第10話・意思と奔流







網膜の端でチカチカと、青い蛍のようなサインが浮かび上がった。

『その子を、頼む』

先ほどまでは赤字で「目的地」とだけ記されていたのに。相変わらずとてつもない癖字だった。いつまでも止まないあの男の介入にはほんの少し、背筋が粟立つような不快感を感じる。
この少女をどうしろというのだろう。
銀の髪は一房ずつ、乱雑なのか何なのかある種の法則を持って肩口で切り揃えられ、背の大きく空いた純白のワンピースと共にたゆたう様は水中花のようだ。ももにぴったりとフィットしたネイビーのスパッツが思い出したようにスカートの裾から覗き、さながら俺はアクアリウムのショーを観劇する来館者である。マップにちらほらと蠢く警備員の生体反応にさえ目をつぶる事ができたなら、いつまでもこうしていたい。

ドーリィの顔を覆うバイザーが俄かに光り輝いた。控えめなネオンで一言、

「<追手>」

テロップを流した。顔を保護する、もしくはお洒落感覚で身に着けた装飾品ではなかったらしい。水中であっても光量は眩しすぎず、かと言って揺らぐこともなくスムーズに判読できる。
魚がそれを疑似餌と見間違え、続々と集まっている辺りはご愛敬といったところか。

「君がドーリィ?」
「<ここは寒い。早く逃げよう>」
「寒い」

筒状の水槽には「北海にて、オーロラすらたゆたう冬の幻想を完全再現」などと見出しが添えられていて、なるほど、寒いなんてものではないだろう。
今までどこで何をしていたのか、撒いた筈の警備員達も足音を立てて身の上を主張し始めた。人工の海がひしめくアクアリウムとはいえ、これは潮時だ。

「聞こえているかどうか分からないけど。あいつらを何とかしてくるからさっきみたいに隠れ…」
「<この水槽の管理間隙に来て>」

管理間隙。慌ててマップを検索してみればこの吹き抜け水槽の真上、文字通り全ての水槽を管理するルームが赤く明滅を繰り返した。どうしてそんな、警備員とてこの巨大な一本道で魚を捕まえるなら真っ先に潰す場所ではなかろうか。
気付かれぬように侵入を試みたつもりだったが、この子が引っ掻き回したとあってはその努力も実らぬはずだ。大声を出して呼び戻すわけにもいかない。荒事は軍部から離れて以来縁遠かったのだが、やるしかない。


自らの目を、厳密に言えば軍ではめ込んだまがい物の<アイ>を即座にフル稼働させる。視覚という人間が本来備える機能を極限までブースト、そして再構築したある意味での兵器である。
このアイと、首から下で人工の熱を孕み、今か今かとセット・オンを待ち望む機械の身体。
俺が少年兵となり、私兵となり、ひいては特殊部隊の一員となり手に入れた強靭な武器。
二の腕に格納されていたスタンロッドを引き抜き、太ももに巻き付けておいた小ぶりのナイフも数本携えて、顔を呼気遮断タイプのマスクで覆った。
そこまでに2秒。
施錠も何も施されず無防備な扉に駆け寄るまでに3秒。
警備員がその扉をけ破るまでに6秒。

「…ごくろうさま、」

警備員の喉笛にスタンロッドを叩きこむまでに、コンマ2秒とかからず。


あつらえたように室内の電灯が全てダウンした。ドーリィだろうか。俺に全て任せるつもりでこのような作戦に出たのかもしれない。いや、そんな事はどうだって良い。
俺の目には暗闇にたじろぐ警備員達が、明け方に輝く霜のようにくっきりと見えた。わずかな明りを受けて輝く回遊魚達の鱗はちらちら、散り散りと光って、俺は思わず今日出くわしたばかりの桜吹雪を想起した。
マット仕様のナイフが空を切り裂いて警備員達を威嚇する。負傷者を出すのは後にも先にも良い事はないだろうし、警棒やペイント銃を振り回す奴らの服をさっと切り裂き、行儀の良い画一的な制帽をスタンロッドで薙いで焦げ目をつけてみる。こちらが本気だと、そういった意志が伝わってくれれば儲けものだ。ここのセキュリティは万全と呼び声が高く、反面常駐する警備員の仕事はまあまあだと、アンジュ氏は事前に教えてくれた。
勝てる。俺の人工のボディは唸りを上げて地を蹴り、想定される衝撃をほぼ吸収、アクリルの水槽壁に垂直に着地し警備員を睥睨した。時間稼ぎのパフォーマンスだ。漸く細々とした懐中電灯の明りがちらつき、何人かが水槽間隙を目指して扉へなだれ込む様子が臨めた。
しかし。電灯を点けた警備員の1人が膨張を始めた。膨張、というよりは破裂だろうか。
想定外とは言わない。彼も武装したサイボーグだったのだ。恐らく彼だけではない。視覚に関するスペックが俺に至らぬだけで、ここにいる幾人かが何かしらの換装を受けている筈だ。
ぶくぶくと泡立つ肉玉はメキメキと床を踏みしめ、蜘蛛の巣のような亀裂を広げる。
来た。
俺を目がけてサイボーグ警備員は砲弾のようなボディを投げうった。スピード重視でチューンアップを続けてきた俺は即座に床面へ舞い戻るが、迂闊だった。
水槽が、オーロラを疑似想定した極寒の海を缶詰にした大水槽に特大の亀裂が迸った。
この警備員は何を思ったのだろうか、恐らく、俺とこいつの装備しているであろう簡易ラング。戦闘を想定したサイボーグなら大概は肺に常人の何倍もの酸素を備蓄できる。

水槽から恐ろしい勢いで水が噴き出し、水位が下がっていく。あっという間に俺のひざ下まで水がせり上がる。

ドーリィ。

彼女はどうした?見取り図によれば管理間隙から逃げようにも直に警備員がやってくる。ここに来るまでに辿ったであろう排水ライン、もしくは循環ラインも水が抜けてしまった今とあって遡行は不可能だ。

「良いのか?アクアリウムを守る為にあんたはここに詰めてたんじゃなかったのか。この水槽、どうするつもりだ」

肉玉は獣のような雄たけびを上げて応える。気が付けば警備員の殆どが制服の原形も保てないほどに変形を遂げていた。
まあまあ、とは何だったのか。ドーリィの現在も思いやられるが、俺が請け負ってしまった「任務」とやらが如何ほどのものか、考えたくはないが溜息が漏れてしまう。
俺は今までとは種の異なる覚悟を決める。
これも妹と再会する為なのだ。

「悪く思わないでくれよな」

スタンロッドを引き抜かれて若干涼しくなった左の二の腕がぐるりと、本来ならあり得ない方向に曲がって瞬く間にトランスフォームする。この瞬間は何だかアニメーションのヒーローを真似ているような気分になって居心地が悪い。俺はヒーローなんかじゃなく、もっと地に足のついた…
とりあえずは準備が整ったので、左腕に一体化させるようにスタンロッドを装填した。これで安定した電力を供給しつつ、左腕全体を頑丈な武器として扱うことができる。

最初に変形を終えた肉玉が掴みかかってきた。水をバシャバシャとかき分け、幾分光を帯びて灯台の役目を果たすロッドに向かって。
突き出された腕は瞬く間にナイフで切り裂かれ、腱にあたる生体銅線がぶつ切りになり、ぐんにゃりと水に沈んだ。
硬質かつ生臭いオイルと緩衝液の香りが海水に押し流される。即座に俺は水へ潜り、肉の柱のような脚部目がけてナイフを振り下ろした。今度の狙いは動脈だ。大きめのナイフであたりをつけてみたのだが、適当に刺した割に首尾は上々だったらしい。思えばこの適当さは戦地でも、先輩にイチャモンをつけられる原因を作っていた。
俄かに水流は速さと密度を増し、立っているのがやっと、と思えば俺の首筋辺りまで嵩を増して警備員を押し流そうとしていた。
何だろうか、これは。飛びかかってきた第一弾にせよ、無計画にも程がある。更に言えばどの要員の顔も人としての体裁がまるで保てないほどに歪み、獣のようだ。
ウイルスだろうか。互いの連携を保つ制御マイクロマシンの暴走だろうか。

それとも、誰かの意図か?

考えている暇にはあまり恵まれていないように思う。いずれにせよ、こんな汚染された水流をドーリィに泳がせるわけにはいかないではないか。早く管理間隙へ彼女を迎えに行かねば。
しかし、何から何までが杞憂に終わってしまった。後から思うにつけ、この時の俺の取り越し苦労や無駄足はいったい何だったのかと、答えを出すに至る日は来なかった。

警備員がなだれ込んだ扉とは反対の、水中トンネルに続く通路から新たな水流が鉄砲水の如く流れ込んできたのである。すぐさまあの肉塊のような暴走警備員も半ば溺れるようになだれ込んできたので、あちらの水槽もどういうわけか破られたらしい。しっちゃかめっちゃかだ。

とにかく肺をアクア・モードにシフトして奔流をやり過ごす。このアクアリウムでいったい何が起こっているのだろうか。早く管理間隙を目指して、と意を決した矢先、
脳に爆弾を仕込まれたかのような、鉄砲水のような信号を感知した。
驚く、までに至る暇も猶予もなかった。決して不快ではなく、むしろ依存性の高い暴力的な刺激を俺は享受しているようだった。
水流に捕まらぬよう持ちこたえるのがやっとだった俺の身体が、何の意思も介さず水中トンネルを遡り泳いでいく。何が起きているのだろうか。違和感を感じる余裕はあったが、手が、足が、嬉々として恐ろしい力で水を掻く。

あっという間だった。気が付けば俺は水中トンネルのゲートを潜っていた。俺の爪先を巻き込むかと思うような勢いでシャッターが閉まり、巨大水槽を据えたルームとこちら側は完全に遮断されてしまった。
水流は徐々に穏やかに留まり、水中トンネルを擁したアクリル壁は全くの無傷であった事を知る。バルブに少々手をかけただけだったらしい。
俺はすっかり脱力して水たまり程度の水漏れに膝をついた。何だこの疲労感は。全力疾走した後の方がまだマシだ。

「ドーリィ」
「<ジャックが遅かったから、ここで待ってた>」
「…あ、そう」

彼女は頑として声を発する事をしない。彼女の衣服も髪も、全てが濡れていた。俺は彼女の首筋で広がるエラが、花の開花を逆再生するかのようにくしゅくしゅと収納されていくさまをぼんやりと眺めていた。


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