日本の空港を使うのも中等部以来だから、4年振りくらいだろうか。家への帰省目的にした帰国は初めてで、何だか新鮮な気持ちも少しある。ここが祖国であるはずなのに、師匠と長く住んでいたフランスの空気とはまた違っていて、自分は家の空気を忘れてしまっているような気がした。

「梓乃ちゃーーん!」

なんて、感傷に浸る暇もない。

*

師匠、アンリ・リュカスとの出会いは7歳。小学2年生の夏休みに遡る。
スウェーデンとフランス出身の祖父母を持ち、父はそのハーフ。そんな父と結婚した日本人の母との間に生まれた、クォーターの子どもが私達だった。国際色豊かな家族はやることなすこと外国染みていて、長期休暇の祖父母の家で行われるちょっとしたパーティーへの参加義務も、そのうちのひとつだったと思う。
祖父母の主催するパーティーの参加者は多種多様で、改めて聞いたことはないが、祖母が貴族の出だったとかなんとかと小耳にはさんだことがある。ともなれば、参加者がどのような人物達なのかは嫌でもわかろう。
若きフランス人パティシエ、アンリ・リュカス。
彼は、そんな祖父と親しい参加者が自慢の種に連れて来た菓子職人だった。

「梓乃。明日から日本への帰省を許可します」
『…………は?』

このアンリ・リュカスという男、顔の良さとパティシエとしての腕の良さはピカイチだが、スイーツ以外のことに関しては、人間性に欠ける冷酷な人間だと思っている。1日24時間365日。師匠の頭の中にはスイーツのことが常に存在していて、今のスイーツ界を何とかして変えなければという頭しかない。
10年間師匠に師事する中で、何度このくそ師匠と思ったことか。その思いは、今も現在進行形で続いていたりする。

「麻里。テンパリングの手が止まっていますよ」
「っすみません」

私の横でチョコレートのテンパリングの練習をしていた天王寺さんに、師匠の指摘の声が飛ぶ。そう。一々の動揺で、この手を止めるわけにはいかないのだ。おそらく天王寺さんよりも動揺しているであろう私の手は、10年間の成果なのか、一向に止まる気配はなかった。染みついた習慣が恐ろしい。
さて、今このくそ師匠は何といっただろうか。
私は昨夜フランスの首都、パリで行われていた世界大会に出場し、グランプリを受賞してこの家に帰って来たばかりだ。それまでも修行と称して、パリ本校に通いながら世界中を飛び回されていた。過去には父が亡くなったという知らせ。去年の大会中には、母の危篤の知らせがあったって、帰国を許してくれなかったというのに。それを、なぜ今このタイミングで。

「日本校へ留学手続きをしてあります。里帰りを兼ねて、1年間、今後の進路について考えてきなさい。先日の大会で、僕の教えることはもうなくなってしまった。頃合いでしょう」
『ころあい』
「ええ。今の梓乃には、僕をはるかにしのぐ実力があります。自分の店を持つもよし、マリーズガーデンに参加するもよし、僕の元につくもよし、……可能性は無限大です」

テンパリングしたチョコを見せ、師匠に問題ないとの言葉を貰って、片づけるためのチョコレート菓子を作る。先日貰ったオレンジを乾燥させたものを切り、テンパリングしたチョコに浸せば、簡単なオランジェットの完成だ。実力だとか、可能性だとか、今後の進路だとか。作業に没頭しながらぶつぶつと呟いていれば、天王寺さんが心配して声をかけてくれた。大丈夫?と。

『大丈夫、な、わけ……ありますか!!』
「朱國さんっ」
『突然誘拐するみたいに弟子にして、10年も家に帰らせてもらえず!仕方なく言われた通りのことをこなしていたら、師匠をはるかにしのぐ実力!?何ふざけたことぬかしてんですか!今後の進路!?私がどうして嫌々10年もの間お菓子作りしてたとお思いですか!?』
「知ってますよ」
『は!?』
「知ってます。お母様のためでしょう、あなたの。何のために、僕があなたをあの日帰国させなかったと思ってるんですか?この日のためです」

さらに意味がわからなかった。憤り、肩で息をする私を天王寺さんが支える。ああ、何だか頭がぐらぐらする。

「いつか死ぬ親のためのパティシエール?梓乃の実力はそんなところで燻っていていいものではない。親を亡くして初めて、君の真のパティシエールとしての道が開けたのです!」
「っアンリ先生!」
「正しい答えを期待しています。麻里、練習はそこまで。梓乃も明日に備えて早く寝なさい」

この、

「以上」

このくそ師匠め!!

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