彼は神様のような人だった。突然私の前に現れてそっと手を差し出してにっこりと微笑んでくれたの。これからは僕が相手になるよと私の汚れた手を躊躇することなく掴んで離してくれなかった。だけど、もう、いない。やっぱり神様という存在は最終的に私の手の届かない場所に行ってしまうのだ。絶対に届かないとても遠い所へ。


高校一年生の時、私の後ろの席に真冬が転入してきた。真冬は授業中も休み時間も妙に殺気を飛ばしては真冬の隣の席に座る早坂をビビらせているので何だか笑えてくる。その殺気はただの勘違いだったわけだけど。元気のいい真冬とそれに一匹狼の不良だった早坂も巻き添えにし、そして私が真冬の前の席というだけで結局私達はいつも一緒にいるようになった。それでも私達が常にお互いを見ているわけではない。真冬にも早坂にも隠し事があるように私にも秘密があった。ただ肩がぶつかっただけで気に入らず、無性にむしゃくしゃした時は適当に強い男を探す。不良グループというのは女が一人で喧嘩を売ると決まって最後は身体の関係を要求してくるのだ。結局その場にいる全員を潰すので私の身体はそう易々と渡していない。もっとも、殴る蹴るの喧嘩をしてくるので無傷ではないのだが。

「ダメじゃないか。女の子が喧嘩だなんて」

人気がない校舎裏で寝そべっているときらきらとした眩い微笑みが私の顔を覗き込んできた。明らかに今の時間は授業中。こんな時間に教室から出てうろうろしているのは私と同類だけだろう。寧ろ、何故彼がこんなところにいるのか疑問を抱く。

「まさか、生徒会長が授業をサボるとは」

「おかしいかな?僕も授業が退屈だと思う日もあるよ。ああ、それはいつもか」

クスクスと笑ってから彼はそっと私に手を差し出してくる。あのどんな人物も虜にしてしまうという眩しい微笑みに無意識に手を伸ばすが、すぐにハッとしまた手を引っ込めた。

「大丈夫です。一人で立てますから」

「そうだね。苗字さんは強い子だから」

そう言った瞬間、ぐっと私の手が引っ張られて起き上がった私の背中に彼が優しく手をそえる。彼の手から逃れようと騒ぐ私を気にせず彼は自分の制服が汚れることも構わず地面に膝をついた。

「僕はこの学校の生徒会長だから生徒のことをちゃんと知ってるよ。苗字さんのことも普段はおとなしいけど影で喧嘩していることも分かってる。それを咎める気はない。だけどね、」

一度私から手を離した彼が制服のポケットから真っ白いハンカチを取り出しそれを私の唇に優しく当てる。私が逃げ出さないように反対側の手で私の頬を包むように触れた。

「女の子が顔に傷を作るのは許しません」

有無を言わせない微笑みが私に向けられる。至近距離で見つめられると頭の中がこのハンカチのように真っ白になりそうだ。これが噂の生徒会長の眼力というやつなのかもしれない。私はあまりにも近い彼との距離に思わず視線だけを外す。本当は彼のことを退けてしまえばいいのだが、先程寝そべっていたように私の身体は喧嘩のせいで傷つき鈍く重いのだ。だから、彼の手から逃げられないのもそのせいだ、きっと。

「早く手当てしないと傷痕が残ってしまうかもしれないね」

言った側から私の身体が宙に浮く。彼は私の膝裏と背中にしっかりと腕を回してからスタスタと歩き出してしまった。

「じ、自分で歩けます!それに、このくらいの傷なら痕なんて残りません!」

「そのわりには酷くぐったりしていると思うけど?」

「してません!平気です!」

学校一有名人の彼にお姫様だっこされたと周りに知られれば後々面倒なことになる。それに、彼の付き人というか忍者が一番しつこく私に尋問してくるに違いない。しかし、彼はどんなに私が腕の中で暴れてもただ楽しそうに声を出して笑うだけだった。


彼と出会した数日後、何故か真冬と早坂から風紀部という謎の部活に勧誘された。しかも、顧問は私達の担任である恐ろしすぎるあの佐伯先生だというではないか。勿論嫌だと断ったのだが、そのまた数日後、恐るべく佐伯先生の力により半ば強制的に入部させられたのである。

「どうしたの?悩みごと?」

「生徒会長はいつも授業中ふらふらしていらっしゃいますが授業はよろしいんですか?」

またお決まりの微笑みだけが返される。今日の私は勝手に校舎の屋上に忍び込みただぼんやりと青い空を眺めていた。勿論、今は授業中。彼は否定も肯定もせず私にならいフェンスに背を預けて空を見上げた。毎度授業を抜け出して校舎の中を自由にうろうろできるとは流石理事長の息子。好き勝手ができて羨ましい。

「怪我は治ったみたいだね」

「大した怪我ではなかったので」

先日彼に無理やり保健室に連れて行かれ、彼直々に手当てまでしてくれたのですっかり治った。ちなみに、保健室には保健医がいたけど彼の自慢の眼力により彼の言いなりと化していた、かわいそうに。

「そういえば、風紀部に入部したんだって?」

「よくご存知で」

「僕は生徒会長だからね」

どうやら生徒会長というのは生徒とのこと全てが丸分かりのようだ。彼は空から私の顔を覗き込むとまた微笑みを浮かべてみせた。

「それじゃあ苗字さんはこれからもう喧嘩ができないね」

「そう、でしょうか?」

「だって、校内の風紀を正すのが風紀部の仕事。それを風紀部の一員である苗字さんが破るわけにはいかないと思うけど」

ぐっと私は押し黙る。彼の言葉は間違っていない。恐らく佐伯先生もそれを分かっていて私を風紀部に入部させたのだろう。ということは、真冬も早坂も佐伯先生に何やら嵌められたのかもしれない。佐伯先生は人の弱みを握るのが得意なので。

「顔に傷を作ると生徒会長にまたお説教されそうなのでおとなしくしていますよ」

「よかった。それなら僕も安心だ」

別にこれから先喧嘩ができなくなっても構わない。とは言いたいが正直無性にむしゃくしゃした時困る。私にとって喧嘩はストレス発散であり拠り所でもあったのだから。

「ああ、そうだ」

ふと、名案だと言わんばかりに彼が左手の上に右手の拳をポンと軽く叩く。それから私の心の中を読んだかのような言葉を私に向けた。

「これからは僕が相手になるよ。苗字さんの相談にも乗るし喧嘩がしたいなら僕が相手してあげる。だから苗字さんも僕のことをちゃんと頼ってね」

人の心に敏感すぎる彼に対し私は何故みんなこの人の背中を追うのか分かった気がした。授業終了の予鈴が鳴り響く。彼はその場から立ち上がると隣に座ったままの私に手を差し出した。

「ほら、次の授業にはきちんと出ないとね。風紀部さん?」

差し出しされた手は私が手を伸ばす前に掴まれてしまう。神様みたいな人って本当にいるんだ。私は彼に尊敬を抱いてしまったのだった。


風紀部や教室で顔を何度もあわせるものだから真冬とずいぶんと親しくなった。元から親しくもあったけど佐伯先生がこの風紀部を作った理由や真冬の生い立ちなども知る間柄になったのである。佐伯先生は前理事長の孫。その前理事長から学園の土地が欲しいばかりに彼の父である現理事長が奪ってしまったと。そして佐伯先生は学園を現理事長から取り戻そうと現理事長に戦いを挑んだとのことだった。確か、学園の入学者数を佐伯先生が増やすという内容だったと思う。つまり、彼も現理事長側の人間である。彼と佐伯先生の事情を知っても私と彼はお互いに何も触れなかった。あれから私がまともに授業に出ているので、彼との逢瀬は数日に一回の放課後に続いている。続いているというか、学校が終わり私が寮に戻ると彼が夜に私の部屋まで勝手に忍び込んでくるものだから断りようがない。高校二年生に進級してからも私はおとなしくしているのだからもういいかげん私から目を離してくれてもいいのに。それなのに、彼は責任感が強いらしく私を気にかける。

「こんばんは。今日はお土産もあるよ」

よっと靴を片手に窓から入ってくる彼に私は苦笑いを浮かべる。彼は慣れたように私の部屋の隅にある通称雅様専用の靴入れという名のカラーボックスの中に靴をしまう。テーブルの上にドサドサと遠慮なしに置かれるお菓子の山は昼間由井が購買で大量に買い込んで彼に献上したものらしい。その由井からの献上品が私の元に持ち込まれるのだから由井に同情する。

「あの、いつも思うんですけど、ここ女子寮なんですが」

「バレなければ大丈夫だよ」

早速お菓子の一つを口に入れてから相変わらずの眩しい微笑みを浮かべてしまう彼に私は短く息を吐く。おぼっちゃま育ちのくせに自由奔放の彼の行動にすっかり慣れてしまった私は軽く注意だけして終わるようになってしまった。ちなみに、この間彼が私の部屋を訪ねた時にたまたま私に用事があった北条が部屋の扉を開けたので彼は大慌てで私のベッドに潜り込み私も急いでベッドの布団に足だけを入れて今まで本を読んでいた体勢を作り、何とか北条の目を欺いたという事件に遭遇したのである。北条が部屋から去ったあと彼は布団から出るなりドキドキするねと嬉しそうに言っていたが私はドキドキよりもヒヤヒヤだった。というか、北条だけではなく生徒会の面々に生徒会長が夜な夜な女子寮に忍び込んでいると知られたらどうするつもりなのだろうか。危機感のない彼に本当に困る。

「そういえばそろそろ引き継ぎの時期だね」

まるで他人事のようにさらりと言われた言葉に私は胸の奥がチクリと痛んだ。彼の言う引き継ぎとは生徒会の引き継ぎのこと。つまり、彼は生徒会を誰かに引き継ぎさせたその半年後に卒業する。そうすれば、私が彼と会うことなどもうないだろう。

「生徒会長が変わるなんて今まで想像していませんでした」

「僕もずっと生徒会長というわけにはいかないからね」

次の生徒会長は誰になるのだろう。高坂はマニュアル人間すぎて不安だし、雪岡も人を動かせそうだけど何か違う。綾部はめんどくさそうと嫌がるだろうし、個人的には野々口か北条あたりが次期生徒会長になりそうな気がする。

「これは内緒だけど、次の生徒会長は若菜にしようと思っているんだ」

やっぱり北条かと思う。北条なら昔から彼の側にいて信頼も厚い。もっともな人事配置だろう。

「生徒会長、秘密のことを他人にぺらぺら話すものではありません」

「おまえだから言ったんだ。だからね、おまえが誰かに言わなければいいんだよ」

私の意見など聞いてくれない彼に、ああまたかと思いつつも許してしまう私はどうかしている。彼の自由奔放さに慣れすぎだ。

「僕の秘密をおまえに言っても問題ないからね」

まるで口説き文句のようなそれを口にしながら彼はほんの少しだけ微笑みを崩し悲しそうな表情を浮かべていた。彼が佐伯先生と敵同士なのは何か理由があるのかもしれない。単純にそう思う。出会ってから初めて見る表情を見つめていると小さな違和感に気づく。だけど、その違和感の正体は分からなかった。


月日は流れて、いよいよ彼が生徒会長を引退した。次期生徒会長は彼が私に告げたように北条になったのである。今まで色々といざこざがあった風紀部と生徒会だがこの頃には一先ず落ちついたと思う。これから三年生は本格的に大学受験に向けて励んでいくようだ。我が風紀部の一員でありかつてこの緑ヶ丘学園の番長であった桶川でさえも。あ、桶川は二度目の大学受験になるんだっけ。

「生徒会長、そろそろあなたも受験勉強に励んだほうがよろしいのでは?」

本日の夜も私の部屋の窓がガラッと開いたので私は窓の向こうに声をかけてやった。相変わらず片手に靴を持ちながら部屋の中に入り込んでくる彼は私の言葉に微笑むだけ。

「そうだね。桶川くんも頑張っているし、僕も頑張らないといけないな」

とか言いつつも彼に帰る気配がない。カラーボックスに靴をしまった彼はテーブルの前に座り頬杖をつきながら勝手にテレビのリモコンを操作した。

「北条に言いつけてやりたいです。うちの生徒会長が受験勉強もせず私の部屋にあがりこんでくるって」

「それを知ったら若菜はすごく怒るだろうね」

「由井は怒らないけど生徒会長と一緒になって私の部屋に入り浸りそうです」

二人の行動を頭の中で想像したらしい彼がクスクスとおかしそうに声を出して笑う。実際そうなったら笑い事で済まないことを彼は分かっているのだろうか。

「とりあえず、今日だけは特別ですよ」

私は自室に備えつけてある小さな冷蔵庫からケーキと紅茶を取り出す。ケーキ屋で買ったショートケーキとコンビニで買ったペットボトルの紅茶を彼の前にポンと置いた。

「長い間、お疲れ様でした」

彼の瞳が少しだけ大きく見開いたと思えばすぐに細めて嬉しそうに笑う。いつもの綺麗な微笑みではない破顔した彼に、それが私をどうしようもなく嬉しくさせた。

「そうだ。おまえに訂正しておかなければならないことがあるんだった」

思わず何だろうと首を傾げると、彼はケーキにフォークをさしながら言った。ケーキの甘い香りが妙にくすぐったい。

「僕はもう生徒会長じゃないよ」

「知ってますよ、そんなの」

「だからね、僕のことを生徒会長と呼ばないで」

確かに、元とはいえ今日から生徒会長ではない人に生徒会長と呼ぶのはおかしい。しかし、出会ってからずっと生徒会長と呼んでいたので今更変えるのも何か変な感じだ。

「それじゃあ、雅様、とか?」

「おまえに雅様と呼ばれるのはちょっと」

学校中で呼ばれている名を口にすると彼は苦笑いを浮かべてしまった。もっとも、私も雅様と呼びたくない。彼は神様みたいな人だけど、何か違う。

「華房先輩。これならどうでしょうか?」

「僕が思っていたのと違うけど、それも有りかな」

彼は少々不満そうだったが、これはこれで許してくれるようだ。ちなみに、彼が私にどう呼んでほしかったのかは彼が帰る直前になっても教えてくれなかった。


季節は巡ってまた春がやってきた。高校二年生になってから訪れる二度目の春は別れの季節を意味している。それは例外ではなく、彼も。三月に入ってから真冬は連日桶川の卒業についてぼやいていた。他にも桶川の子分達もそれぞれトップ達の別れを惜しんでいる。ああ、違うか。桶川と後藤は悲しまれていたけど河内の卒業だけは喜んでいたと思う。

「華房先輩」

「よかった。来てくれたんだね」

「いきなり伝言を聞かされて驚きました」

今日の逢瀬は授業中の校舎裏という伝言に正直驚いた。ちなみに、彼からの伝言を私に伝えに来た由井が心底憎らしげに睨みつけてきたので当分由井に呪われることを確信している。

「三年生は自由登校だからいいですけど、私はそうもいかないんですよ?」

「あれ?ちょっと前までは散々授業をサボっていたのに、まさかおまえの口からこんな言葉が出る日が来るとはね」

心底驚いたと言わんばかりに大袈裟なくらい態度に示す彼に私は思わず唇を尖らせた。でも、そこから私を引っ張りあげてくれた彼に感謝している。私が今こうしてきちんと彼に向き合えるのも、全部、彼のおかげだ。

「それで華房先輩、」

「僕は東京の大学に行く」

何の用事かと尋ねる前に彼はさらりと口にした。今、彼は何を言っただろうか。彼の言葉を何度も頭の中で復唱するうちにようやく意味を理解してきた。

「卒業する前に、ちゃんとおまえに言っておきたかったんだ」

ズキリと胸の奥が痛み出す。そういえば、彼が生徒会の引き継ぎの話をした時もこの痛みを感じたと思う。ゆっくりと息をする。それから震える手をきゅっと握りしめてから彼に笑顔を向けてやった。

「おめでとうございます、華房先輩。東京に行っても、どうぞお元気で」

心の底から祝福しているはずなのに、妙に胸がざわついて仕方がない。喧嘩したいわけではない、それとは違う。だけど、頭がガンガンする。唇が震えてくる。笑え、笑えと自分に言い聞かせているのに身体が言うことを聞いてくれなかった。

「かわいいな、おまえは。本当に」

すっと伸ばされた手が私の背中と頭にまわる。気がつけば彼の胸に顔を埋めていた。彼の心臓から規則正しい音が聞こえてくる。だけど、それ以上に私の心臓の音が私の耳にうるさいくらい響いていく。私、変だ。今まで感じたことのない感情に私はただただ戸惑うばかりだった。


卒業式が終わった。在校生はそれぞれ三年生との別れを惜しむのに忙しい。桶川と後藤は何故か制服のボタンがみんな剥ぎ取られていたが残念ながら河内だけはちゃんと全部残っている。かわいそうに思って記念にと河内にボタンを強請ったら全部のボタンをむしり取って私に押しつけてきた。いや、こんなにいらないんだけどね。そして、彼も今日でさよならだ。彼は神様のような人だった。突然私の前に現れてそっと手を差し出してにっこりと微笑んでくれたの。これからは僕が相手になるよと私の汚れた手を躊躇することなく掴んで離してくれなかった。だけど、もう、いない。やっぱり神様という存在は最終的に私の手の届かない場所に行ってしまうのだ。絶対に届かないとても遠い所へ。その証拠に、私は彼と会うことが叶わずさよならすらも言えていないのだから。

「苗字、おまえなんか変わったよな」

「変わった?私が?」

「入学してきた頃はピリピリしてただろ。それは早坂もか。だけど、今は丸くなったよな」

ふと、後藤が口にした言葉に私は少しだけ考えてみる。確かに、彼と出会ってから喧嘩はしていない。変わったと言われると、否定はできなかった。

「綺麗になったよな、おまえ」

桶川の気なしに言った一言にその場にいた全員が固まった。事態に気づいた桶川が必死に抗議するがそれを河内が許さないのである。

「いいかおまえら!これから桶川さんの代わりに名前姐さんのことをしっかり守れ!これは最後の番長命令だ!」

ハイッと威勢のいい返事をされても迷惑でしかない。河内に憤る桶川に祝いだ祭りだと騒ぐ子分達、哀れみの目を私に向ける早坂と、祭りなら私も行くと見当違いの言葉を言う真冬。最後まで騒がしい不良達に呆れていた時だった。

「悪いけど」

突然の第三者の声に後藤が小さく声を上げるのと同時にその場にいた全員がこちらを振り向く。一方私はぐいっと強い力に腕を引かれたので何事かと視線だけを向けた。

「これ、僕のだから」

相変わらずのきらきらした微笑みでとんでもないことを口走る彼にその場がシーンと静まり返る。彼はそんな場の空気なんか気にせずおもむろに制服の第二ボタンを取るとそれを私の手に握らせた。

「え、」

ボタンと彼を交互に見つめると彼はにこやかに笑う。それから彼は制服のポケットから何やら紙切れを取り出し私の目の前に突きつけた。

「これを渡そうと思っていたのにおまえがちっとも見つからなくて困ったよ」

「華房先輩、あの、それって、もしかして?」

「もしかしなくても婚姻届だけど。それがどうかしたの?」

私が驚きに声をあげるのと同時にその場にいた全員が声をあげる。ああ、違う。今木の上から落下してきた自称忍者もいるので一人増えた。

「どういうことか説明してくださいよ」

「説明も何も、僕はずいぶんと前から行動で示したと思うんだけど」

「行動?」

「ああ、そうか。おまえは自分の気持ちにも気づいていないみたいだから、僕の気持ちに気づかないのも当然かもしれないね」

ぱちぱちと瞬きを繰り返す私に彼は心底おかしそうに笑っている。彼に気づいて私に気づかないこと、そんなのあるはずない。私の気持ちは、彼が私から離れていき遠くへ行ってしまう。それが寂しくてたまらないのだ。

「どうせおまえのことだから僕と離れるのが寂しいとしか思ってないんじゃない?」

「え?違うんですか?」

「本当は僕の口から言いたくなかったんだけど」

彼が苦笑いを浮かべる。私の腕を離したかと思えば私の手を取り自らの胸に手を当てた。触れた場所がすごく熱を持っていく。彼の心臓から響く早い脈に私も自分の手から伝わりドキドキする。恥ずかしいような、嬉しいような、そんな気持ちになった。

「おまえは僕に恋しているんだよ。そして、僕もおまえに恋してる。だから、いつかおまえの心が僕から離れていかないようにこのまま繋いでおこうと思ってね」

きっと今、私は彼に小っ恥ずかしい台詞で口説かれているのだろう。だって、意外にも女子力高いコンビである桶川と早坂が顔を真っ赤に染めて立ち尽くしているのだから間違いない。

「私は、」

恋って何だ。まずはそこから分かっていない。だけど、彼と離れるのは寂しいしもう二度と彼に会えなくなると思うと胸が苦しくなる。あれ?これが恋なのかな。分からない、分からないけれど。

「華房先輩に嫌われるのは、嫌です」

素直に思った言葉を口にした瞬間、ぼっと顔から火が出そうになるほど耳の先まで熱く火照っていく。そして、何故だか泣きそうになる。

「ほらね、おまえは僕に恋してる」

いいかげんにしろと後藤が騒がしい。それに全く動じない彼はある意味すごいと思う。未だに彼の心音と体温が彼の胸と私の手を通じて私に流れてくる。

「それで名前、返事は?」

ようやく違和感の正体に気がついた。彼は私に対しての好意を行動で示したと言っていたのだが、恐らくこれだろう。始めは他人行儀に私を呼んでいたのに、いつからか親しみを込めるようになった。そして、今度はしっかりと分かるように私の名前を呼んでくる。きっと、あの時は私に彼の名前を呼ばせたかったのかもしれない。自惚れなら困るけど。私はゆっくりと足を踏み出して彼の胸に顔を埋める。恥ずかしさに震える手を彼の胸板にそっと置いてから口を開いた。

「雅さんといたいです」

その瞬間、私の背中に彼の腕が回る。不良達の祝福の雄叫びの中、彼が嬉しそうに笑っている。やっと僕のこと呼んでくれたね、耳元で囁かれた言葉に私の答えが正解であることを自覚しそのまま彼の体温に溶かされながら目を閉じたのだった。



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