あの星空に手が届けばいいのに。
そう言った彼女の横顔を、優しく見つめる瞳があった。
星空散歩は貴方と共に
「映画、観に行きたいな」
彼女は伺うように、その瞳で彼を見る。
長い黒髪は少し癖毛で、まっすぐではないがパーマを当てたような巻き髪でもない。
見つめる瞳は丸く、髪と同じく黒い。
ふわりと風を受けて翻る柔らかなワンピースを身にまとった彼女は、少しヒールのある靴を履いても自分よりも長身の青年の言葉を待った。
「映画、か。そういえば最近、人気なものがあったな」
「そう!最近人気の――」
「『鳥籠の闇』だったか?」
「って、ちがーう!」
深い紫の髪が揺れる。暑さゆえか肩ほどまでの長さのそれは、首の上で小さく束ねられていた。
赤い瞳が楽しげに揺れている。そう、彼は知っているのだ。
――彼女、名無しさんがホラー映画を初めとする『こわいもの』が苦手だということを。
意地悪い笑みを浮かべる彼に怒ったふりをしてみせた名無しさんは、今話題のファンタジーがあるの、と笑う。
「ザリウスは、ファンタジーとか苦手?」
ザリウスと呼ばれた男は、いや、と否定の意を示す。
「俺はなんでも観るからな。名無しさんと違って」
「もー、苦手なんだからしょうがないでしょう…?」
困ったように視線を逸らす彼女の頬がほんのりと赤い
そんな様子に笑って、すっと彼女の腕を取り、エスコートを。
「なら行くか。この時間なら先に昼を食べたほうが良さそうだな」
今から行けばお昼前。チケットを購入して、お昼を食べておかないと中途半端な時間になってしまう。
そうだねと笑って、名無しさんは彼の隣を歩いた。
* * *
夕方前の回を観終われば、あたりは暗くなり始めていた。
いい席が取れなかったので、結局ひとつ先の回のチケットを買ったので、予定より時間は遅い。
夕食はどうしようかと考えていたら、ザリウスがあれを買わないか、と提案してくる
「あれ?」
指差す方を見れば、それはハンバーガーショップだった。
別になんでも構わない名無しさんだが、疑問を感じて眉根を寄せる。
普段彼が連れて行ってくれる店とは、ずいぶん違う提案だからだ。
「嫌か」
「え? ううん、違う違う! 珍しいなあと思って」
素直に思っていたことを口に出せば、彼は笑った。
――何かを企んでいるときのそれで。
「少し、付き合わないか」
疑問を持ちつつ了承した名無しさんは、訳も分からないままテイクアウトで注文をしたのだった。
――そして今に至る。
「すっごい! きれーい…!」
夜空を見上げれば、星が良く見える日だった。
都会では街の煌めきが邪魔してしまうが、それでも星は美しい。
あの星空に手が届けばいいのに、そう言ったこともあるほどだ。
――まさか、本当に届きそうになるとは思ってもいなかった。
風が気持ちいい夜空。
美しい星空は、手が届かないとはいえ普段より格段に近い。
腰を抱く逞しい腕いどきどきしていた数分前のことなど嘘のようで、暗闇に煌めく光の数々に名無しさんは瞬きも忘れたかのように魅入っていた。
ばさり、と翼が羽ばたきの音を示す。
漆黒の翼は、ザリウスの背を彩っていた。
ヒトでない――俗に悪魔と呼ばれる部類である彼は、普段は人間として暮らしている。
しかしそれは彼がそうしているだけであり、強制されているわけではない。いつでも本性には戻ることができる。
そして今、彼は本来の姿で彼女を抱いて空を飛んでいた。
本来の姿と言っても、翼以外に大した違いは見られないが。
「すごいすごい、気持ちいい! 素敵!」
「気に入ったか?」
「もちろん! ありがとう、ザリウス!」
花のように笑顔になる彼女を愛しげに見つめて、彼は少し街から離れた林の一角へ降り立った。
彼が「これにしよう」と言った意味が分かった、と名無しさんは微笑む。
簡単に持ち歩けるものを、落ち着いた場所で食べたらいいということだ。
月と星が空を制するこの時間、こんな林にくる人はいない。
夜空の宝石を独占しながら、二人は夕食を摂る。
「いつだったか」
「え?」
ふいにザリウスがそう切り出した。
最後のポテトを口に放り込み、名無しさんがなんだろうと首をかしげる。
「いつだったか、言っていただろう。星空に手が届けば…と」
驚いて目を見開く私を、紅の瞳が優しく見つめる。
嬉しくて堪らなくて、名無しさんは彼に抱きついた。
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bkm