※第二次世界大戦の頃の話




 こうして児童向けではなく、手記のような形で筆を取るのは、もう十数年振りの話になる。普段児童向けの物語や絵本を書いている私が筆を取ろうと思い立ったのは、今朝方、蝉の鳴く声があまりにも喧しく、その鳴き声で不意にあの夏の出来事が頭を過ったからだ。
 それは十数年前、第二次世界大戦の半ば、すっかり世間でも戦争の匂いを感じるようになってしまった頃の話だ。


 当時の私はまだ年若く、胸に自分なりの正義を掲げ、自らの正義に従い自らの思想を原稿用紙にしたためていた。私にとって戦争とは、今も昔も無益な殺戮でしかない。しかし当時の世の中と言えば戦争に反対すれば非国民と罵られ、戦争に反対するようなものを書けば良くて投獄、悪ければ処刑された。その危険を冒してまで私が物を書き続けていたのは、若さゆえの行動だった。今となっては、ただただ肝が冷える。しかし当時の私でも家族に危険が及ぶのはまずいと家には自ら絶縁を申し出てはいた。命の尊さを説きながら、自らの命を軽んじていたということに気づくにはしばらくの時間を要した。
 戦時中ながら、私が赤紙を賜ることはなかった。私は生後間もなくとある事故で右足を悪くし、徴兵を免れたからだ。そのことで後ろ指をさされることもあったが、私はそもそも戦争に反対だったのだから、自らの幸運を噛みしめたものだった。

 そんな中、やっと暖かくなり始めた頃、男は現れた。

 そう広くはない平屋を買い上げて住居としていた私はその日も机に向かい、原稿用紙と睨みあいをしていた。玄関の向こう、通りの方で車の止まる音が聞こえた。また役人か、軍人でもやってきたか。私は小さく溜息をついて立ち上がり、右足を引きずりながら玄関の方へ向かった。歩行には少し時間がかかる。いつもならその間にやつらは勝手に戸口を開けて怒鳴り込んでくるのだが、今日は違うらしい。私が戸口を開けてその先を見ても、誰の姿もなく、車も止まってはいなかった。
 首を傾げながらも、邪魔が入らなかったならよしとしよう、と元の部屋へと戻る。再び時間をかけて部屋へと向かい、麗らかな午後の日差しが開け放った障子の間から入り込んだ明るい部屋へ辿り着く。縁側から見える小さな庭にはぐんぐんと成長をするトマトの苗が植えられていた。
 無事部屋へと戻り、定位置へと腰を下ろして、再び筆を握った。
「精が出ますね」
 突然聞こえた声に私はその声の方へ弾かれたように顔を向けた。
 視線の先にいたのは空想小説や映画の世界から抜け出てきたような美しい青年だった。黒の艶やかな髪と透き通るような白い肌。細められた目は優しそうに見えるが、その瞳に敵意が宿ればおそらく刺すように鋭い視線を送ることのできる強い目だった。
「勝手に入ってしまってすみません」
 私は彼が言葉を続けるのをただ聞いているだけだった。失語した私を見て機嫌損ねてしまったと慌てたのか、彼は困ったように眉を下げた。
「あなたが書くものに興味があって」
 そう告げて彼は曖昧に笑った。その微笑にまた目を奪われ、しばし彼の笑みを見つめたのちに彼の言葉を頭が理解し驚きに目を丸くした。
「……興味」
 私の書くものと言えば反戦論のような、政府などから目の敵にされるようなものばかりだ。しかし「興味がある」と言っただけで彼が私の思想を肯定する人間なのかは分からない。だと言うのに、彼の瞳を見ていると彼が私を糾弾する様子を想像することができず、勝手に私は彼を信頼してしまった。
「あんた、名前は?」
 私がそう問うと、彼は一度口を開いたが、ぱっと視線を反らし悩むような素振りを見せ、「サスケと言います」と小さな声で答えた。彼が名字を名乗らなかったことにその時の私はなんの疑問も抱かなかった。
 私は彼に部屋へ上がるように促した。しかし彼は首を振って、縁側に腰掛けるにとどめた。私は仕方なく膝をついて彼の方へ這って行った。
 近くで見てみると、より彼の美しさを実感した。
 物書きであると言うのに、彼の美しさを違うことなく表現する言葉が見つからない。どんな言葉を尽くしても、彼のすべてを表現することなどできないと思ってしまった。
 彼は本当に美しい人だった。



 彼との出会いはそんなものだった。突然庭へ現れた彼に私は驚きはしたが、同時に一目見て彼に強く惹かれた。思えば、最初から恋に落ちていたのかもしれなかった。
 彼はしばしば私の家に訪れるようになった。私の思想を興味深げに聞いては頷き、ひとつふたつと問いを投げかけてきた。小さな討論のようで、同志と討論する時とはまた違った面白さを感じた。彼はそこまで饒舌ではなかったが、彼の言葉は真を突いているものばかりで、私は時折返す言葉を失った。そうすると、彼は決まってはにかんだ笑みを浮かべるのだった。
 私は、その表情がいっとう好きだった。


「先生、ずっと気になっていたことがあるのですけれど」
 彼はいつも物腰柔らかに、言葉の細部に至るまで丁寧だった。それが彼の素なのか、作られた仮面のひとつなのか、当時の私が知ることはなかった。
「『シカマル』なんて、随分変わったお名前ですね? どんな由来があって決められたんですか?」
「それは、親父に聞いてみねーとなァ」
「お父様から頂いたんですか?」
 その言葉で彼の言わんとしていることを理解して、ふっと頬が緩むのが分かった。
「これは本名で、ペンネームじゃないぜ」
 途端に彼は目を丸くした。すっかりペンネームだと思い込んでいたらしい。たしかに、変わった名前ではある。父に由来を聞いたことはないが、父の名前が「シカク」であることに何かしらの関係があるのだろう。
「てっきりペンネームだとばかり思っていました」
 そう言って、彼は照れたように笑った。
堪らなく胸が騒いだのを、今でも覚えている。


彼は毎日私の元を訪ねるわけではなかった。
数日続けて来ることもあれば、一週間と姿を見せないこともあった。顔を見せたと思えば挨拶を交わす程度で去ってしまうこともあれば、朝から夕方まで共に過ごすこともあった。私はいつの間にか彼と共に過ごす時間を待ち望むようになっていた。






人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -