唯「ゾンビの平沢」

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★6

近くの給湯室でコップに水を注ぎ、それを持ってムギちゃんを自分の部屋に招き入れた。

私達はコップの水に口を付け、高ぶった感情を静めた。

ムギちゃんは私に聞きたい事が山程あるだろう。
しかし、私がムギちゃんに聞きたい事は何も無かった。

何故なら、私は彼女を見て全てを理解したからだ。

彼女は私達よりも先にウイルスの危険性を認知した。
それは恐らく、琴吹グループの情報網からだろう。
危険性を知った父親は、逸早く安全な場所へと逃れようとした。
琴吹家の力ならそんな事は容易い筈だ。

避難先としてこの核シェルターが選ばれた。

しかし、それは彼女の意図したモノではなかった。
彼女は仲間を見捨て、一人だけ安全な場所へ逃げる事など望んではいなかった。
恐らく、ここにも強引に連れて来られたのだろう。

その事で彼女は自責の念に苛まれ、拒食症に陥ったのだ。

私にはムギちゃんの心が手に取るように分かった。
ムギちゃんが最初に私にする質問の内容でさえも。

紬「唯ちゃん、他のみんなは……?」



私はムギちゃんに声を掛けられた瞬間から、この質問にどう答えるかを只管考えていた。
事実を言えば、彼女が傷付き苦しむ事は間違いない。

ムギちゃんは真正面から私の顔をじっと見詰めている。
私はどうすれば良い……?

唯「……ムギちゃんがいなくなった後、暫くは普通の生活をしてたの。
でも、感染者がどんどん増えていって……。
そのうちに噛み付き事件とかも増えていって、大変な事になって……」

唯「それで、みんなで都心に在るこういう施設に逃げようって話になったの。
和ちゃんの知り合いにその施設の関係者がいて、和ちゃんにお願いしたら、みんなもそこに連れて行ってくれるって……」

唯「それで、車でその施設に向かっていたんだけど、途中で感染者に襲われちゃったの。
そこをたまたま通りかかった人達に助けられて……」

紬「……」

ムギちゃんは私を注視している。


唯「私達はその人達の車に乗せて貰う事になったんだけど、私だけみんなと別の車になっちゃって……」

唯「それからまた感染者に襲われたんだけど、私の乗ってた車のガソリンが無くなっちゃって、車から降りて逃げていたら、皆バラバラになっちゃったの」

唯「それで私は一人になって、道を歩いてたら車が来て、それに乗せて貰ったの。
行き先とか確認しなかったら、こっちの方まで来ちゃってて、 それからまた感染者に襲われて……。
そこを、ここの関係者の人に助けて貰ったの」

紬「……」

唯「他のみんなは、たぶん東京の施設にいると思う」

私は口から出任せを言った。
即興の割にはある程度の辻褄は合わせられたと思う。

そもそも、私一人が長野にいる状況自体が不自然極まりない。
長野に核シェルターが在るという噂を聞いて、和ちゃんが車を運転してここまで来た。
この真実こそ信じ難い話だろう。
私の作り話の方が、むしろ現実味があるのではなかろうか。

紬「……」

唯「正直言うと、私も憂達の事が心配なの。
ちゃんと無事でいるのかなって……。
でも、私はみんなが無事だって信じてる。
だから、ムギちゃんも心配しないでね。
きっといつか、また会えるから……」

紬「そうね……」

どうやらムギちゃんは私の話を信じてくれたようだ。
ムギちゃんは私を「嘘の付けない子」と信じている。
あの頃の私は、確かにその通りだった。

でも、今は違う。

私は平気で人を騙せる人間になったのだ。
その事を、ムギちゃんは知らない。

紬「でも、私はみんなに会う資格が無いわ……」

唯「どうして?」

理由など聞かなくても分かっていた。
けれど、私はそれに気付かない振りをした。

私は鈍感な人間なのだ。
少なくとも、ムギちゃんがいた頃の私はそうだった。
私はあの頃のままの自分を演じる必要があった。
私は何も変わっていない、「平沢唯」だ。

彼女の為に「平沢唯」という存在でなければならないのだ。


紬「私はみんなを裏切った……。みんなを見捨てて、一人だけ逃げたの……」

ムギちゃんの目からまた涙が溢れ出した。

紬「私は最低の人間なの……。
私はみんなに合わせる顔が無いわ……。
唯ちゃんにも謝らなければならないのに……。
ごめんね唯ちゃん……ごめんね……本当に……ごめんなさい……」

ムギちゃんは台に伏し、大声で泣き出した。

私はムギちゃんの方に移動し、後ろから優しく彼女を抱き締めた。

私にはムギちゃんの苦しみが誰より理解できる。
ムギちゃんと私は同じ苦しみを抱いているから。

唯「泣かないでムギちゃん……。
私達はムギちゃんの事を咎めたりしないよ。
みんなムギちゃんの事が大好きだから……。
それは何があっても変わらない事だから……」

紬「そんなの嘘よ……。
私は嫌われて当然の人間だもの……。
みんな私を軽蔑しているわ……」

唯「そんな事無い、絶対無いよ。
私達はね、ムギちゃんが安全な所にいるって分かってた。
だから、私達は安心してたの。ムギちゃんは大丈夫だって。
安全な所にいる事を非難する親友なんていないんだよ?」


唯「私達はね、ムギちゃんが無事ならそれだけで良かったの。
だって、ムギちゃんは親友だもん。
ムギちゃんだって同じでしょ?」

紬「唯ちゃん……」

唯「だから大丈夫。私達もみんな無事だから。
だって、一番ドジで頭の悪い私が無事なんだよ?
こんな私が無事なら、他のみんなだって無事に決まってるよ」

私はありったけの笑顔を作って見せた。
この場所に来てから、初めての笑顔。
今の私はちゃんと笑顔を作れているだろうか。

いや、作れている筈だ。
大好きなムギちゃんの為の笑顔なのだから。

紬「唯ちゃん……唯ちゃん……」

私達は互いに向き合い、強く抱き締めあった。
この場所に来てから、初めて感じた温もりだった。



紬「この施設はね、父の知り合いが作ったの。
建設費用も琴吹グループがかなり援助したらしいわ。

もともとは、核シェルターとして建造されたモノらしいけれど」

紬「父達はこのウイルスの危険性を以前から知っていたみたい。
私が父に、軽音部の子が感染したって言ったら、突然学校を辞めろって言われたの……。
私は反対したけれど、結局辞める事になって……。
噛み付き病が流行し始めた当初から、この施設に避難する事を検討していたと後で聞かされたわ」

紬「私はその後ずっと自宅から出してもらえなくて、携帯も取り上げられてしまって、みんなに連絡出来なかったの……。
ここに連れて来られたのは、四月の中旬頃だったと思う。
父も斉藤も、その頃ずっと外国を飛び回っていて、私は一人だった……」

紬「唯ちゃんがここに来た事はね、私の耳にも届いていたの。
といっても、その時は唯ちゃんって確証は無かったのだけれど……。
ギターを持った十代の女の子を保護したって話を聞いて、もしかしたらって思って……」

紬「本当はすぐに会いに来たかったのだけれど、この区域に来る事を父に物凄く反対されちゃって……。
それでも、どうしても確認したくて、黙って抜け出して来ちゃったの」

紬「ここは一般人の居住地区で、私達の居住区は別の所にあるの。
この施設は全体を高い壁で囲んであるから、敷地内なら外にも出られるのよ。
唯ちゃんも、これからはそこで生活するの。
部屋は広くて綺麗で陽も射すし、甘いお菓子もお茶もあるわ。
テレビも観れるし、ギターのアンプだって用意できるから」

最初から気付いていた。
ここには二種類の人間がいるのだ。
支配する者と支配される者。

ムギちゃんは支配する者、特権階級の人間。
そして私は支配される者、労働階級の人間……奴隷なのだ。

文明社会というのは、常にこの二つの階級で構成されている。
もし、特権階級の人間しかいなかったら、その中の誰かが汚い仕事、危険な仕事、キツイ仕事をしなければならない。

だから、彼等には私達のような奴隷が必要不可欠なのだ。

その奴隷は、この施設の外に行けばいくらでも手に入る。

私達一般人を「救助」という名目でここに連れて来ればいいのだ。
私達は安心、安全を手に入れ、その対価として労働力を提供する。
互いに損の無い、非常に理に適ったやり方ではないか。

紬「だから唯ちゃん、私と一緒に来て?」


ムギちゃんに付いて行けば、私は何不自由なく生活出来るだろう。
特権階級、その中でも最も権力を持つ人達の仲間入りをする事になる。

でも、それでいいのだろうか?

いや、そんな事が許される筈が無い。
私は贖罪に生きなければならない人間なのだ。

唯「ごめんねムギちゃん、私は一緒に行けないよ……」

紬「どうして……? どうしてなの? 唯ちゃん……」

唯「私さ、今までずっとみんなに迷惑掛けてきて、一人じゃ何も出来なくて……。
だから、今は少しでもいいから自分に出来る事がしたいの。
ムギちゃんには、今まで凄くお世話になっていたから、これ以上ムギちゃんに迷惑を掛けたくないし……。
だから、今まで通りここで働きたいの。
それが今私に出来る、精一杯の恩返しだから」

紬「……分かったわ、唯ちゃん……」

紬「私もここで唯ちゃんと一緒に働くわ」

唯「えっ? ムギちゃん、ちょっと待って……」

紬「私もね、もう誰かに守られているだけじゃ嫌なの。
だからね、私も唯ちゃんと一緒に頑張りたいの。
私もここに住んで、一緒にお仕事をするわ」

本当なら、強引にでもその申し出を断るべきだった。
今のムギちゃんの体で労働などさせたくなかった。

しかし、私はムギちゃんの意思を尊重した。

ムギちゃんは私と同じ苦しみを味わっている。
彼女も自らの贖罪を求めているのだ。

唯「一緒に頑張ろう、ムギちゃん……」

紬「ええ、唯ちゃん……」

その後、私達は一緒に入浴した。
ムギちゃんの体は、余りにも痛々しかった。
それなのに、彼女は自分の体の事など気にせず、私の体に付いている痣について執拗に尋ねてきた。

ドジが原因だと、私はその場を上手く濁した。

その日、私達は一つの布団で一緒に寝た。
人の温もりがこんなにも暖かかった事を、私は忘れていた。


次の日から、私はムギちゃんと共に行動するようになった。
そして、ムギちゃんが何故この様な姿になったのかが明らかになった。

私の予想通り、ムギちゃんは食事をしていない。
私の食事中、彼女はサプリメントの様な物を飲んだだけだった。

私は彼女が気を遣わぬよう、いつもより食事の量を多めにしていた。

私はいつも通りに受付に行った。
ムギちゃんは私達とは違う、黒のIDカードを持っていた。
それを見ると、受付嬢はムギちゃんの言いなりになった。

あの黒いIDカードは特権階級の証の様だ。

私はいつも以上にテキパキと掃除を熟した。
私が頑張れば、それだけムギちゃんの仕事が楽になる。
私は彼女の負担を出来るだけ減らすよう心掛けた。

彼女の掃除の手際は悪かった。

いつも私達にお茶を淹れてくれていた彼女だが、本来お嬢様である彼女が雑務などする筈が無い。
まして、トイレ掃除など初めての経験だろう。

そう、ムギちゃんはお嬢様なのだ。

今までずっと誰かに守られてきたのだろう。
私も彼女も、常に誰かに守られて生きてきた。

しかし、彼女は自身を守る檻から抜け出してきてしまった。
彼女を守る者達がいないこの場所に。
今、ここで彼女を守れる者は私しかいないのだ。

私はムギちゃんを守る檻になろう。

今までムギちゃんは一人で苦しんできた。
彼女が私と同じ苦しみを背負っているのなら、誰かの支えが必要なのだ。
そして今、彼女の支えになる事が出来るのは私しかいない。

私はムギちゃんを守る事によって「人間」で在ろうとした。
みんなが私にそうした様に……。
それこそが、私の罪の償いになるのではないかと思ったのだ。


夕食の時間、ムギちゃんは用があると言い、一人出掛けて行った。
私が食事を終え部屋に戻ると、そこは朝の時とは違う空間になっていた。

間違いなくムギちゃんの関係者だ。

部屋は綺麗に掃除され、壁紙も新調されていた。
床には綺麗な絨毯が敷かれ、テーブルは可愛らしい物になっていた。

壁際には小さな棚が置かれ、綺麗な食器が納まっていた。
その引き出しには、様々な茶葉が詰まった缶が入っていた。
その横には、桃色の給湯器が置かれている。

部屋の隅には、新品の様な二人分の布団が綺麗に畳まれ積まれていた。

私の荷物も整頓され置かれていた。
その横には、ムギちゃんの生活用品が置かれていた。

紬「ただいま……これは……斉藤の仕業ね」

どうやらムギちゃんも知らなかった様だ。


ムギちゃんは手に洋風の籠を持っていた。
その中には、果物とお菓子が入っていた。
クッキー、梨、バナナ、苺……。

紬「唯ちゃんに食べて貰おうと思って持ってきたの」

ムギちゃんは棚の中の物を確認した後、ティータイムの準備を始めた。
部屋の中はダージリンの甘い香りで充満していた。

紬「どうぞ、唯ちゃん」

微笑みながらムギちゃんは、紅茶の入ったカップを私の目の前に置いた。

ティータイム……これは彼女の贖罪の一つの形なのだろう。
彼女は私に許しを請うているのだ。

ならば私は、その全てを受け入れなければならない。
私は彼女のティータイムに笑顔で応えた。

私はムギちゃんが剥いてくれた梨を口に入れた。
やはり何の味もしなかった。
私はテーブルの上に置かれた食材を一心に貪り、紅茶で強引に胃袋へ流し込んだ。
紅茶は泥水の様に感じられた。

その後、私はトイレで全てを吐き出した。
私の体は、最低限生きる以上の養分を受け入れる事が出来なくなっていたのだ。

それから毎日、食物を胃袋に入れ、それを吐き出す作業が続いた。


そして今日も偽りのティータイムが始まる。

ムギちゃんは、私のギターが聞きたいと言った。
私は手が痛いと偽り、それを断った。
ムギちゃんの悲しい顔を見て、私の心は痛んだ。
けれど、ギターを弾く事は、今の私にはどうしても無理だった。

彼女は私の演奏を聞いて、あの頃の放課後ティータイムを感じたいのだろう。
私がギターを弾かなくてもそれは可能だった。
私のポーチには、放課後ティータイムの演奏DVDが入っている。
ムギちゃんがいない新歓ライブの映像もある。

しかし、私はその事をムギちゃんには言わなかった。言えなかった。
今、あの映像を見てしまったら、私は完全に壊れてしまうだろう。
親友達の姿を見てしまったら、私も彼女達の元へ行きたくなってしまう。

私はDVDの存在を心の奥に封印した。

ムギちゃんとの生活にも慣れてきた頃だった
すっかり忘れていた人物が、また私達の前に現れた。

あの女達が。

きっかけはムギちゃんの行動だった。

ムギちゃんは夕食の時間にどこかに行き、ティータイムの為のお菓子や果物を持ってくる。

ある日、部屋に来る途中で会った人物にお菓子を分け与えた。
その人物がとても疲れた顔をしていたので、お菓子で元気になってもらいたかったらしい。

その話が広まってしまったのだ。

私達一般人は、食事に稀に果物が出る事はあるが、クッキーやチョコなどのお菓子は一切口にする事が出来なかった。

お菓子が食べられるのは、特権階級の人間だけなのだ。

ムギちゃんはその事を知らなかった。
その事が、貪欲なハイエナを呼び寄せてしまった。

女達がムギちゃんに集りに来たのだ。


紬「ごめんね、今日はこれしか無いの……」

そう言って、ムギちゃんは二枚のクッキーと一粒の苺を差し出した。
残りは女達に取り上げられたのだろう。

紬「あの人達、可哀相だったから分けてあげたの」

ムギちゃんは女達に騙されていた。
仕事も出来ない程体調の悪い子がいて、その子にお菓子や果物を食べさせて元気にさせたいのだと言われたらしい。

私は女達の悪行をムギちゃんに暴露し、ムギちゃんの執事に頼んで、奴等をムギちゃんから引き離して貰おうかと考えた。

しかし、ムギちゃんの話を聞くうち、それが果たして正しい事なのかどうか迷った。

紬「私、今まであんなに頼られた事は無かったの。
食べ物を持って行くと、皆感謝してくれて……。
病気の子も凄く喜んでくれているらしくて、手紙まで貰ったの」

ムギちゃんは嬉しそうにその手紙を見せてくれた。
手紙には感謝の言葉が書き連ねられていた。

悪党が。


紬「私、彼女達の力になれて凄く嬉しいわ。
これからも彼女達の力になってあげたいの。
でも、それで唯ちゃんのおやつが減ってしまって……」

ムギちゃんは悲しそうな顔をした。

あの悪党達がムギちゃんを元気付けて、私がムギちゃんを悲しませている……?

また私は間違えてしまったのだろうか?

唯「私は大丈夫だよムギちゃん。
それより病気の子、早く元気になるといいね。
お菓子の事は気にしないでいいからね」

紬「……ごめんね、唯ちゃん……」

唯「だから、謝らなくていいの!
病気の子を差し置いてお菓子を食べたいと思う程、平沢唯は意地汚くないのだよ〜。
私の分も食べさせてあげてね」

紬「……ありがとう、唯ちゃん」

ティータイムのおやつは、いつしか一粒の苺だけになっていた。


女達にとって、ムギちゃんは金づるだ。
ぞんざいに扱う事はしまい。
それに彼女は特権階級だ。

ムギちゃんを傷付ければ、自分達もタダで済まない事は重々分かっている筈だ。

入浴時、私は彼女の体を念入りに確認するようにした。
彼女の体は痩せ細っていたけれど、肌はとても白く綺麗だった。

大丈夫、痣や傷などは一つも無い。
ムギちゃんは物理的に痛い目には遭わされていない。

最近のムギちゃんは、以前よりも明るく振舞っていた。
彼女は大丈夫、私は安心していた。

だが、それは私の大きな勘違いだった。


夕食後、私は自室でムギちゃんが帰ってくるのを待っていた。
しかし、何時まで経っても帰ってこない。

時計は既に22時を回っていた。
幾ら何でも遅過ぎる。胸騒ぎがした。

私は部屋を飛び出し、ムギちゃんを探し回った。

唯(ムギちゃん……ムギちゃん……ムギちゃん……!)

ムギちゃんはCブロックの緊急避難用の階段に倒れていた。
そこは薄暗く、人も滅多に通らない所だ。

唯「ムギちゃん! ムギちゃん!!」

彼女は意識を失いぐったりしていた。
衣服は乱れ、顔や手足には沢山の痣と傷が付いていた。

とにかく医務室に連れて行こう。

私は彼女を抱き起こし、背負って医務室に向かった。
彼女の体は、まるで幼い子供の様に軽かった。

今の私でも楽々と背負い運ぶ事が出来る位に。


私は医務室のドアを激しく叩いた。
ここは私が最初に運ばれてきた所だ。

医師「こんな時間にどうしたんだい?」

唯「ムギちゃんが……ムギちゃんが……」

医師「その子……酷い怪我じゃないか! そこのベッドに寝かして!」

私は近くにあったベッドにムギちゃんを寝かした。
その時、硬く握り締められていたムギちゃんの右手から、一粒の苺が零れ落ちた。

しかし、苺は少しも潰れてはいなく、原型を留めていた。

ムギちゃんは、私の為にこの苺を守ったのだ。
自分よりも、この一粒の苺を……。

私はその赤く美しい苺を口に運んだ。
口の中に程よい酸味を含んだ甘味が充満した。

唯「美味しい……美味しいよムギちゃん……」

私の目からは何故か涙が出なかった。
傷付いたムギちゃんを見ても、ムギちゃんの優しさを感じても……。

私の中に、何か得体の知れない感情が満ち溢れていた。
それは私の体の奥底から無尽蔵に湧き上がってくる。
一体それが何なのか、私には分からなかった。

私は一人、女達のいる部屋に向かっていた。

女達の部屋の前に着き、私はその扉を叩いた。
暫く叩き続けていると、ようやく扉が開いた。

女「何だようっせーな……ってゾンビかよ」

中には女達の他に、私の姿を笑い物にした男達もいた。

女「ちょっと……何なのあんた!」

私は女の制止を無視し、土足のまま部屋の中に入っていった。
部屋の中央の台には、ムギちゃんから奪ったお菓子や果物が置いてあった。

唯「なんで……ムギちゃんを傷付けた……?」

男1「はっ? ムギちゃんって誰だよ?」

女2「あ、もしかして、あいつの事じゃね?」

女3「あーあいつか」

男2「え、誰? 誰なの?」

女4「あの無料自販機」

男3「あ、いつもお前らがカツアゲしてる奴の事ね」

女2「ちげーよ、あいつが自主的に私達に貢いでんの」

女4「そうそう、ちょっと脅し掛けただけなのにな」

唯「……脅した?」

女「あいつが旨い物持ってるって噂聞いてさ、
探してたら、お前と一緒にいる所を見たんだよ。
だから、お前の持ってる物を渡さないと平沢をボコるってね」

男1「ぶっ、それって脅迫じゃん」

女2「誰かにチクったら、仲間が平沢をボコボコにするって保険も掛けて」

唯「……あの手紙は?」

女3「手紙? あー、あれは私があいつに書かせたんだよ。
そうすりゃ、お前も騙されて黙ってるだろうと思ってさ」

男5「女3、お前頭良すぎw」ケラケラ

女4「病気の子の為にとか、マジ吹き出す所だった」

ムギちゃんのあの笑顔は全て偽りだった。
私が彼女を騙しているつもりが、逆に騙されていたのだ。
私を守る為に、ムギちゃんは嘘を付いていた。
私はずっと彼女に守られていたのだ。

唯「それで……なんで……ムギちゃんを……傷付けた……?」

女「全部寄こせって言ってんのに、あいつ苺を隠し持ってたんだよな」

女2「これだけは駄目だとか言って、苺一つに何ムキになってんだか」

女3「だからみんなでボコったワケ」

男1「どんだけ苺好きなんだよそいつ」

思えば、ここでのティータイムには必ず苺が出されていた。

ムギちゃんは覚えていたんだ。
私が苺を大好きだったという事を。
だから最後まで苺を手放さなかったのだ。

ムギちゃんは馬鹿だ。
どうしようもない馬鹿だ。

たかが苺の為にあんなに傷付くなんて。
私の為にあんなに傷付くなんて

唯「んんんんん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛……」


男1「お、おい、なんだよこいつ……」

唯「うううううう゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛ぐぐぐぐぐぐぐぐ……」

女3「な、なんだ……?」

私の体の深部から、マグマのような感情が湧き上がる。
全身が熱くなり、全てを破壊したくなる衝動に駆られた。
その時、ようやく私はこの感情の正体に気付いた。

これは「怒り」だ。

私は今まで「怒り」という感情を知らなかった。
優しい友人達や妹に囲まれていた私には、その様な感情を抱く機会が無かったのだ。

今、私は生まれて初めて「怒り」という感情を知り、それに全身を支配されていた。
無意識に私の体は激しく揺れ、腹の底から湧き出した地鳴りの様な唸り声が口から漏れていた。

男1「おい、その気持ち悪い声やめろ」

男が私の肩を手で押そうとした。
私はその腕を掴み、上腕に思いっきり噛み付いた。
男は悲鳴を上げたが、私はそんな事を気にせず力任せにその肉を喰い千切った。

部屋に女達の悲鳴が響いた。

次の瞬間、私の後頭部に衝撃が走る。

別の男が私の頭を後ろから殴ったのだ。
私はその衝撃で倒れて込んでしまった。

だが、その程度で私は怯まなかった。
私は、私を殴った男の足を掴み、その脛に齧り付いた。
男は悲鳴を上げ倒れた。

その様子を見ていた別の男達が、私を男の足から引き離そうとする。
私は振り返り、私を掴む男の手の指に喰らい付き、それを噛み千切った。

その様子、私の形相を見て、さすがに男達もたじろいだ。
相手は痩せこけた女一人……。
体躯で勝る自分達が、こんな女に負ける筈がない。
そんな思い違いに、漸く気付いたのだろう。

私は近くにいた別の男に飛び掛り、その首筋に噛み付いた。
首の肉を千切ると大量の血が勢いよく噴出し、その血が私の全身を真紅に染めた。

男達は皆完全に戦意を喪失し、私から距離を置いた。
女達は部屋の隅に固まり、体をガタガタと震わせている。

部屋の人間達は、恐怖に怯えた目で私を見ていた。
まるで「ゾンビ」を見るかの様な目で。

私はゆっくり女達に近付いた。
女達は震え泣きながら謝罪の言葉を繰り返している。

今更もう遅いから。

謝る位なら最初からしなければいいのに。
私は貴女達を傷付けないのに、何故貴女達は私を傷付けるの?

その理由がやっと分かったよ。

私が貴女達を傷付けないから、貴女達は私を傷付けるのでしょう?

だったら、傷付けてあげる。

自分が痛みを受けなければ、他人の痛みを理解する事なんて出来はしないんだよ。
二度と私を、私達を傷付ける事が出来ないよう、その体に教えてあげる。
私達に痛みを与えないよう、貴女達に痛みを教えてあげる。

一人の女が立ち上がり、部屋から逃げ出そうと扉の方へ駆け出した。
私は後ろからその女の髪を鷲掴みし、全力で引っ張った。
ブチブチと髪が千切れる音がし、女は悲鳴を上げて倒れ込んだ。

逃がさないよ。

私は恐れ慄く女達の体に噛み傷を付けた。
それは証なの。
貴女達が痛みを知ったという証なんだよ。

大丈夫、ちゃんと服で隠れる所に付けたからね。

女達の部屋を出ると、多くの人が集まってきていた。
全身血塗れな私の姿を見るやざわめき立った。

警備員「皆さん通してください!」

誰が呼んだか、3人の警備員がやってきた。
部屋の防音は悪くないけれど、あれだけ悲鳴を上げれば外に洩れるか。

警備員「き、君、大丈夫?」

唯「はい、私の血じゃないですから」

警備員達の顔が引き攣った。

「ちょっと通してもらえるか?」

人ごみの奥から、一人の紳士がやってきた。
以前、私はこの人を見た事がある。

ムギちゃんの執事の斉藤さんだ。

斉藤「平沢唯さん……だね?」

私は頷いた。

斉藤「彼女は私に任せて、部屋の中を」

警備員「は、はい」

唯「斉藤さん、ですよね。お願いがあるんですけど……。
お風呂に入りたいんです……。入浴時間過ぎてますけど……。
あと、着替えをお風呂場まで持って来て頂けると助かります……」

斉藤「分かりました、着替えもこちらで用意します……」

唯「ありがとうございます」ニコ

私は笑顔で斉藤さんにお礼を言った。
斉藤さんは困惑した顔をしていた。
おかしい、私はちゃんと笑顔を作れている筈だ。

どうして斉藤さんはそんな顔をしているの?

まあいいや。とにかく今はお風呂に入ろう。
体がベトベトして気持ち悪いんだもの。

お風呂に行く途中、すれ違う人達は皆私に奇異の眼を差し向けていた。
私はそれに笑顔で応えた。

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