唯「ゾンビの平沢」

[list]



★8

梓『私、ムギ先輩とは二人だけで話す機会が余り無くて……。
でも、ムギ先輩はいつも笑顔で優しくて、私はそんなムギ先輩の事が大好きです!』

律『ムギが軽音部に入ってくれなかったら、唯も軽音部に入らなかったかもしれない。
私達は本当にムギには感謝してるんだ。ありがとう、ムギ』

純『私もムギ先輩のお菓子食べたかったです!』

和『ちょっと純……いい話が台無しよ……』

梓『……』ゴツン

純『いったぁ〜……』

いちご『……。』クスッ

純『あ、いちご先輩が笑った!』

澪『えっ、ウソ!?』

和『そう言えば、いちごの笑った所って見た事ないわね』

しずか『私も殆んど見た事ないかも……』

いちご『……笑ってない。』

純『え〜、絶対笑ってましたっ!』

いちご『笑ってない。』

律『まぁ、全部録画してあるからな。後で確認しようぜ! ニシシ』

いちご『……律うざい。』

澪『それと、唯とムギに聴いて欲しい歌があるんだ。
私が来年の卒業の時の為に作っていた歌詞があって……。
時期的に早過ぎるんだけどさ、これにみんなで曲を付けたんだ。
本当は梓に捧げる予定の歌で、テーマは卒業だったんだけど、
【卒業】の部分を【さよなら】に変えて二人に送りたいと思う』

梓『さよならって言っても、別れるって意味のさよならじゃありません。
それはこの歌を聴いてくれれば分かると思います!』

和『私も、この歌はとても良いと思ったわ』

しずか『素敵な歌だと思います』

純『私も作曲に参加しましたっ!』

いちご『……嫌いじゃない。』

律『それじゃあ聴いて貰おうかな。
あ、そうだ、ムギは知らないと思うから言っとくと、あたし達色々あって、演奏する楽器が変わってるんだ。
しかも、みんなで合わせたのが今日初めてだから、あまり期待するなよ?』

純『みんなで練習したら唯先輩にバレちゃいますからね』

律『あたしはベース。ドラムは和。澪はボーカル。梓と純ちゃんはギター。純ちゃんのギターは、準備室漁ってたら出てきた奴。いちごがリコーダーでしずかはピアニカだ。
新規メンバーの腕前を、篤とご覧あれ!』

しずか『りっちゃん、ハードル上げないでよ〜』

いちご『律、うるさい。』

澪『本当は憂ちゃんのキーボードを入れたかったんだけど、唯を一人にする訳にはいかないからな』

梓『唯先輩と憂も入れて演奏する案もあったのですが……』

和『律と純が、内緒の方が面白いって言い張ってね……』

律『細かい事はいいんだよっ!』

純『そうですよっ! とにかく、演奏しましょ!』

澪『唯、ムギ、聴いてくれ』

律『いっせーのっ!』

律澪梓和純いちごしずか『天使にふれたよ!』


卒業を意識したというお別れの歌詞。
本来ならば、これはあずにゃんに送られる筈の物。
その中には、澪ちゃんの優しさと、軽音部への想いが溢れていた。

皆、それぞれ大切な想いを込めて演奏しているのだろう。
それらの音は、乗算の様に互いの旋律を高め合う。
みんなの調べが一つになった時が、私達の本当の音楽になる。
それこそが、「放課後ティータイム」なのだ。

彼女達の演奏は、私とムギちゃんの心を震わせた。



律『ふぅ〜』

しずか『どうだったかな……』

梓『良かったと思いますっ!』

和『こんなもんかしら?』

澪『そうだな』

純『私のギターは梓より上手かったね』

いちご『純、調子に乗り過ぎ。』

純『え〜、酷いですよ、いちご先ぱ〜い』

律『というワケで、そろそろお開きっ!』

律『唯、あんまりムギに迷惑かけるなよっ!』

澪『唯、ムギ、元気でな』

和『ムギ、大変だと思うけど、唯をよろしくね』

梓『唯先輩、ムギ先輩、私は二人に会えてとても良かったです』

純『梓と憂の面倒は私がちゃんと見ますから安心して下さい!』

梓『何よそれ! 逆でしょ! 逆!』

いちご『短い間だけど、軽音部は楽しかった……と思う。』

しずか『私も、軽音部に入って凄く楽しかったよ』


私もムギちゃんも涙が止まらなかった。
こうしてムギちゃんと再会する事も、ムギちゃんの気持ちも、私達の事は全部お見通しだったんだね……。
やっぱり、みんな凄いよ……。

和ちゃん、最後はやっぱり私とお別れするつもりだったんだね。
自分がゾンビだから……私を傷付けない為に……。

映像が少し途切れたが、すぐにまた始まった。
場所は部室ではない。でも、私はここに見覚えがある。

そう、ここは生徒会室だ。

梓『準備はいい、純?』

純『オッケーオッケー!』

梓『じゃあ、始めるよ』

次の瞬間、私は心臓を押し潰される様な衝撃を受けた。
画面に現れた人物……。

「憂」


憂『何を言おうか考えてきたのに……分からなくなっちゃった……。
お姉ちゃんに言いたい事は山程あるのに、上手く言葉が出て来ないや。
……ごめん、梓ちゃん、純ちゃん、ちょっと待って。
考えが全然纏まらないの……どうしよう……』

純『憂、頑張って!』

梓『何でもいいから、今の自分の気持ちを全部出しちゃえばいいんだよ!』

憂『ありがとう、梓ちゃん、純ちゃん……』

純『時間はたっぷりあるからね。リラックス、リラックス!』

憂『お姉ちゃん、これを見ている時、私はもう近くにはいないと思う。
私はゾンビでお姉ちゃんは人間……。
だから、いつかはお別れをする時が絶対に来ると思うの。
でも、私はお姉ちゃんにずっと人間のままでいて欲しい』

憂『お姉ちゃんは、自分もゾンビだったらいいのに、なんて考えちゃってるよね。
自分一人だけが人間のままである事に罪悪感を感じて……。
でもね、それは間違っていると思う。
お姉ちゃんが人間だから救われている人だっているんだよ?
お姉ちゃんが人間だから、私は人間でいられるの』

憂『お姉ちゃんは私の、私達の希望なの。
私達が諦めないで頑張れるのは、お姉ちゃんのお陰なんだよ。
さわ子先生も言ってたよ。
唯ちゃんが人間だから、私も頑張らなきゃって。
教師である私が唯ちゃんを守らなきゃって』

憂『本当はね、私達も怖かった。凄く怖かったんだよ。
いつかあの人達みたいに、自分を失って人を傷付けるんじゃないかって。
でも、絶望しなかったのは、お姉ちゃんがいたからなの。
私達が自暴自棄になったら、お姉ちゃんが一人になっちゃうから。
私達自身が、お姉ちゃんを傷付ける事になっちゃうかもしれないから。
友達として、後輩として、家族として、私達はお姉ちゃんを守りたかったの。
みんなお姉ちゃんの事が好きだったから、守りたかったんだよ』

憂『私達は、そう思える自分達の事を誇りに思っているの。
大切な人を想う心、それを持つ人こそが『人間』なんだって。
だから、みんなでお姉ちゃんを守ろうって誓ったの。
私達が最後の最後まで『人間』で在り続ける為に』

憂『私はお姉ちゃんが好き。大好き。
ご飯を食べてるお姉ちゃんが好き。
アイスをねだるお姉ちゃんが好き。
ごろごろ寝転がってるお姉ちゃんが好き。
ギターの練習をしているお姉ちゃんが好き。
一緒に寝てくれるお姉ちゃんが好き。
どんな仕草でも、お姉ちゃんの全てが大好き』
 
憂『でも、一番好きなのは明るくて優しい笑顔のお姉ちゃん。
お姉ちゃんの笑顔が何よりも一番大好き。
でも、最近のお姉ちゃんの笑顔は全部嘘。
泣いているのに顔だけ笑って見せて……。
そんなお姉ちゃんは嫌い、大っ嫌いなの』

憂『泣きたい時には泣いていいんだよ。
それを無理して我慢して、偽りの笑顔なんて作らないで。
そんなの……お姉ちゃんらしくないよ。
そんなの、私の大好きなお姉ちゃんじゃない!』

憂は泣いていた。
憂の他にも鼻を啜る音が聞こえた。

私が憂の偽の笑顔に気付いていた様に、憂もまた私のそれに気付いていた。
結局また、私が一人で人を騙せている気になっていただけだったのだ。

憂『ごめんなさい……私……こんな事を言いたかったんじゃないのに……。
何で私、こんな嫌な事ばかり言っているんだろう……。
ごめんなさい、お姉ちゃん……私……私……』

あずにゃんが横から現れ、憂を抱き締めた。
二人は暫く抱き合っていた。
その間も、録画は続いていた。
画面から啜り泣く声だけが延々と流れてきた。

憂がこんな風に泣くのを、私は生まれて初めて見た。
私の胸は締め付けられ、呼吸すら困難な状態だった。

でも、私は目を離さない。
最後まで見続ける。絶対に。

憂『ごめんね、お姉ちゃん、私は駄目な妹だね……。
でも、私はお姉ちゃんに心から笑って欲しいの。
お姉ちゃんの本当の笑顔が私は大好きだから……。
ううん、私だけじゃない、みんなお姉ちゃんの笑顔が大好きなの』

憂『律さんが言ってた、お姉ちゃんの笑顔は天使みたいだって。

澪さんは、お姉ちゃんの笑顔を見ると歌詞が浮かんでくるって。
和ちゃんも、お姉ちゃんの笑顔は反則なくらい素敵だって』

憂『だからお願い、本当な笑顔のお姉ちゃんでいて。
そうすれば、世界の誰もがお姉ちゃんの味方になるから。
必ずお姉ちゃんを守ってくれるから。
それが私からの、お姉ちゃんにする最後のお願いだよ』

ごめんね、憂。それは無理だよ。そのお願いだけは聞けないよ。
だって、私の隣に憂がいないんだもん。
憂がいないと、心から笑う事なんて出来ないんだよ。

そうだ、憂が悪いんだ。
憂が私の傍にいないから悪いんだ。
私は絶対に本当の笑顔なんて見せない。
憂のお願いなんて聞いてやるものか。

それが嫌なら今すぐ私の前に来てよ、憂。

憂『そして、もし、これを紬さんが見ていたら、お願いがあります』

憂『紬さん、私は貴女の優しさをよく知っています。
紬さんの優しさは、お姉ちゃんの優しさと凄く似ているから……。
だから、貴女はお姉ちゃんと同じ苦しみを感じていると思います』

憂『だからお願いです、苦しみを一人で抱え込まないで下さい。
困った事や辛い事があったら、お姉ちゃんに相談して下さい。
お姉ちゃんは絶対に紬さんの力になってくれる筈です。
それが私のお姉ちゃん、平沢唯です』

憂『私は毎日家事をして、お姉ちゃんのお世話をしてると思われています。
私がいないと、お姉ちゃんは一人では何も出来ない、なんて知り合いから言われる事もありました」

憂『でも、それは違います』
  
憂『本当に困った時、辛い時、私はいつもお姉ちゃんに助けられてきました。
いつもダラダラしていて、怠け者の様に思われる事もあるお姉ちゃんですが、いざという時には物凄い力を発揮するんです。
お姉ちゃんを、平沢唯を信じて頼って下さい。私が保証します』

憂『お姉ちゃん、私はお姉ちゃんの事なら何でも分かるよ。
私がこんな事を言わなくても、お姉ちゃんは全力で紬さんを守ろうとするって』

憂『でもね、これだけは言わせてね。
お姉ちゃんが傷付いたら、紬さんも傷付くって事。
だから、自分の事も大切にして。紬さんの為に』

憂『紬さん、私は今まで辛い事があっても、二人だから乗り越えられました。
紬さんも、もう一人じゃありません。お姉ちゃんが付いてます。
私がそうだった様に、貴女もお姉ちゃんと一緒なら絶対に大丈夫です。
紬さんとお姉ちゃんの無事を、心から願っています』

憂『最後に、お姉ちゃん、私はお姉ちゃんの事が大好きです。
世界で一番、お姉ちゃんの事が大好きです。
私のお姉ちゃんでいてくれてありがとう。
私は貴女の妹で本当に幸せでした』

憂は涙を流しながら、今までで一番素敵な笑顔を見せた。
それは作り物ではない、本物の笑顔だった。

そして映像は完全に途切れた。


唯「うい……」

唯「うい……うい……ぅぅぅ……う゛い゛ーーーー!」

唯「あ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ーーーーーーーー!!」

唯「う゛う゛ぅ゛う゛ぅ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ーーーーーー!!!」

唯「う゛い゛ーーう゛い゛ーーーう゛い゛ーーーー!!!!」

人間の体の中には、どれ位の涙が蓄えられているのだろう。
私の瞳からは大粒の涙が止まる所を知らずに流れ落ちた。
まるで、体中の全ての水分が飛び出していくかの様に。

ムギちゃんは激しく震える私の体を強く抱き締め、私を静めようとしてくれた。
そのムギちゃんの目からも激しく涙が溢れていた。
それでも、私は湧き上がる感情を抑える事が出来ず、その衝動に従うまま号泣し続けた。

憂は駄目な妹なんかじゃない。世界で最高の妹だ。
私はありったけの言葉を並べて、それを憂に伝えたい。伝えたかった。

でも、それはもう無理なんだね……。

ごめんね憂。こんなお姉ちゃんで本当にごめんね。


私とムギちゃんはベッドに横になり、白い天井を眺めていた。
毛布の下で、私達は手を硬く結び合っていた。

唯「私ね、過去を全て切り捨てるつもりだった……」

唯「憂の事も、和ちゃんの事も、りっちゃんの事も、澪ちゃんの事も、いちごちゃんの事も、しずかちゃんの事も、全部切り捨てようと思ってた……」

唯「だって、みんなの事を考えていると、どうしても立ち止まっちゃうんだ……。
過去に縛られて、未来を見る事が出来なくなっちゃうんだよ……。
私一人ならそれでもいいんだ。私はそれだけ罪深い人間なんだから。
でも、私はどうしてもムギちゃんを守りたい……。
過去に縛られてちゃ、ムギちゃんを守る事なんて出来ないんだ……。
だから過去を切り捨てたいの……切り捨てなきゃいけないのに……」

紬「唯ちゃんは私に、自分の出来る事をしているだけ、って言ったわよね?
それなら、自分に出来ない事を無理にする必要はないんじゃないかしら」

ムギちゃんは優しく微笑みながら私に言った。

紬「唯ちゃんに過去を切り捨てるなんて事は出来ないわ。
だって、唯ちゃんはとっても優しい女の子だもの。
今まで自分を愛してくれた人達の事を忘れるなんて出来る筈ない」

唯「でもそれじゃあ駄目なの……駄目なんだよ……。
そんな甘い考えじゃ誰も守れない、救えないんだよ!」

紬「でも、それが今の唯ちゃんなのでしょう?
その甘い考えを捨てる事が出来ない、それが唯ちゃんなの。
私はそれでいいと思ってる。だって、それが唯ちゃんなんだもの」

紬「無理に自分を変える事なんて絶対に出来ないわ。
そして、出来ない事をしようとすれば、必ず失敗してしまうのよ」

ムギちゃんは和ちゃんと同じ事を言った。
和ちゃんの言う事はいつでも正しかった。
私はそんな事すらも忘れてしまっていた。

紬「でもね、私は唯ちゃんの事を信じているの。
唯ちゃんは過去を切り捨てなくても、必ず私を守ってくれるって。
だって、憂ちゃんのお墨付きを貰っているんだもの」

唯(違う……私は……)

紬「それにね、私、憂ちゃんの言葉を聞いて思ったの。
私も誰かを守りたい、ううん、唯ちゃんを守りたいって。
私は今まで、誰かに守られてばかりだったわ。
その度に、自分の無力さを痛感していたの」

紬「私には財力……お金がある。
でも、そのお金は私自身の力じゃない。
全て私の親の力で、私はそれを借りているだけ。
バイトを始めて、私はその事に気が付いたの」

紬「今はまだ、お父様の力に縋って生きるしかない。
でも、私はいずれ自分だけでその力を手に入れたい。
その為に私は経済学、経営学、その他諸々の勉強をしてるわ。
それが今の私に出来る事、それしか私には出来ないから」

紬「そして私は今、もう一つの目標が出来たの。それは、早く元気になる事よ」

紬「今の状態では、私は唯ちゃんに何もしてあげられない、
唯ちゃんに守って貰うだけの存在だから。
私も元気になって、唯ちゃんを守れる人間になるわ」

ムギちゃんは目を輝かせながら言った。
この施設に来てから、初めて見せた眩しい笑顔だった。
その笑顔を齎したのは、憂の言葉だ。

私だけでは、ムギちゃんのこの笑顔を生む事は出来なかっただろう。

私一人では何も出来ない……。
でも、今はそれでも構わない。
ムギちゃんが笑ってくれるならそれでいいんだ。

私は、今の私の力を素直に認める事にした。
そして、私は私に出来る事をする。

それから私の新しい毎日が始まった。



一週間後、ムギちゃんは順調に回復し、病室から出る事が決まった。
これからは、特権階級居住区のスイートルームで暮らす事になる。

私もこの一週間で、以前とは比べ物にならない位体調が良くなった。
その主因は、食事をちゃんと取り、決して吐き出さないという私のルール。

味のしない食事が苦手なのは今も変わらない。
でも、食物が体の中に入れば、味など関係なく私のエネルギーになる。

ムギちゃんも、少しずつサプリメント以外の物を口にするようになった。
以前の私と同じで極少量ではあるけれど、0が1になる事は大きな変化だ。

また、ムギちゃんは医務室で一日に2時間ずつ3回、計6時間の点滴を行っている。
この間、ムギちゃんはずっと医務室に篭り本を読んでいる。

私はムギちゃんと別れるその時間を利用して、密かに様々な特訓をしていた。
その例の一つとして、私は斉藤さんにお願いをし、車の運転を教わっている。
もし、これから外に出るような事になった場合、車という移動手段は非常に魅力的だ。
長距離を楽に移動できるし、何より徒歩で移動するよりも安全性が格段に高い。

その他にも、護身術、応急手当の方法など、役に立ちそうな様々な事を教えて貰っている。
それらは全て、和ちゃん達がしていた事だ。
彼女達も、私に知られずに様々な訓練や準備をしていたのだ。

私が彼女達の様になる事は無理かもしれない。
それでも、私は彼女達の様になりたかった。

その為に努力をしたっていいだろう。
例えそれが無駄な足掻きであったとしても。

ギターも弾くようになった。
ギターは私が持っている最大の「力」だという事に気付いたからだ。

特権階級の中にはプロのミュージシャンや楽器の修理技術者もいるらしい。
さらにスタジオ、楽器、楽譜、修理道具なども揃っていて、音楽活動に不自由はしない。

私はスタジオが空いている時に限り、利用出来る許可を貰った。
しかし、私は主に自室でギターの練習をしていた。
ムギちゃんが、私のギターを聞きたいと言うからだ。

スタジオまではそれなりに距離があり、その移動はムギちゃんの負担になる。
今の状態のムギちゃんに、あまり体力的負担を掛けさせたくはない。

それに、私もムギちゃんも、あまり外出が好きではなかった。

私達は、外見をそれ程気にするタイプではないけれど、まだ十代の女子高生だ。
今の窶れた姿に、多少のコンプレックスを持っていた。

それは、私達が精神的ゆとりを持ち始めていた事をも意味していた。
自分の容姿に気を遣う余裕が出てきたのだ。

私は、今までに覚えた曲をムギちゃんに唄って聴かせた。
暫くギターには触れていなかったけれど、体が全てを覚えていた。
ムギちゃんは私のギターを聴くと、満面の笑みで私を褒め称えた。
私はムギちゃんの笑顔が見たくて、次々と新しい曲も覚えていった。

今、私は、私だけの「力」でムギちゃんに笑顔を咲かせているのだ。

特権階級居住区での生活は、一般人居住区での監獄の様な生活とは似ても似付かぬモノだった。
仕事は無いし、規則も無い。贅沢品も取り揃えられ、まるでリゾート地だ。

今更驚く事ではないが、この施設には豪勢なスポーツクラブなどの娯楽設備も完備されていた。
私はそこで水泳を始める事にした。
水泳は全身の筋肉を使うバランスの良い運動、和ちゃんがその様な事を言っていたからだ。

特権階級専用らしく、そこで汗を流している人間は品も身形も良い者達ばかりで、
私が一般人居住区で見た人達と、同じ人間であるとは思えなかった。

皆の表情は明るく、談笑し、面識の無い私にすら挨拶をしてくる。

それにしても、同じ施設の中に、こんなにも異なった空間が存在していたとは。
あらゆる娯楽を楽しむ事が可能な、優雅で贅沢な生活。
「お金持ち」達の暮らし振りは、私の想像を遥かに超えていた。

その事実を知った時、私はある種の「恐怖」とも言うべきモノを感じていた。

何故、この人達はそんなに「普通」でいられるのだ?
果たして外の惨状を知っているのだろうか、と。

一般人の居住区にいた人達は、皆常に何かに怯えていた。
外で地獄を体験した人間ならば、その理由などすぐに分かるだろう。

皆、危惧しているのだ。
この安全がいつか失われるのではないかと。

特権階級の人間達は、今の安泰が恒久であると信じている。
何があっても、自分達の安全は保障されているのだと。
噛み付き病が大騒ぎされる以前の人達と同じ心理状態。

『世界が崩壊する訳が無い』

根拠もなく、ただ盲心的にそう思い込んでいるのだ。

特権階級の人間はテレビを観る事が出来る。
通信衛星を利用して、今も普通に放送は継続されていた。
世界の状態は、その放送から全て知る事が出来る。

しかし、彼等には実感が無いのだ。

ニュースで戦争の光景を見るだけで、戦争の悲惨さを実感する事などできまい。
飢えに苦しむ人間達の存在を知った所で、我々は贅沢をやめる事などできまい。

所詮は他人事なのだ。
彼等にとって、噛み付き病など他人事に過ぎないのだ。

実際に自らが体験しなければ、それが事実であろうが虚構なのだ。

和ちゃんは言っていた。

「安心」は「慢心」を生み、そこから「綻び」が生じる。
小さな「綻び」はやがて大きくなり、全てを「瓦解」させる、と。

小学校の国語の授業で「油断大敵」という言葉を習った時の話だ。

私はこの「偽りの安全」に満ちた世界に染まらぬよう心掛けた。

ここでは、自ら何もしなくても、全て周りの人間が世話をしてくれる。
その為に、専用に雇われているスタッフ達が居るのだ。
一部の一般人は、そのスタッフの人達に雇われ仕事をしていた。

私は出来るだけ他人の手を借りないようにした。
掃除、洗濯、炊事……。私が憂に任せっきりにしていた事だ。

食材を貰い、一部厨房を借りて調理をさせて貰った。
私の調理する姿を見て、料理人達は私に包丁の使い方などを親切に指導してくれた。
聞くと、危なっかしくて見ていられなかったそうだ。
私は厨房の料理人達と親しくなり、様々なレシピも教えて貰った。

私の味覚消失は非常に特殊で、自分で料理した物の味は感じる事が出来た。

ムギちゃんは、私が料理を始めた日から、私の料理を食べてくれている。
最初は下手だからと断ったが、それでも私の料理が食べたいと言って聞かなかった。

ムギちゃんは、私の料理をいつも笑顔で受け入れてくれた。
僅かな量でも、ムギちゃんが食事をする姿を見られる事は私の幸せだった。

12月17日

ムギちゃんと一緒にこの部屋に引っ越して来てから一ヶ月が過ぎた。
伸び放題だった髪も切り、私は以前の健康的な姿に戻りつつあった。
ムギちゃんも、痩せたままではあるけれど、血色は以前より大分良くなっていた。

唯「きつい……。この服、ちょっと小さいかも……」

紬「新しい服を貰いに行きましょう。可愛い服もいっぱいあるわ」

一般人に配給される普段着や寝巻きは全て同じ物だった。
唯一違う所は、刺繍されている番号。
年頃の女の子が着る様な柄の物ではないが、私はこれが結構気に入っていた。

唯「そうだね、ムギちゃんも一緒に来てくれる?」

紬「もちろんよ」ニコ

私がムギちゃんに案内され着いた先は、まるで高級デパートの様だった。
見るからに高そうな服達が、所狭しと並べられている。
普段着から礼服、パーティードレスまで、あらゆる服が揃えてある。
ここに置いてある物は全て女性物で、男性物はまた別の所にあるらしい。

階を見回すと、小さな女の子を連れた貴婦人が子供用の服を選んでいた。
ムギちゃんは店員らしき人と何やら話をしている。

私は以前着ていた作業服が妙に懐かしくなっていた。

ムギちゃんは店員らしき人を引き連れ、私の元に来た。

紬「それじゃあ、唯ちゃんの服を選びましょう」

唯「あの、ムギちゃん、この服とかっていくら位するのかな……?」

紬「あ、ここの服は全て無料なの。だから好きなのを選んでいいのよ」

これは後に斉藤さんに聞いた話だけれど、この施設の特権階級にいる人達は、多額の入居資金を支払っている。
それには、この施設のあらゆる設備・備品の使用権利も含まれているのだ。

特権階級の人間達は「被災者」ではなく「お客様」なのである。

そして、それを証明するのがこの黒いIDカード。
この黒いIDカードこそ、ここでの絶対的権力の証、「力」の象徴なのだ。

私は、陳列されている服の中から動きやすそうな物を数点選び、それを店員らしき人に渡した。

後でこの人が私達の部屋まで荷物を持って来てくれるらしい。
それ位自分で出来るけれど、ムギちゃんの顔を立て、それに従う事にした。

紬「唯ちゃん、この服なんてどうかしら?」

ムギちゃんが可愛らしいひらひらした服を持って来た。

紬「唯ちゃんにはこういう服が似合うと思うの。ちょっと着てみてくれる?」

私がその言葉に逆らえる筈がない。
私はムギちゃんの着せ替え人形になった。
試着室で服を着替えムギちゃんに見せると、
ムギちゃんは絶賛し、とても喜んでくれた。

この笑顔の為なら、私はどんな事でもしよう。

紬「とっても可愛いわ、唯ちゃん」

結局、試着した服は全て貰う事になった。


次の日、私は今まで着ていた一般人用の普段着と寝巻きを返しに行く事にした。

私が一般人であったという証の物達。
何だか名残惜しい気もするけれど、サイズが合わないからどうしようもない。

私は久しぶりに一般人の居住区に来ていた。
以前には気付かなかった、その異様な雰囲気を私は感じ取っていた。

最初にここに来た時は、私自身絶望し、周りを気にする余裕など全く無かった。
だからこそ、今初めて私はこの場が異質である事に気付いたのだろう。

皆、私の方に視線を向ける。

私だけが皆と違う、綺麗な服装をしている。
この空間で、私は目立ち過ぎていた。

私は早足で受付に向かった。

受付嬢「あら……貴女は……平沢さん?」

唯「お久しぶりです」

受付嬢は私の事を覚えていたようだ。

受付嬢「以前と姿も服装も違うので驚きました。元気になったみたいですね」

この人は私の事を心配していてくれたらしい。

唯「あの、今日は服を返しに来たんです。サイズが合わなくなってしまって……」

受付嬢「分かりました。新しい服は……必要無いみたいですね」

唯「あ、宜しければ、新しい普段着を2着ほど頂きたいです。
動きやすいし、ちょっと汚れるような事もしているので……」

受付嬢「分かりました、平沢さんに合いそうな服を持ってきますね。少々お待ちを」

そう言うと、受付嬢はカウンター奥の扉の中へと消えていった。

5分位経っただろうか。
扉が開き、中から受付嬢が服を2着持って私の前に来た。

受付嬢「どうぞ」

唯「ありがとうございます」

私は服を受け取り、足早にその場を後にした。

一般人居住区……。
私は、私が傷付けたあの女達の事を思い出していた。

何故、彼女達は私達を傷付けたのか。
彼女達があんな風になってしまった原因は何だったのだろうか。

もしかしたら、ここでの厳しい生活が彼女達を変えてしまったのかもしれない。
あんな雰囲気の中で、まともな精神でいられる筈が無い。
私は今日、あの場に行ってそれを確信した。

もし、私が彼女達の苦悩に気付き、もっと優しく出来ていたら……。
もしかしたら、私達は友人になれたかもしれない。

もう一度彼女達と会おう。

彼女達には仕事がある。今行っても会えない可能性が高い。
私は彼女達が部屋に帰るであろう時間まで待った。

21時。今なら彼女達も部屋にいる事だろう。
ムギちゃんは22時まで夜の点滴をしている。

台の上のお菓子の詰まったバスケットを持ち、私は彼女達の元に向かった。

彼女達の部屋は変わっていた。
私が騒ぎを起こした日から、あの部屋は空き部屋となっている。

私は受付嬢に無理を言って、彼女達の新しい部屋を教えて貰った。
大丈夫なの?と、受付嬢は心配そうに私に尋ねた。
当然この人も、あの事件の事を知っている。
彼女達が仕事をサボっていた事も、事件後聞かされたという。

私とあの女を引き合わせた張本人。
私に良かれと引き合わせた人物が、私をひどい目に遭わせていたのだ。

受付嬢にも、罪悪感があったのだろう。
事件後、受付嬢は私に会いに来て謝罪をした。

私はこの人を恨む気持ちなど全く無かった。
この人は純粋に私の事を想ってくれていたのだから。
受付に行く度、私の体の事を心配してくれていた。

唯(この人にも何かしないといけないね……)

私はバスケットの中からお菓子を取り出し、お礼を言って彼女に渡した。

私は新しい彼女達の部屋の前に来た。
彼女達はまた全員で同じ部屋に住んでいる様だ。

私はドアをノックした。
一般人用の部屋にはインターホンなど無い。

暫くして、ドアが開けられた。
私を出迎えたのは、私と一緒に仕事をしていた筈の女だった。

女「……どちら様?」

唯「平沢唯です……。……入っていいですか?」

女「平沢……お前が……? まぁ、取り敢えず入んなよ。歓迎するから」

意外な返事に、私は一瞬戸惑った。
私は彼女に導かれ、部屋の中へと入っていった。

部屋の中には、いつもの女達がいた。
皆、最初は私の事が誰だか分からなかった様だ。

唯「あの……」

私が彼女達に話し掛けようとすると、それを遮るかの様に女達が口を開いた。

女「本当にごめん、平沢さん!」
女2「私達、本当に反省してます」
女3「ごめんね」
女4「許してください」

彼女達は口々に謝罪の言葉を述べた。

唯「あ、あの……私の方こそごめんなさい。その、これ……」

私はお菓子の入ったバスケットを差し出した。

唯「今更こんな事を言うのはアレなんだけど……、私、みんなと仲直りしたくて、これ持って来たの……。
良かったら、これみんなで食べて下さい……」

女「えっ? いいの? マジ嬉しい! ありがとう、平沢さん!」

女2「平沢さんも一緒に食べようよ」

女3「うんうん、そうしなよ」

女4「迷惑じゃなかったら……」

私は彼女達と一緒にお菓子を食べる事にした。

唯「私ね、みんなの事、全然知らないから……。
良かったらみんなの事、色々教えて貰えないかな……?」

私は今まで、彼女達がどういう人間かという事に全く興味が無かった。
彼女達だけではない。私は他人に全く関心を持てずにいた。

しかし今、私はここに住んでいる人間全てに興味が湧いていた。
一般の人も、特権階級の人も、どういう経緯でこの場に居るのだろうか、と。
そして今、何を考えているのだろうか、と。

この施設にいる全ての人間に話を聞く事は不可能だろう。
しかし、自分に関わった人間達の事位は知っておきたかった。
どのような形であれ、この女達は私に関わりのある人間なのだ。

彼女達は自分達の事を語り出した。

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