一
碧く、広大な草原が目の前に広がる。 その草々の動き、そしてその声は恰も、滄海の波のようだと海を知る者が昔、語っていた。 さわさわと草々を鳴かせた清風が、蒼い外套を羽織った男の頬を撫ぜて行く。 男は、青い草の爽やかな香りを胸一杯に吸い込みながら、海を知る者の言葉を思い出す。
――この音、この光景。 揺蕩う滄海の如し。 冬を運ぶ風、 我が心に望郷を呼び起こさん。
海が如何様な物なのか、男は知らない。 だが、海を知る者の言葉は、瞳を閉じると青い海原を思い起こさせた。
「孟鐫(モウセン)殿、如何なされた」
瞳を閉じ、傾いた太陽の光を浴びながら溜息を吐いた男に、背後から栗毛馬に跨がった、壮年の男が声をかけた。 孟鐫と呼ばれた男は徐に黒い瞳を開き、声の主を振り返る。
「これは謄蛍(トウケイ)殿……。少し、考え事をしておりました」
孟鐫の隣に轡を並べた壮年の男は、にっこりと目尻に皺を寄せて微笑んだ。
「考え事かね。若い頃には、大いに悩んだ方がよい……ただ、戦場で悩んではいけないよ」
低く、優しい声で謄蛍は言う。 孟鐫は深々と頭を垂れ、苦笑した。
眼前には草原と、その先には敵影がある……そう。ここは戦場なのだ。
東を見遣れば、清らかな翠江の流れがあり、その彼方にも草原が広がる。 そちらには、ちらり、ほらりと朱い旗が翻っていた。 その旗はここ数ヶ月、蒼瑙(ソウノウ)山脈の南によく出没するようになった賊の物で、紅月仙人と呼ばれる李皓(リコウ)が率いていると言われている。 李皓とは、その異名の通り、瓏国南部の紅月山脈に住むとされる男で、神話時代の生き残りな上、千年の時を生きているとの伝説があった。 ただ、姿を見た者はおらず、その存在は伝説の域を出ない。 この賊の言い草としては、李皓と、彼が所持する“三種の神器”の一つを用いて、この国を改革するのだとか……。 よく聞く“方便”である。
孟鐫は都からの達しに従い、私兵を率いて堰との州境まで来たところ、謄蛍の堰軍と合流。匯の北、八十余里の場所で陣を敷いた。 斥候によれば、賊の本陣は翠江の上流にあり、この場所からさほど遠くない。
「しかし、今まで何故討伐の命が出なかったのでしょう」
孟鐫は傍らの謄蛍に尋ねた。
「都の中枢に、彼等と共謀しておる人間がいるのではないかね。それと……相手には頭の切れる人物が付いておるようだ」
謄蛍は彼方の敵陣を指差し、声を低めながら続ける。
「塁を築いた……河は渡らぬつもりだ」
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