第11話・電子的会合







イスキは誇らしげだった。防護服に付属するパネルを操作して喪服の男のもとへと手すりを蹴り、天の使いのように飛んでいく。アンチ・グラビティがやっと証明された瞬間だったが、帝国のSP達はアヴェリンの護衛に踏み出した途端、でたらめな重力に足元をすくわれてあちこちへ飛ばされていった。
喪服男はごつい防護服の集団を見送り、くつくつと笑いながら蛍光グリーンの右手をさっと宙にかざした。その手、更に身体は骨格と服の輪郭のみを描き、作りかけの3Dモデルのようであった。
壁を伝う血流のようなグリーンの光源が脈打つ。すぐさまSPや、危うく飛ばされそうになっていたノーマンが掃除機を前にした塵のように乱暴に、昇降機に吸い寄せられていった。

「先生、どうしましょうか。もう少し深部を見学していただいても構いませんよね」

ライゼナウは輪郭だけ形を成した安濃津所長の頬に触れる。安濃津は、あの死んだはずの喪服男はそれを優雅に払った。
ノーマンは防護服を引き裂かんばかりにブチ切れた。国賓のこの慌てようを見て抜け抜けと、この若者は。少し考えている喪服男もまんざらではないようで、軍部での借りをここで返してやろうかと血脈で拳が震える。

『書記官、早急に地上階で本題に入りましょう』

できるだけ急く気持ちを抑えて電脳通信を飛ばした。ただ1人、縫い付けられたように動かなかった書記官は数テンポ遅れて頷いた。しかし、いざ喪服の男、安濃津所長がこちらへ霞のように飛んでくるのを前にしてまた思考を停止させたようだった。

「お待ちください」
『お待ちください』

ノーマンの聴覚がハウリングを起こした。電脳で言葉を発しながら同時に声帯も使って発語した時に発生する現象であった。しかし、それは通常、同一人物が通信と音声を被せた際に限られるものので、ノーマンは首をかしげた。

思えば、すべてはこの時に始まっていたのかもしれない。


声を発したのは安濃津所長、通信を帝国側全員に飛ばしたのはアレクだった。
ノーマンがはじき出されてからずっと、アレクは書記官の肩を掴み自らの巨躯で対象を覆い隠すように護衛を全うしていた。
安濃津所長は笑みを深くする。迫るスピードを抑え、壁面から集まってくる蛍のような微粒子を浴びながら、先に手袋まで仕上がった手を昇降機の手すりに添えた。

「お初にお目にかかります、アヴェリン書記官。私が当研究所所長、安濃津塔一です。このような急いたお出迎えとなった事、お詫び申し上げる」

安濃津所長にはまだ足がない。昇降機の壁が再び現れたが、アヴェリン長官の背後でその足が出来上がりつつあった。ノーマンはわざとその微粒子の柱に突っ込むように昇降機に乗り込んだ。
安濃津所長はまた抑えた笑いを口に含み、砕け散る足を見送った。旧時代式の古い作法に則った一礼で書記官に挨拶し、

「応接室に行きましょう。この研究所を帝国との正式な契約を交わす場に相応しいと提言したのは、他でもない私です。帝国とより良い関係を形あるものにすれば地球環境の浄化もより、進む事でありましょう」

ノーマンが昇降機に乗り込んだとたんに昇降機の壁は完全に復元され、いよいよ地上階へと上昇を始めた。また、きな臭い気配がする。この男の死亡診断書を見た時よりも一層。
ノーマンはアレクに書類を一式コピーして送り返した。

『お前が持ってきた資料に汚染区域云々の条約なんてあったか』
『いや、ない。書記官にも尋ねてみたんだが……』
『話と違う、いや、話なぞしてねえ、ってか。俺達みてえな護衛代表にもちっとくらい開示してくれても良いだろうによ』

2人は書記官を挟み込むように睥睨した。彼らより若干小柄な書記官は更に縮こまって、そそくさと壁際に退散した。


『マジで時間が無かったのか、これもデモンストレーションなのか、どっちだと思うよ』
『どちらも、ではないだろうか。彼が人間であるならばそのようなあいまいな行動も取るだろう』
『…あいつ人間なの?あの浮いてる蛍みたいなおっさんも?まあ、ライゼナウは経歴と顔面偏差値が人間離れしてるが』
『イケメン、という奴か』
『よく覚えたな、そんなフランクな単語。で、どう思う』
『生体反応は検知している。だが人間のものと根本が違う。含有成分の殆どが植物や鉱石、という人間は残念ながら、私のデータベースにも登録されていない』

アレクの瞳孔が忙しなく収縮と散大を繰り返している。いたずらに安濃津が昇降機の周囲を飛び回ると、それに合わせてアレクは回り込んで書記官を全身で庇った。ノーマンはアレクの意向を察し、銃の安全装置は抜かないまま警戒態勢を取る。その他大勢のSP達も2人をまとめ役と判断したのか、この場で一番慌てているのはアヴェリン書記官に他ならないだろう。
蛍じゃなくて植物人間か。悪くてゴーレムか。
ノーマンは徐々に深緑を成す安濃津所長を睨みつけた。白衣も破れたケープのように彼を包みこみ、昇降機が巻き起こす対流で時折千切れ飛んだ。そしてまた川面を踊る落葉のように凝る。
昇降機の周囲は戦地の夜よりも暗い。その最中を人間が1人、時たま2人飛び交う様子はまさに公国の技術の粋であった。公国の人間は他国の者と違う世界を生きている。それを目に耳に、彼らはしかと物語る。

やがて自然な光が窓に照り返した。地上階が近い。これで公国の独壇場は少なくとも免れるだろうが、ここは技術立国の中央研究所だ。現に、所長たる喪服男は先ほどから奇妙な挙動を見せていた。
目線がアレクに釘付けなのだ。

「ほう」
「これは重畳」

段々と玩具を前にした子供のように目が輝き始めた。国際対談の真っ最中に何事だろうか。

『なんのつもりだ、死にぞこない』

ノーマンは軍部で襲撃を受けた時にこじ開けられた回線を使い、安濃津にガンを飛ばした。
奴は初めてノーマンを見た。今の今まで、SP全員に対してまともに関心を向けていなかったらしい。

『合金が、まこと良き頭脳を得たものじゃないか。そうだろう?カーライル軍曹。君はじかに合金の歌を顕現する様に立ち会ったのだから。彼の、アレクセイエフ氏の脳はとこしえにも理解を示す可能性、そして無機であればこその虚無を抱えている』
『あんたと話してると古文書開いてるみてえな気分になるぜ。こいつの性能が旧時代の技術にも匹敵する、とでも言いたいってか?』
『その逆さ。基礎だけでここまで動くのは大したもの』

このゾンビの化石野郎。
アレクは電波の送受信を感知しているようだったが、内容にまでは触れなかった。あくまで書記官の護衛に専念している。ノーマンの額に青筋が増えたのを見て、彼のホルスターをそっと押さえけん制した。それだけだった。

『良り良きAI』

安濃津はそれだけ言い残し、砂を崩すように瞬間姿を消した。帝国側がざわめく手前、すぐに緑の明滅は広い昇降機の中を照らし、2本足の揃った礼服の男を顕現せしめた。

「応接室にてお迎えの準備をしています。しばし、お待ちください」

安濃津は柔らかく微笑んだ。ノーマンとアレクにはそれが作り笑顔だという事がすぐに分かった。

「ようこそおいで下さいました」

安濃津はそれも承知、とまた一礼した。



応接室は機能美の塊だった。
ひとつひとつの備品が洗練されたデザインに、公国民でなければ想像すらできないであろう技術を組み合わせた「頑丈な精密機器」と言ったところか。空気も程よく清浄に保たれ、仕事をするにも歓談するにも最適の部屋だ。そして応接机の上。研ぎ澄まされたナイフのように磨かれた銀白色のペンや鏡石のような筆架が契約書と共に、書記官の合意を待っていた。大統領になった暁には気に入られた調度品をお贈りしよう、だの、よろしければ同じ物を今日、締結の祝いに持ち帰りたいものだ、などと歓談は止まない。

「安濃津所長、事前に私どもの情勢などに関しては公開しておりましたが、目を通して頂けたでしょうか。我々帝国政府もイスキ副所長が海尊街でどのような活動に従事していたか、細かに把握する事ができました。あの街の治安維持も我々の務めと思い直した次第です」
「心強いお言葉です。この子達のやり方もやり方だったが…海尊との交渉は正攻法では成り立ちませんでした。海尊は独特な政治形態を確立し、現在も成長と可変性に富んだ流浪の国を形成している真っ最中です。清浄で培養に適した海も彼らの手中とあっては…」
「その辺りは我々の認識不足も大きな要因ではありましょう。いやはや、しっかりした部下をお持ちだ」

ここでも、ノーマンはアレクに始終宥められながら国家の重鎮達がティータイムに勤しむのを監視していた。聞いていたよりあまりに危険過ぎる、とノーマンはアヴェリンに怒鳴るような通信を飛ばす。
相変わらず書記官は首を振るばかりだった。

「マシャラ君、ありがとう。書記官のお茶の好みを聞いてくれたのは君だったんだね」

アレクは給仕から下がった褐色の少年に耳打ちした。ドンダオ教の寺で補導するはずだったあのマシャラである。ライゼナウはにっこりと笑いかけた。その笑顔に促され、マシャラは足音も立てずSP2人のもとへやって来た。ライゼナウと話す時に限ってはかすかに表情も緩んでいたのに、こうして今アレクに菓子や固形燃料をすすめる彼は寺で出会った日と変わらず無表情だ。

「こうして遠くまで来てもらったお礼になれば」

マシャラの声は初めて聞いた。意外と高く澄んでいて、よほど合唱団にでもいそうな細やかな声だった。紐ネクタイに紺色のスーツが灰色の髪によく似合って、今にも壇上でソロを歌いそうないでたちだ。
アレクはマシャラにそっと、大きな手を差し出した。なるべく目線を合わせ、いつもの人懐こい笑顔で少年に向かい合う。マシャラは少し驚いたようだった。大きな目を少し見開いて、ティーポットを慌てて持ち直す。ノーマンのところにも柑橘系の香りが甘く届いた。
少年はそっとライゼナウの方へと視線を飛ばした。電脳の施術をするにはまだ年齢が足りない、微妙な年ごろの子だ。ライゼナウは書記官にも目くばせした。未だ緊張気味のアヴェリンはまた暫し動きを止め、いや、若干見惚れてペンを筆架に戻した。

「アレクセイエフ、その子はイスキ副所長の弟君だそうだ」
「そうでしたか。ご覧ください、私に一番適した燃料を用意してくれたのです」
「それは……所長、様々なご配慮、痛み入ります」
「いいえ、これは副所長とマシャラの気遣いです。私はこのように紙面に関する事柄以外は全く不得手でして……私もお茶請けをもらおうか、マシャラ」

マシャラは無表情に戻り、首を振った。

「所長は甘い物を食べ過ぎです。お食事よりお菓子の量が多いと兄さんが言ってました」

応接間が波のような笑いに包まれた。マシャラはそっと、霜柱に触れるようにさっと、そうっとアレクの握手に応じ、すぐさま茶器と共に部屋を出ていった。



契約書は合わせて5枚。当初は大統領との会合をもって条約は締結完了、と聞いていた手前、至ってシンプルな会合となる手はずだった。だがそばで聞いている限り、ノーマンとアレクでさえ聞かされていない取り決めが段々と衣の裾を表そうとしていた。帝国政府の計らいならば仕方がない。逆らう義理もない。しかし。

『書記官』
『何だいきなり!サインがずれる!』
『領地の一部譲渡、とおっしゃいましたか?そのような条約は前代未聞、少なくとも前時代的だ。一帝国国民として説明をお願いできやしませんか』

先ほどまで威勢の良かった銀色のペンが迷い箸のようにさ迷った。安濃津所長は目を細めて、書記官からペンを預かった。インクの補充も兼ねてのようで、ライゼナウが目を見張るような細工を施したガラスのインク壺を取り出した。

「軍曹。貴方にも知る権利はある。兼ねてよりこの条約の締結は一部、国家機密として貴方のような護衛にも明かせぬままだったのです。そしてその条約、領地の一部譲渡という名目で取り計らった契約こそ、この研究所で会合を開いた理由に他ならない」

所長はあくまで静かに、先ほどとは打って変わって密やかな口調であった。何やらペンを操作し、ボタンはおろか継ぎ目も見当たらないそれを解体していく。ノーマンは席をひとつあてがわれた。アレクを思わず見上げるも、

『人間である君の方がこのような場において適格だ』

と書記官のそばで会談を見守るべく引っ込んでしまった。

『相手が大概人間離れしてて話が通じるかも怪しいんだがな』
「カーライル軍曹、一応言っておくが私語は慎め。アレクセイエフに余計な仕事を増やすな」

書記官はノーマン以上に不機嫌丸出しで紅茶を煽った。ライゼナウ、いや、イスキ所長はにっこり笑ってティーカップを下げ、そっと安濃津所長の肩を叩く。
安濃津所長はペンを持ち直した。一見鈍色のインクは時々星砂のようなきらめきを放ちながら、ペンの中に自動的に吸い込まれていった。

「書記官、それでは私からご説明申し上げても」
「いや、部下のワガママをとりなして頂くなど……この場で私から伝える時間を頂けるだろうか」
「その方がよろしいでしょう。誤解なきよう、お話頂ければ幸いだ」

所長は頷いてペンを書記官に手渡した。所長の細く長い指は先ほどまで骨だけだったとは思えないほど生気に満ちていた。
書記官は未だ緊張の面持ちで書類を眺めている。ぽつり、ぽつりと一文一文を読み上げるような、自分にその一節を書き込むように彼はノーマン含むSPにくだんの条約を明示した。

今回の正式な主題は「公国の研究所と帝国軍の研究施設が正式に提携し、さらなる文明の発展と土地の浄化促進を実現、国防の安定をはかり、人員、資源の供給サイクルを確立させる」という大きなものであった。そこまではノーマンも確認済みだ。だがノーマンが目くじらを立てる、もといギョロ目で書記官の怯えを煽ったのはそこからだった。

「漁礁遺跡を含む区画の譲渡?」
「そ、そうだ。軍を代表して名の知れた君を指名したのも、あそこが海尊などの資源ヤクザを遠ざけるべく軍によって保護されていた為…」
「そんな事はどうでも良い。なぜよりによってあの土地なんですか」
「公国関係者が漁礁遺跡に踏み入った経緯についてはどのような処遇を下したのですか」

アレクも間髪入れずに、この男にしては容赦なく書記官に畳みかけた。アヴェリン書記官はいよいよ青ざめてアレクの機能動作をロックしようとした。
そうはさせるかとノーマンが腰を浮かせた頃合い、安濃津所長は書記官をそっとなだめ、臨戦態勢に入ったイスキ副所長も視線でけん制した。
ノーマンの眉間が渓谷のようにギリギリ皺を寄せる。冗談じゃない。イスキは顔にこそ出さぬよう努めているものの、この場を楽しんでいるのが見え見えだ。

「あれは予断を許さない状況だったのです。遺跡に埋設されている中継塔が突然暴走を始めた。他でもない、あの場に出向いたのはこの私です」

中継塔。
その言葉に書記官以外の帝国民がざわついた。みな学校で習った筈だ。旧時代の遺物。荒野にぽつんと立っていたり、海のど真ん中に飛び出していたりと全世界にトゲのように林立している建造物だ。だが使用目的については「当時飛んでいた衛星、地上波通信の制御」といった、要は今現在で言う無用の長物という記録しかない。帝国や海尊の技術でも解体できないほど頑丈で、帝国でも寺院か壁画のような扱いに落ち着き、保全だけは継続するに至った「オブジェ」だ。
あれがまだ動いていた。旧時代の技術も恐ろしいものだが、あまつさえ暴走とはいったい。

「ドローンに貴方の姿が鮮明に映らなかったのは?」

アレクは続けた。
途端にノーマンはハウリングに飛び上がった。
アレクと安濃津の声が重なるたびに、いや、姿が重なるたびに妙な違和感がノーマンを襲った。

「私の体が特殊な構造をしているからでしょう。この国のカメラで不自由を覚えた経験はないのだが…」

失礼、と安濃津は言葉を切る。書記官にペンの調子を聞き、さりげなく事の主題を振った。
書記官はハーフアップにした額に冷や汗を浮かべ、ノーマンとアレクを睨みつける。安濃津所長は薄い唇を歪めて3人をゆっくり、優雅に見回した。

『良い加減な口出しはするんじゃない。我々政府はその件について予め公国から情報を開示されている。君達下層の人間は本来知る必要さえない…』
『せめておよそ全部!もう少し、いや!早急に早ーく言って下さいませんかね?!専任の護衛まで主題が抜き打ちとは恐れ入りますなーっ次期大統領!?』

ノーマンがブチ切れ、イスキ所長がついに吹き出した。鏡面のように輝く筆架がノーマンの凶悪ヅラを映し出す。声は聞こえずとも見ていてまるわかりだ。
カタン、と微かに硬い音がした。所長が立ち上がる音。続いてマシャラが部屋に戻り、また新しいお茶と出来立ての茶菓子を手に所長のもとへ駆け寄った。

「兄さん、じゃなくて副所長が、皆さんが小腹を空かせていると連絡をくれました」
「これは、これは。カヌレなんていつの間に作ったんだい?ありがとう、マシャラ」

甘い独特な香りが広い部屋に広がった。大皿に2段、恐らくSPが食べても十分な量が積まれている。商業区のショーウインドウで見たカヌレより少し平たく、片手で食べるのに適したふっくらとした茶請けである。

「皿もフォークも人数分ございます。身体にも頭にも栄養が行き渡りましょう」

平たく言って公国のメンツはみな、顔立ちが恵まれている。そして品性にも恵まれている。つまるところ、技術に限らず見た目でもアドバンテージを取られている。整った顔の繰り出す微笑はある意味武器だ。
ノーマンは頭痛でぐらつく体を叱咤してカヌレを睨みつけた。


書記官の冷や汗が引いた頃だったか、イスキのにやにや笑いがおさまった辺りだったか。
机のすみに片した書類を再び広げるよう、安濃津所長はライゼナウに指示を出した。

「中継塔は各地で稼働を続ける旧時代の浄化装置、あれらにエネルギーを伝達する重要なパーツです」

あまりに唐突であった。部屋にはまだニルギリや糖蜜の香りがくすぶっている。
遠い昔、宗主国が植民地をパーツのように分け合ったという会議。あれもこの場のように優雅だったに違いない。

「帝国政府含め各国は装置の仕組みを解析できず、基本放置状態としてきたわけですが、我々とてそれは変わらなかった。近年になってブラックボックスへのアクセス権限が拡大され、あの塔の稼働記録を漸く把握したのです。現在、各地で海尊や砂塵の民と連携してメンテナンスを進めている最中ではありますが、中には稼働が困難になり救援を待つ塔も文字通り眠っている。つまるところ、あの漁礁遺跡の中継塔がそれに当たるのです」

安濃津所長は黒目がちの目を細めた。机に突然、帝国近辺の地図が絵巻物のように浮かび上がった。およそ、帝国で手に入る地図よりはるかに精密で見た事もない記号が散りばめられている。

『アレク、解読できるか』
『公国、いや、旧時代の地図記号だ。およそ亡国で使われていた類に違いない。赤く区分けされた箇所が今回公国領土にあてがわれる……このマークが塔、周辺に鉄道網…まずいな、鉄道網も多少削るつもりだ』
『やっぱりじゃねえか、陸軍が保全してた区画より範囲が広い』
『中継塔の構造だ。木の根のように地下へ配線を広げて稼働している。こればかりは……』
「仕方ない。分かって頂けるでしょうか?軍曹に刑事さん」

アレクの目がぐっと瞳孔を狭めた。イスキ副所長だ。にっこり笑ってカヌレをまだつついている。
所長も口をつぐんでこちらを見つめている。何が起きたのかとまた書記官だけが慌てふためいた。

『……どっから聞いてた、兄ちゃん』
『この部屋に入ってから、少しね。仕方ないだろ?これは国際会議なんだ。謀略防止のために、この部屋は個人間通信も傍受できるようにセッティングされている。一応僕たちの通信もそちらに筒抜けさ。齟齬がなくて良いじゃないか』
『さっきのカヌレは何だったんだ?テレパシーでおとーと君を呼んだとでも?』
『いや、メールだよ。貴方たちも秘密の会話は文字でどうぞ』
『ガバガバ過ぎ』
『貴方たちはピリピリ過ぎ』
「イスキ卿」

安濃津所長が至極真剣な顔で副所長の肩に手を添える。十分効果はあったらしいく副所長は少し勢いを削られ、大人しく帝国のリーダー、もとい書記官に向き直った。

「議会はあなた方の要求を飲む方向で各機関の設置を進めています。中継塔起動へ向けて尽力いたしましょう」

ついに書記官は観念したようだ。それこそ塩をかけた菜っ葉のようにしおらしく、おぼつかない手つきで契約書にサインを施した。ノーマンはそれを、せめて怒りを全力で込めて護衛に努めようと思った。書記官も最後まで渋っていたのだ。

『……私も馬鹿ではない。これは帝国だけではなく世界への貢献だ』
『お察しします、書記官』
『アレクセイエフ、地図は撮影できたか』
『申し訳ありません、特殊な投影装置を使っているらしく私の目と互換性がありませんでした』

アヴェリン書記官はそっと、地図の上を縫うように書類を滑らせ安濃津所長に手渡した。所長は決してその様子を笑う事はしない。イスキとは対照的に神妙な面持ちで紙面一式を受け取った。

「ご協力感謝いたします、サー・アヴェリン。鉄道網への影響を最小限に食い止める事を条約の通り、ここにお約束いたします。明日には現地で本格的な整備に入る事が出来る。貴方のお陰で世界は救われたのだ」

サインが瞬間、さっと光を帯びて宙に浮かび上がった。空中に描かれたネオンサインのように青い光を放ち、机に投影された地図の中へと音もなく落ちていく。帝国に降る流星を天上から眺めているようだった。
イスキがまた、満足げに頷いて地図をさらりと撫でる。公国式のデータ保存方法だ、と奴はいけしゃあしゃあと説明した。書記官のサインを施した書類が揃わないとデータを閲覧できないのだという。
机を滑る絹のような手はもはや、神の手か。その美しい手が書記官に差し出された。

「書記官、これで貴殿の危惧なさっていた汚染被害の拡大、および塔の暴走による事故は未然に防ぐ事ができました。僕からもささやかながら礼を申し上げたい…ああそうだ、写真の撮影はいかがでしょうか?ぜひとも、この記念すべき日を公国や帝国のメディアに広めたいのです。両国の謳歌の為、また世界の汚染軽減へ向けて第一歩を踏み出す為に」

イスキ副所長は朗らかに、半ば強引に握手を完遂した。つられて書記官も力なく笑う。
その一瞬、その目があの蛍光グリーンに光り輝いたような気がした。黒い箱の明滅。この男の全身が明滅したあの空間。

何もかもがきな臭い。ノーマンは明日の「整備」に警戒を極限まで強めた。




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