砂糖の甘さを


←対等、不平等


 夜空に低い衝撃音が響く。

 否、聞こえているのは自分だけかもしれない、とイドルフリートは思った。
 目の前の男は何も聞こえていないかのように腕を振るう。一際鋭い拳が内臓を抉って、震えていた足がついに崩れた。
 男に縋りつきそうになるのを何とかこらえて地面に手をつく。そこを横から蹴り飛ばされて、腹を庇って転がった。更に追撃がくるのを必死に耐える。
 朦朧とした意識で歯を食いしばり、何も考えないように目を閉じる。わんわんと耳鳴りがし、鼻の奥がつんとした。
歯を食いしばるのは口の中を傷付けないように。何も考えないのは、心まで傷めないように。でもそうしたって舌は噛むし、胸は痛む。それに気づかないふりをして一層身体を折り曲げていると、ふと暴力が止んでいることに気付いた。それでも身を縮めていると上から冷たい声が降ってくる。
 「イド、立て」
 彼は殴ってくるときは一言もしゃべらない。だから、声をかけられたということは今日のこの時間が終わったということを指した。それに縋って、イドルフリートは必死に身体を起こす。情けないが、一方的に殴られた怒りより、今日は許された安堵の方が強くて体中が震えていた。
 やっと立ち上がって見上げると、彼は顎をしゃくって「脱げ」と短く命じた。強張る指でシャツのボタンを開ける。もどかしがりながら指を動かすイドルフリートを彼――コルテスは黙って見つめていた。
 ようやく一番下までボタンを外すと、コルテスは無言のまま前を開く。露わになった痣だらけの肌にも、彼は眉を顰めすらしなかった。彼がやったのだ、当たり前だが。
 ひとまずイドルフリートをそのまま立たせておいて、コルテスは瓶の蓋を開いた。軟膏を掬い取ると、そのままイドルフリートの肌に這わせる。冷たいのか、イドルフリートの肩が跳ねた。
 紫に変色したものから今まさにできたもの、もう消えかけているものにまで軟膏を擦り込んでいく。これで治りが早まるのかは分からないが、それでもイドルフリートは抵抗せずに固まっていた。むしろ、勝手に動いてまた殴られるのを恐れていたのかもしれない。



 人を、生き物を支配するのに最も手近な方法は暴力だ。それはイドルフリートもわかっていた。痛みで反抗心を奪い、恐怖で服従させるのが最も合理的で効果も早い。コルテスは常に合理性を求めた。もしある程度の時間があったなら、彼はイドルフリートを愛したのだろう。確実性はないけれど、それが一番持続力が高いから。
 昼間は船長と航海士として接し、夜中は縛り付けるために暴力を振るわれていることを他の乗組員たちは知らない。彼らの無邪気な笑顔が更にイドルフリートを苛んでいることも。
 コルテスを裏切って船もろとも海の藻屑に消え去ることは容易い。だが彼らの笑顔も、未来も、道連れにしようとは思えなかった。船長か航海士がいなくなるだけでこの船は立ち行かなくなる。彼らの信頼を裏切ることはできなかった。
 この航海さえ終わればまた家に帰れる、彼らに手を振って、笑顔で別れを告げることができる。それだけに縋ってイドルフリートは生きているようなものだった。



 「イド」
 物思いに耽っていたイドルフリートをコルテスの声が立ちかえらせた。何か不味い事でもしてしまったかと思わず身をすくめる。恐る恐る見上げると、コルテスはイドルフリートの腕に視線を落としていた。それを辿ってイドルフリートも己の手を見つめる。
 「どうした? これ」
 「……ああ、昼間、」
 問われて、ようやく思い出したようにイドルフリートが呟いた。連日の暴力のせいで体力も落ち、昼間甲板に出ている時さえも時折ふらつく事があった。その時一際高い波に揺られてバランスを崩し、釘か何かで手ひどく皮膚を裂いてしまったのだ。自分でも確かめたが、大した深さはないと結論づけて傷を洗って布で巻いて放置しておいたのだが。
 そう説明すると、コルテスはそっと眉を顰めた。何かいけなかったかとイドルフリートは内心不安になる。コルテスは無言のまま手を伸ばすと、ベッドサイドから酒瓶を取りだし、そのまま傷に振りかけた。
 「いっ、――!!」
 既にかさぶたになっているとはいえ、琥珀の液体はそれを溶かして酷く沁みる。咄嗟に手を引こうとしたイドルフリートを押しとどめてコルテスは更に瓶を傾けた。
 「お前のことだからどうせちゃんと消毒なんかしてないんだろ。こんな船の上で破傷風にでもなったらどうするんだ」
 酒と一緒に紅い液体が流れ落ちる。目に沁みそうな程じんじんと痛む腕と、それ以上に何かが痛んだ。
 「な、……で」
 「お前がいなくなったらみんな悲しむだろうが」
 「なん、……」
 もうコルテスは聞いていないかのように包帯を巻き始めていた。一際白い布が傷口を覆い隠していく。ぎゅっと強く縛られて、血流が止まる心地がした。
 「ん、これでいいな」
 「……」
 呆然と腕を眺める。手際よく巻かれた包帯とコルテスの顔を見比べる。未だに何を考えているかはわからなかったが、少なくとも恐怖は感じなかった。そのかわり、酷く戸惑う。
 「もう寝床に戻れ。少しでもちゃんと寝た方がいいだろ」
 「あ……ああ」
 傷付いた腕の代わりにコルテスがシャツを閉めていく。痣だらけの胸がまた隠されていった。これはさっきまで自分を傷つけていた腕と同じなのだ。イドルフリートは信じられないような気持でそれを見下ろしていた。
 一番上まで閉めあげると、コルテスは一歩引いて全体を見回して頷く。そのまま今までにない程優しい手付きで背中を押され部屋の外に出された。何処か労わるようなおやすみ、の言葉と共に背後で扉が閉じられる。
 はっと振り向いた時には、もう扉は何も答えてはくれなかった。
 「なん……で」
 殴られるだけなら、傷つけられるだけなら耐えられたのに。
 そっと巻かれた布に手を這わせる。確かに存在している傷口のおうとつの上をざらざらした感触が覆った。

 眠れぬままふらふらと甲板に出ても、生憎の曇り空が星を隠していた。冷たい海風が背筋を冷やす。
 底なしの暗い海が不気味に波打っている。薄皮一枚隔てた向こうにはよく知っている魚たちが眠っているはずなのに、今はそれさえも信じられなかった。
 目玉ごと吸い込まれそうな闇を覗き込んで、イドルフリートは呆然と佇んだ。
 このまま寝床に戻って、夢になるのが怖かった。こんな夢を見てしまう自分を認めるぐらいならまだ現実の方がよかった。
 改めてコルテスの残酷さを思い知らされた気分だった。
 ずるずるとへたり込み、壁に身を預ける。冷やされた木材の方がまだ信頼できた。
 丁寧に巻かれ、簡単にはほどけないようしっかりと結ばれた腕をみやる。
 彼の、拳をつくるだけじゃない器用な手つきを其処に重ねた。



 いっそ殺してくれればよかったのに。
 包帯を顔に押し当てて、ついにイドルフリートは声を殺して泣いた。


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