彼と過ごした日の記憶の中で、もっとも忘れがたい記憶は、彼と出会って数ヶ月ほど経った夏の日の出来事だ。その日は朝から目が眩むほど晴れていた。
 彼は昼前に私の家を訪れた。
 夏も盛りになってきたというのに、彼の肌は初めて見た時と変わらず透けるように白かった。いつも通りの着流し姿ではあったが、その日はやけにその姿に目を奪われたことを覚えている。
 裾から覗く足首も、袖口からすっと伸びる手首もその先の手の甲も、襟首から見える汗が滲んだ首筋も、どこもかしこも白かった。日焼けなど知らないとでも言いたげな肌に、私は目を奪われた。珍しく汗を滲ませる彼に劣情が湧き上がる。その感情に目を背けながら、彼の肌を見つめた。滅多に出かけることのない私ですらこの夏の日差しには肌を焼かれているというのに、彼は白い。生来の肌の色もあるにしろ、その白さは幻想的とも言えるものだった。
「日焼けをしない体質なのか?」
 口をついて出た疑問に、彼は首を傾げてこちらを見つめた。しばし考えるように自分の白い腕を見つめ、彼はこちらに視線をやって肩をすくめた。
「日焼けをしても赤く腫れるだけで黒くはなりませんね。でも、普段は肌を出さない服装ばかりだから焼けないのだと思います」
 そう言って彼は自分の手首を撫でた。肌を出さないと言っても、手の甲や手首、首元を晒さない服装などそうない。一体どんな服を着ればそうなるのだろうかと悩みもしたが、私は早々にその思考を打ち切ることになる。


「ねえ、先生」
 朝から喧しく鳴く蝉の声に紛れて彼の声が耳に届く。庭先にでも止まっているものでもいるのか、普段にも増して蝉の鳴き声が五月蠅かった。

「私を抱いてくれませんか」

 だと言うのに、彼の言葉ははっきりと耳に届いた。その言葉が発せられ、沈黙が訪れた時、あれだけ五月蠅かった蝉の鳴き声がぴたりと止んだように感じた。何度も彼の言葉が頭の中で響く。
 ゴクリ、と生唾を呑みこむ音が私の喉から聞こえてきた。もしかしたら彼にも聞こえていたかもしれない。その音が聞こえてしまうほどには、辺りは静かだった。
 しかし、途端に騒音が戻ってくる。耳元で聞こえるように錯覚してしまうほど大きな蝉の鳴き声がして、先ほどの彼のセリフは私が見た白昼夢ではないのかと思い至り、そっと彼の表情を窺った。彼はいつも通り背筋をぴんと伸ばしていたが、私に向けた表情は今までに見たことのない、艶然とした微笑みだった。

 そこからどのように彼を部屋へ招き入れたのか、よく覚えていない。気づけば、私は彼を自らの寝具の上へ押し倒していた。片づけるのが手間だと敷きっ放しになっていた布団がこうも役に立つとは思わなかった。早々に私は彼の衣服をはぎ取り、その下に隠されていた陶磁器のような肌に眩暈を覚えた。ただ細いだけのように見える外見とは裏腹に、薄い布一枚隔てた先にあったのは禁欲的に引き締まった肉体だった。
 そこからは無我夢中だった。
 彼の白い首筋に歯を立て、薄く色づいた胸元の尖りに舌を這わせ、そっと下肢に手を伸ばし茂みの先に燻ぶる熱を直に触って、そこで彼が私と同じく男だということを改めて認識した。普通ならばこんな身体に欲情などしない。頭では理解できるのに、昂る精神を留め置くことができない。
「……あッ」
 時折漏れる彼の声は普段より僅かに高く、少し掠れていた。白い喉をのけ反らし、喉仏を露わにする彼は与えられる悦楽をどうにか逃がそうと苦心しているようだった。彼に招き入れられた剛直はその内の肉の感触に歓喜し、次第に質量を増していく。彼の身体を揺さぶる私はまるで獣のようだった。男など彼以外に知らないが、間違いなく至高だったと断言できる。
 律動のリズムは徐々に速まり、限界を訴える彼の手が縋るように私の首筋へ伸びた。耳元で彼の掠れた喘ぎが聞こえ、頭が沸騰するような心地に襲われる。
「……ッ、ぁ、しか……ッシカマル……!」
 切なげに名前を呼ばれ、私は彼の最奥を突いてあっさりと果てた。うっとりとした溜息が耳へ吹き込まれ、腹の間を見ると彼も同じく達したことを知る。縁側に腰掛ける彼の清潔さを感じる美しさと違い、汗に濡れ白濁に汚れた彼は背徳的な美しさを湛えていた。


 衣服を整えた彼の後姿をじっと見つめていると、その視線に気づいたのか彼ははにかんだ笑みを浮かべて振り返った。周りは相変わらず蝉が五月蠅かった。まだ日が暮れるには早い。しばらくは時間を共に過ごせるだろうかと考えていた私に、彼の言葉は意外だった。
「今日はそろそろお暇します」
 彼を止める理由はない。彼の身体を開いて欲望のままに貪った身ではあるが、それは彼の合意の下であって。そして身体の繋がりを持ったとは言え、私と彼は他人に違いなく、恋人などという関係でもない私に彼を留めて置くための言葉を見つけることはできなかった。
「しばらくこの地を離れることになりました」
「……ここも、そう安全とは言えないからか」
 東京の方では空襲が酷くなったと聞く。この地も、一日に警報音を聞かない日はなくなった。もっと安全な場所に移ろうと考えても不思議はない。私は自身が戦争と消極的な関係しか持っていなかったがゆえに、そのような判断しかできなかった。
 彼は首を振った。
「知っての通り、今は戦争の最中です。私も、戦地へ赴かねばなりません」
 まさかと思った。彼に、赤紙が届いてしまったというのか。血で血を洗うような戦地に、彼を送り込もうと考える人間がいるなどと信じたくはなかった。
「赤紙……か」
 彼は肯定も否定もしなかった。
「明朝に出立です」
 突然の話に私は目を見開いて震えた。恐らくもっと前から決まっていたことなのだろう。彼がどんな思いで、出征の日までを過ごしたのか、私には想像しえなかった。
「先生、私はあなたの思想を否定しようとは思いません。肯定できたらいいとさえ思います。けれど先生、その思想を貫くことであなたの身に何かあっては困ります。これからしばらくは執筆活動をお控えください」
 彼がどうしてそのようなことを言うのか、理解できなかった。
「ねえ先生。一度児童書を書いてみたらいかがですか。先生には、優しい文章が似合います。ねえ、きっと書いてくださいね。帰ったら、私に一番に読ませてください。きっとですよ」
 柔らかな風と共に彼は微笑んで、立ち上がった。
 しっかりと彼の声は私の耳に届いていたのに、私は何の反応も返すことができなかった。私はその場で彼を見送り、その日を過ごした。どのように過ごしたのか、まったく思い出すことができない。


 翌日の朝早く、私は家を出た。彼の姿を、遠くからでも見送りたいと思った。私に彼を連れて逃げることなどできない。できることと言えば、この国を発つ彼の姿をこの目に焼き付けることだけだった。
 この近くには港がある。大きな軍艦こそ着かないが、たしか出征する兵はそこへ集まることになっていたはずだ。何時に発つと聞いたわけではないから、到着した時にはすでに船が出たあととあってはいけないと私は急いだ。
 港に到着した時、そこはすでに人であふれていた。彼を探そう。そう思って辺りを見回そうと背筋を伸ばすと、一人の男に目を奪われた。
 ぴんと伸ばされた背筋。きりりとした凛々しい眉に真っすぐ筋の通った鼻。雪のように白い肌。
 彼だ、と私は思った。しかし、彼の目を見て、その判断に一瞬迷いが生じた。
 その瞳には優しさと穏やかさは見られず、それどころか感情の一切を見せない氷のような冷たさを伴い、そこに映るものすべてをまるで無価値だとでも言いたげな、ぞんざいな視線を辺りへ向けており、それは暗く暗く、目が合っただけで呑み込まれて二度と浮上できないのではないかと思わせるような闇色の瞳だった。私の知る彼は、あんな瞳をしてはいなかった。しかしすぐに、それが彼だと納得してしまう。なぜなら、私は彼と初めて会った時に彼の目を見て、彼の瞳が持つ冷淡さを直感していたからだ。私は知らなかったが、あれは間違いなく彼だ。
 私は重い足を引きずって彼へと近づいた。彼の視線が私の近くを通り過ぎる。気づくかもしれない。心持ち緊張して私は足を止める。気づいて欲しい気持ちとそれを拒否する感情がせめぎ合う。
「うちは中尉!」
 しかしそのせめぎ合いも、彼に年若い青年の呼びかけに反応して彼がそちらへ気を反らしてしまったことよって霧散した。
 彼が反応したということは、おそらく「うちは」とは彼の家名なのだろう。私はやっと彼が名字を名乗ることがなかったことに得心がいった。私は軍が嫌いだ。嫌悪感があるがゆえに、軍人に関する知識はほかより多い。「うちは」と言えば一族から多くの軍人を輩出している言わば軍部のエリートだ。名乗れば間違いなく私に軍人の近親者と伝わってしまう。もっとも、彼の場合は近親者どころか軍人そのものであったのだが。考えてみれば、服の上からは分からなかった引き締まった身体も白い肌も、なるほど軍属していれば身体は鍛えられるだろうし、軍服に身をつつめば肌の露出はほとんどなくなるのも頷ける。彼は紛うことなき軍人だった。
 不思議と私は彼に嫌悪感を抱くことはなかった。これは今になっても不可解なことだ。軍人をあれだけ毛嫌いしておきながら、彼に対しての好意が消え失せることはなかった。彼が何者であるかなど関係なく、私は彼に惹かれていた。
 彼は隣の青年と二、三言葉を交わしていた。その間も彼に何がしかの表情が浮かぶことはなかった。そしてすぐに周りのざわめきに気づく。徴兵された若者たちが家族との別れを終えて船へ移動を始めた。彼はその指揮を任されているらしかった。
 すべての移動が終わり、彼もまた船へ乗り込もうとする。一度こちらに背を向けた彼だったが、不意に彼は身体を翻した。
 真っ直ぐに視線を浴び、私は息を呑んだ。先ほどまでの無表情とは違い、彼は私の家で見せる酷く穏やかな瞳をしていた。唇が心なしか笑みの形になっているようにも思えた。その唇が微かに開き、何かを囁く。耳に届くことはなかったが、私は何度も頷いた。そして、彼は今度こそ私に背を向け、それから二度とこちらを振り向くことはなかった。



 あの夏の日の出来事はきっと一生忘れることはないだろう。毎年蝉が鳴く季節になると私はあの季節を思い出し、彼に思いを馳せる。穏やかで淑やかな彼は、その夏限りの―――





「シカマル!」
 シカマルはそこまで書いたところで名前を呼ばれ、渋々筆を置いた。数十分前から昼餉ができたと呼ばれていたのを無視して筆を走らせていたのだが、とうとうシカマルを呼ぶ声に苛立ちが含まれ始めたのでシカマルも観念したらしく立ち上がって居間へと向かった。当然ながら悪い足は何年経ったところで良くなっているわけもなく、時間をかけてゆっくりと進んだ。
 襖を開けてみるとちゃぶ台の上には庭で栽培された大きなトマトが色鮮やかな冷やし中華が二つ並んでいた。向かいに座った男の不機嫌そうな表情にシカマルは苦笑しつつ腰を下ろした。
「まだ途中だったんだけどよ」
「知らん」
「まあ……そう怒るなよ、サスケ」
 つんとした表情のまま箸を持って手を合わせるサスケにシカマルは眉を下げた。しかしその表情は心底困ったというよりはまるで可愛い子供に振り回される親のような表情だった。
「ったくよォ、本ッ当お前変わったな」
 出会った時の穏やかさと淑やかさはサスケと再会して間もなく消え去ってしまった。彼は帰国と同時に軍から脱退し、家からも飛び出した。どうやらサスケのあの丁寧な口調や態度は軍内での圧迫の反動だったらしい。圧迫が消えた以上そこでバランスを保つ必要もなくなり、素のサスケが見えてくるようになった。シカマルにとって悪い話ではなかった。もっと深く、もっと深く、サスケのことを知りたいと思っていたことに違いはなかった。
「悪いか」
「悪くねーけど……あれも、よかったと思って」
 夏のあの日、奥ゆかしさを前面に露わした控えめなサスケの身体を開いた時のことを思い出し、中華麺を咀嚼しながらシカマルはにやりと笑った。シカマルの言いたいことを理解してサスケは鋭い視線でシカマルを射抜く。シカマルはその視線から逃げるように顔を背けた。
 先ほどまでしたためていたあの夏の出来事を世に出す気はない。しかし形に残しておくことが必要だった。記憶は薄れる。美しく儚いあの日を残しておきたかった。
 いつでも触れることのできるようになったサスケに手を伸ばし、シカマルはサスケを抱き寄せた。不満そうな顔をしているが、抵抗する素振りはない。相変わらず白い首筋に唇を寄せ、シカマルはあの手記をなんという言葉で締めようかと思いを巡らせた。



幻の蝉


120521

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