場所は現在の京都府京都市左京区)を共に訪れるなどし、生涯その睦まじさは変わることはなかった。
そのため、秀忠が目論んだ藤原氏のように朝廷を牛耳る計画は水泡きした。

更に秀忠は知らぬことだが、そんな彼に追い打ちをかける出来事が約200年後の明治12(1897)年に起こる。その年に誕生した第123代天皇である大正天皇の生母は歌人・柳原白蓮の叔母である柳原愛子であり、彼女の先祖は遡れば5摂家の1つである九条家につきあたり、その九条家に嫁ぎ柳原愛子の先祖にあたる男子を産んだのは高虎のかつての主君である浅井長政の3女・浅井江と秀吉の甥である豊臣秀勝の間に生まれた姫・完子であった。つまり皇室には浅井・織田・豊臣の血が入ることになる。徳川家がどうあがいても血を入れることが叶わなかった皇室に、滅ぼした豊臣の血が現代まで脈々と受け継がれていることと、秀吉のかつての愛刀である一期一振が、幕末に徳川家より朝廷に献上され今も祭祀で使われていることを秀忠が知れば、どんな顔をするのか……この事に対し歴史の巡り合わせの皮肉を感じずにはいられない。

その後、高虎は従四位下左近衛権少将の任官を受け、伊勢津藩(現在の三重県津市)に初代藩主として封ぜられる。石高は32万3000石の大名となっていた。

その後も、家康の菩提を弔うために自身の邸である藤堂家江戸邸内(場所は現在の東京都台東区上野恩寵公園内)に上野東照宮を建立、壮麗な権現造りや緻密な彫刻は華やかな色彩に彩られ、参詣する人々を圧倒したという。また江戸の庶民たちが参詣しやすいようにと東照宮が完成と同時に高虎は幕府に上野の邸を返上し、江戸向柳原(場所は現在の東京都千代田区神田和泉町)に邸を移す。

68歳の時に眼病を患い、75歳で失明した後も、高虎は築城や普請現場よく足を運んだという。

寛永7(1630)年、秋―。
普請の現場に足を運んだ際、長時間、水に浸かったことが原因で風邪をこじらせた高虎は江戸向柳の邸にて死去。享年75。戒名は寒松院殿道賢高山大僧都。
忌野際まで、嫡男の高次に家を治めるための家訓と徳川に忠節を尽くすように教え説いた最期であった。此処で、主君を7度変えた近江の小さな小さな村の土豪の少年だった高虎の数奇な運命の旅は終わりを告げることになる……。

さて、ここで高虎が生前、家中の者達に不思議に思われていたが、誰もその真相には辿りつくことが出来なかった2つの出来事を話そうと思う。

領地にいる時は家臣より早く起き仕事を始め、江戸に駐在している時は誰よりも早く登城し、下がる時は1番最後に下がると言われた高虎が、年に1度だけ毎年同じ日に役目を休み、茶室にて茶会を催すことがあった。元来、上役や家臣をもてなす事が好きだった高虎が茶会を催すなど珍しいことではなかったが、その茶会だけは変わっており、客は1度も現れたことはなかったのだという。不思議に思った高虎の妻子や家臣が尋ねるのだが、高虎はそれには答えず、ただ曖昧に笑っているばかりであった。そして、その茶会に際して高虎は必ず青い羽織を着用し、それがどんなに古くなっても、繕いの痕が目立つようになっても、見かねた妻子や家臣が新調するように度々進言しても、当の高虎は“これが良い”とだけ言い生涯その羽織を捨てることはなかった。この不思議な茶会は高虎が亡くなるまで続けられたという。

もう1つは、高虎が上野東照宮の別当寺として建立した寒松院(場所は現在の東京都台東区上野公園)についてであるが、寒松院の紋は徳川家の紋でもなく、藤堂家の紋でもなく、下がり藤に囲まれるようして堂の字が描かれていたものであった。
ある日、上野東照宮に参詣した折に寒松院を訪れた名前の弟である苗字藩初代藩主・苗字諫早守清嗣が、この紋を見た時に、大きく目を見開いたかと思うと、次の瞬間、大声をあげ地面に泣き伏したのだという。描かれた下り藤は苗字家の家紋と寸分違わぬ形であった。何故、高虎が下り藤を選んだのか、何故諫早守清嗣が泣き伏したのか……その理由を誰も知らない。誰も……。


=========


寛永8年(1631)年、苗字藩―。
苗字家の菩提寺―。

「そうですか……お亡くなりに……。」

この寺の院主(住職)は藩主の諫早守清嗣から、高虎の訃報を聞くと目を伏せた。
生前、高虎に世話になっていた清嗣は高虎の供養のために経を上げて欲しいと院主に頼みにきたのだった。院主も高虎とは何度か話しこともあるため快く引き受けた。
経を上げ、清嗣を見送ると院主は本堂にある御本尊の薬師如来の体内から螺鈿細工に彩られた蒔絵の箱を取り出し、寺小姓に庭に焚火を用意するように命じた。
焚火の用意が出来ると院主は人払いをし、蒔絵の箱を開けた。
中には何通もの起請文(神仏に祈願するための書状)が納めてあり、院主はそれを取り出すと

「姫様……藤堂の殿が黄泉路につかれたようでございます。姫様も……もうお逝きなさいませ……。今度こそ……手を離してはなりませぬぞ。」

と言いながら、1通、1通、起請文を炎の中にくべていく。
白い起請文は赤にのまれながら黒く姿を変え、白い煙となり天に昇っていく。
それを院主は見上げながら再び経を唱えるのだった。

院主が火にくべた起請文が、名前が高虎のために14年間……自害する時まで、ずっと彼の無事を願い書き続けていたことを……その中身が


“高虎の命が危ない時は、代わりに私の寿命を全て差し上げますから……どうかどうか高虎を長生きさせてください。どうかどうかお願いいたします。どうかどうか……。”


と綴られていたことを、今はもう神仏と院主以外は……誰も知らない……。
誰も……。



――それはゆめのようにやさしい




BACK