彼が船員にもふられるに至った理由




 イドルフリートは猫である。この大層な名前は彼の縄張りに住んでいる男が付けた。
 イドルフリートは気位の高い猫である。だから飼い猫などという位置には甘んじず、気高く野良として生きている。
 だがその気高さを讃えて贈られる貢物を撥ねつけるほど非情ではない。だからその男が時折寄越す魚やら肉やらミルクやらもやぶさかではない。そうした食べ物のおかげで毛並がつやつやになるのも誇らしい。
 イドルフリートは猫の例にもれず、愛らしい愛らしいと人間どもから甘い目で見られて育った。だがそうした生き方を恥と思った事は無い。楽しく生きる事こそ至上の目的であり、そのためにいくら生活が楽になったところで誰が困るのだろうか? いや誰も困らない。
 道を歩けば通りすがりの頬がほころび、毛繕いをすれば可愛いと声がかかり、しっぽをなめていれば周りの人間が悶えかえる。


 そういうわけで、今日もイドルフリートは自慢の尻尾をふりふり、自分の縄張りの見回りに精を出すのであった。



 「よおイド。元気か?」

 そして現れたるが件の男である。名をコルテスというらしい。
 イドルフリートという名前を付けたのは彼だというのに、彼自身はそう呼ばず「イド」と縮めて呼んでくる。長いのなら最初からイドと名付ければいいのに、人間とはわからないものである。
 無遠慮に手を伸ばされ大きな手で頭を撫でられる。コルテスは長い間イドルフリートに貢ぎ続けた結構な人間なので、頭ぐらいなら撫でさせてやることにしている。だがそれ以上、たとえばお腹に手を伸ばして来たら爪が出るかもしれない。まだされたことがないからわからないが。

 それにしても真昼間からのんびりと散歩をするとはいい身分である。それでも生活に困ってる風はないから、本当にそれなりの身分なのだろう。
 コルテスはしばらくイドルフリートの頭を撫でた後、満足したのかにかっと笑って手を放した。毛並が乱れたのかもぞもぞ頭を梳いていると、可愛いなあと気持ち悪い声が聞こえた。気持ち悪い。

 「そうだイド、今日はお前にこれをやろうと思ってたんだった」

 ひとしきりイドルフリートを眺めた後、思い出したようにコルテスが言った。また食べ物だろうかと耳を動かしたが、彼が取りだしたのは小さな箱だった。ぱかんと開けると、中からさらさらした物が零れだしてきた。

 「イド、動くなよ」

 そういうと、彼はそのさらさらした何かをぱっとイドルフリートの首に回してきた。なんだなんだと思う間もなく首の後ろできゅっとむすばれる。
 苦しくはなかったが訳が分からない。思わずきょとんと見上げると何故かコルテスは「どうだ!」という顔をしてきた。

 「やはりな! お前には赤が似合うと思ったんだ。これから忙しくなってなかなか構ってやれないからな」
 イドルフリートは猫であるので赤がわからない。が、このさらさらしたものは気に入ったのでまあ付けていてやってもいいだろう。
 それよりも、この年中暇人が忙しくなると?
 天変地異か、この世界が終焉に向かって走り出す前触れか。
 にわかには信じられないでいる間に、当の本人は手を振って何処かへ行ってしまった。人間は勝手である。
 だが、コルテスが忙しくなろうが物語を探していようが雷神の一族であろうがイドルフリートには関係のないことである。そう思い直してイドルフリートはふんっと鼻を鳴らした。



 それからである。
 今までのんびりぼんやりしていたコルテスの屋敷は突然騒がしくなった。
 入れ代わり立ち代わり人間が玄関を出たり入ったり、コルテスも出かけたと思えばすぐ帰ってきたり。
 忙しいのは本当らしく、イドルフリートを見つけてもさっと頭を撫でてすぐ行ってしまう。いつもならくだらないことを猫相手に延々喋っているのに。

 それにしてみても、縄張り内に見知らぬ人間が多数出入りするのは不快なものである。それだけであって、構ってくれないのがさみしいわけでもなんでもない。誇り高く繊細な猫の縄張りに見知らぬ他人がうろついていることがいらいらむかむかするだけだ。
 この洪水のような期間が早く終わってほしいものだとイドルフリートは思った。それで、またコルテスが暇そうにしながら美味しいものをくれればいい。
 いらだたしげに地面を尻尾で叩きながら、腹いせに屋敷の柱で爪を研いでやる。何故だかこの頃爪とぎが増えていることにイドルフリート自身は気づいていない。
 がりがりぺしぺし。
 屋敷にとってもイドルフリートにとっても受難の季節である。




 そんな一点集中型の竜巻のような日々は、ある日突然終わりを告げた。



 今日はなにやら静かだな、とイドルフリートは思った。
 嵐の前の静けさ、海の魔女が歌を歌おうとすっと息を吸い込んだ、その一瞬の静寂。
 あんまりに静かになったので、本当に嵐でも来るのではないかとイドルフリートは顔を洗ったが、それは迷信である。
 ただ、凪いでいるのはいいことだ。
 いつもよりうきうきと見回りを済ませ、懲りずに縄張りに入り込んでくる侵入者たちに華麗なねこパンチを食わらせる。今日は2匹倒した。ますますテンションが上がる。
 最終目的地であるコルテスの館の前には誰もいなかった。久しぶりにゆっくりと広がる芝生の上に横たわる。この時間は見回りご苦労様とばかりにぽかぽかと日差しが差してとても暖かい。あっという間に襲ってきた眠気に抗う事もせず身を委ねようとしたその瞬間、
 「おおイド! 久しぶりだなあ」
 成程、神は絶えず難事を降らすのである。何処から見かけたのかいそいそと寄ってきたコルテスがよしよしとイドルフリートの頭を撫でた。若干いつもより手荒な気がしないでもないが、まあそこはそれ、久しぶりという事で許してやることにした。ただでさえ陽だまりがぬくぬくで上機嫌なのである。いちいち腹を立てていたら勿体ない。
 「イド、明日から私は新大陸に行くぞ! いろいろ問題も起こったが首尾よく解決できた。これで心置きなく出航できるというものだな」
 耳慣れない言葉がつやつやの三角耳を素通りしていく。何やら聞き逃してはいけないような単語が聞こえた様な気がするが、ぽかぽか陽気が邪魔をして良く考えられない。のでとりあえずにゃあと返事をしておいた。
 「しばらくいなくなるが元気に暮らせよ! 土産に魚を釣ってきてやろう! 新大陸の魚はどんななのだろうな?」
 そういって最後にぽんぽんとイドルフリートの頭を叩くと、颯爽と屋敷に戻っていった。それを目で追おうとして、――イドルフリートの意識はついに睡魔に呑まれた。



 イドルフリートは考える。
 今は朝である。朝と言ってもそろそろ日が昇るか昇らないかという、まだ薄暗い頃である。だが船乗りたちにとっては今はもう朝であろうし、コルテスもたった今出かけて行った。
 丁寧に毛繕いをしながらイドルフリートは考える。
 コルテスがしばらくいなくなることが、何がそんなに気に入らないのだろうか。
 肉も魚もミルクも、確かにコルテスがたくさんくれるだけで、他の人間からもらえないかと言えばそうでもないのである。すれ違いざまに猫なで声で話しかけてくる人間なんて掃いて捨てるほどいるし、撫でてこようとする者もいる。コルテス以外にさせたことがないだけで。
 別に寂しい訳では無い、とイドルフリートは思う。これはどちらかというと保護欲だ。あんなへなへなした人間が新大陸とやらに行って怪我をしたり風邪をひいたりしないかが心配なだけである。
 うだうだうじうじしながらイドルフリートは考える。既に毛繕いも終わってしまった。これ以上一か所にとどまっている言い訳が見つからない。
 別に寂しい訳では無いのである。そう、心配なだけなのだ。気になって気になって仕方が無い。そう思うと居てもたってもいられない。
 これ以上考えている余裕はなかった。思う間もなくイドルフリートは駈け出した。



 イドルフリートの縄張りは港に面していない。そこにはまた別の猫が縄張りを張っているが、今のイドルフリートには関係なかった。
 うっすらと明るんできた人通りのない道を風の様に駈けぬける。コルテスにむすばれたリボンが風になびく。
 潮の匂いが鼻をついて、この薄暗い中でもきらきらと光る海面が近づいてきた。
 その港に繋がれた格段に大きな船に、イドルフリートは一目散に奔った。


 船の周りには既に人が集まっている。その足元に蹴られない様十分注意してイドルフリートは割り込んだ。ざわめく森の様な足の間を縫って進んでいく。ぴこ、と頭を出すと、船の前にコルテスが立っていた。
 船乗りの恰好をした彼は、普段からは想像もつかないような威厳に満ちた顔つきであちらこちらに指示を飛ばしている。それにしたがって彼の部下もよく動く。あの年中暇人がよくもまあ、と感心していると、ふと彼がこちらを向いた。
 気づかれた、と思う間もなくコルテスが満面の笑みを浮かべ、大股で歩み寄ってきてすっと持ち上げられた。

 「やあイド! 来てくれたのか! 本当にお前は賢いなあ」
 そういいつつイドルフリートのさらけ出されたお腹に顔をうずめて「太陽の匂いがする」などとほざいている。いきなり威厳が崩れまくりである。
 あまりにも不敬な行為にカッと血が上って爪を出そうとしたが失敗した。なす術なくひとしきりお腹をもふもふされる。
 「それで、いったいどうしたんだイド。寂しくなったか? なんてまさかなあ」
 あっはっはっはと豪快に笑う。こちらの気も知らないで、とイドルフリートは心配を通り越してなにやらむかむかしてきた。むかむかしてきたので、コルテスに一矢報いたい。だが腋に手を差し入れて持ち上げられた状態では自慢のねこパンチも繰り出せない。
 コルテスをぎゃふんと言わせてやりたい。どうにかならないものかと考えた。とにかくこの爽やかな笑顔を凍りつかせてやりたい。
 イドルフリートは最終手段を行使することにした。


 「……にゃあん」
 コルテスが凍りついた。

 ぺたんと耳を下ろして、上目使いで見上げながら必殺必中の甘い鳴き声。
 イドルフリートは自身の愛らしさを知っている。その愛らしさをここぞという時に使って楽しく世渡りをしてきたのだ。
 効果は抜群だ。


 がっちがちに凍りついたコルテスは、しばらく後ふっと息を吐くとイドルフリートを抱きなおして振り返って叫んだ。

 「なあ猫飼っていいか!?」
 「何言ってるんです将軍」
 「頭おかしくなったんですか」
 通り過ぎる船員から次々と呆れた様な声がかかる。だがコルテスはめげなかった。
 「猫可愛いぞ猫! 私を追いかけてきてくれたんだぞ! このまま置いていくなんてできるか!」
 ぐっと見せつける様に差し出される。差し出されたのでイドルフリートもぐっと胸を張る。
 「イドルフリートという! イドと呼んであげてくれ給え!」
 自慢げにしっぽを振ると、船員からおお、と声が上がった。
 「鼠とか捕ってくれるんじゃないか?」
 「鼠よりは猫の方がいいなあ。でも何食べるんです?」
 「猫可愛いですよね猫。俺は別にいいけど」
 「うちんとこにアレルギー持ちとかいなかったですよね」
 「将軍が面倒みるんですよ!」
「見る見る! いいな? 船に乗せて良いな!?」







 かくして、イドルフリートは新大陸を征服するに至る船の中で鼠退治という名誉ある役目を任されたのである。


→無邪気と鈍感の紙一枚

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