私は一度死んだのだと思う。掌を広げて、皮膚の向こう側にある血管を透かしてみるが、そこに答えはない。どうして己のことなのに曖昧な表現をするのかと、訝しがられるかもしれないが、世界は私の意思とは関係なく破壊と再生を繰り返していて、それらは私の与り知らぬところで決していく。私個人の生死ですら例外ではない。平凡に生きてきた身である。死にたい訳では勿論無かったが、何としてでも生きていたいほど、私はこの世に執着していなかったような気がする。すべて、他人事みたいだ。私の生は数日前に始まった。それ以前の記憶は奇麗に揃っているのに、実感が伴わないのは、気鬱しているだけだろうか。暮れていく空は一瞬だけ愛しい人の目の色になる。それを見て、逢いたいと泣いた私のところに、文字通り飛んできてくれる程度には、私の恋人は優しい。電話をしてよかった。普通の人間には考えられないくらい、普通じゃない彼には暇な時間が沢山あるのだ。
「どうでもいいじゃないか、そんなこと」
あっけらかんと彼は結論した。私は本当に私なのだろうか、なんて。ある種とても普遍的な悩みに共感できるほど、平坦な道のりは歩んできていないのだ、人造人間17号は。むしろ、拉致されて、改造されて、記憶も無くして…なんて散々な来歴の相手を捕まえて、自我の話をするあたり、私の性根の悪さは筋金入りと言えるかもしれない。気を悪くした様子も無く、17号は何度も聞いたような鮮度の薄い話題ばかりになってしまったニュースを消した。
「大体、お前が別人だったら、俺を呼ぶなんて可笑しいじゃないか」
それが少しも変ではないのだ、ということを説明するのは、非常に骨の折れる作業になりそうだった。恋人がいたら、頼ってみたくなるのが人情ではないか。それも決定的に好みのタイプで、おまけに知り合ってから今までの親密な記憶はあるのだから。私は現時点で17号が大好きだが、これは彼のことを考えると勝手に発生し、増殖を続けていく感情のバグみたいなもので、常に一定の鮮度を保っている。例えばもう一度私が居なくなって、また次の私に作り替えられても、同じように彼を好きでいるだろう。そう思うと鳩尾のあたりが疼いた。主観的過ぎて、上手く伝えられないだろうが、このあたりの事情は私の存在証明とはあまり関係がない。
「生きてるだけで丸儲けとしようぜ」
話に幕を引くように、17号は伸びをして見せた。お手上げ、という訳。確かに昨日の私と今日の私が同じであり、それが明日の私と同様であるかなんて、確かめようがないし、誰にも観測できないのだから。人間は今しか認識できないが、その今でさえ突き詰めて考えれば一番近しい過去である。世界が一秒ほど前に突貫的に構築されたとして、誰が気付くというのだろう。記憶は容易く改竄され、未来は過ぎ去ることで我々を裏切るだろう。生きることは痛みを知ることだと誰かが歌っていた。
「そうだね、17号にまた逢えたんだもんね」
自分に言い聞かすように呟く。17号は満足そうに頷いた。端役にすらなれない私と違って、いくらかこの世界の主役たちに近いところにいるであろう青年の、翡翠の両眼が輝いている。自己に唯我を感じられぬ私が触れ得るただ一つ確かなもの。先刻私は、この男を喪うのが怖くて泣いたのだ。
「とりあえず17号が生きている間だけ、生きていたいな」
アンドロイドの寿命なんて知らないけど。それより先は必要ない。私に未練があるとすればそれは彼をおいて他になく、それはこれから先変わっていくかもしれなくても、今のところは絶対唯一だ。この間死んだ私の、エキストラタイムみたいな余生。
「よくわからないことを言うヤツだ」
17号は独りごちると、ごろんとソファーに横になった。私は猫にでもなったような心地で、仰向けになった彼の上に乗る。覆い被さった、といったほうが表現としていくらか正しいかもしれない。
「泣いたり甘えたり、大変だな」
揶揄して目を細める17号は愉しげだ。本当の名前なんて無くても、機械の身体でも、人は笑えるし、考えるのだという当たり前のことを、私は彼から教わった。自己確立なら私より17号の方が余程巧みに為し得ている。現状の己が一分前とは別人であったとしても、彼は在るがままを肯定するだろう。そう在って欲しいと願うとき、私はそのことを愛おしくも羨ましくも思うのだ。
「恋をするのは大変なことなんだよ」
それから、生きることもね。17号の手を取って、先程自分の掌にしたようにじっくりと観察する。私のものより厚そうな皮膚の下に確かに血筋が走っているを、奇妙なことのように眺めた。



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