第9話・Dolly







やっと心が決まったみたいね、とアンジュ氏はにやりと笑った。矢継ぎ早だったものの、彼女の助け舟に上手く引き上げてもらったようである。何だか急に照れくさくなり、俺は黙って回線の主権を彼女に返した。

「何と戦っているのか未だにまるで見当がつきませんが、ね」
「でしょうね、でも少なくとも戦地より手応えを感じるかもしれない。今の貴方ならきっといけるわ」

アンジュ氏の目には俺の理解を超えた自信と期待が満ちている。やはりよくわからない人だ。しかし俺の気持ちは何となくまたけしかけられて急いている。こんなに自分は単純だっただろうか、と複雑な気分は否めなくて余計に、先ほどとは違う質のもやもやが去来した。
期待しておきます、と要らぬ皮肉がのどまで差し掛かった辺りではたと気づく。

「そういえば…例の増援は貴方だけだったんですか」
「女だからって甘く見るんじゃないわよ。私1人居れば10人分」

いよいよもって期待できそうだな、と俺は脱力した。しかし磨かれた水槽に写る自分の顔を改めて認めてみれば、それなりに柔らかい表情を作っている様子だったのでこの場はとりあえず良し、である。彼女の表情も俺の顔付きも何だか複雑を極めていて双方それなりの顔というのか、それぞれの背景は未だ解決が見えないまでも前進はしたのだと取る事にした。
俺の、この首から上。入隊当時に無理を言い、残しておいて良かったなとふと思った。生来から唯一持ち得たにも関わらず一番思うようにならないパーツではあるし、それこそ昔から「人形のようだ」とからかわれた風貌でもあるのだが。

「キトゥラちゃんともっと話さなくて良かったの?あ、まさかそのまま繋いでると泣きそうだったとか」
「自分の道ははっきりさせた上でないと、妹にも示しがつかないと思いまして」

ふーん、と主任は口元を手持ちのタッチペンでつつきながら俺を眺めた。

「意外とお兄ちゃんしてるじゃない」
「そういう貴方は親戚か母親のようだ」
「言ったわね。否定はしないけど。貴方も性格診断の上では『良き親の影響下にて生育を経た』って結果が出ていたわけだし、まあほめ言葉って事にしとくわ」
「あのテスト、信じておいでなんですか?」
「何?未成年のくせにあれが通過儀礼だって見抜いてたわけ」
「通過した後とあっては言及してもお咎めはないかなと」
「何とまあマセた子」

何かしら秘めたような、アンジュ氏の苦みを感じさせる影は消えない。しかし昔からこの人とは交流があったような、それこそ久々に会いまみえた親戚との団らんのような、そんな空気がこの場に滞っている。
この人の全てを信頼するわけにはいかないが、次第の足がかりとしては相応な人物だ。そのように務めてドライな軌道に思考を乗せねば、少なくとも俺はこの先に進んでぽっきり折れてしまいそうな気がした。
戦地と「今」も「この先」も勝手が違い過ぎる。これから先、俺は任務も兵役も解かれ一個人として機能せねばならないのだ。妹と無事に再会する、という最終目的は俺の意志に他ならないのだから。

「ところで、」

前ふりもなく、主任は俺の電脳をつついて地図を開くよう求めた。

「水族館。行った事ある?」
「いいえ」
「地図はどう?あの男の用意した物に限って読めない、って事はないでしょうけど」

読めない。という基準をどこに置けばいいか俺は少し迷った。実に整然として俯瞰図を写したような精緻な地図ではあるが、ところどころに書き込まれたメモ書きはすさまじい癖字である。

「この、手書きの文字を解読してもらわないといけないかも」

うろうろと歩き回っていた主任が立ち止まり、またルームに静寂が降ってわいた、かと思えば彼女の太く重い溜息が林立したマニピュレータを揺らす勢いで轟く。

「三つ子の魂百までなんて言ってらんないわ!何なのよあいつ!30年待たせておいてまだそんな癖字で生活してんの!」
「…生活?あの喪服の男が?」
「ええ、…ええ、貴方は何も関知しなくても良いの。さっき言ったようにこれだって腐れ縁のたまものだから…OK、大体奴の言わんとしてるところは分かるから良いのよ。他の資料を開いてみてくれる?」

若干腑に落ちないものの、俺の視野は電脳に広げた履歴書に戻って行った。アンジュ氏に散々シェイクされて脳のあちこちがチリチリと、妙な熱を孕んでいる気がする。
オフにしていた立体処理機能を立ち上げ、添付された写真を拡大する。目の前に立ちはだかるように1人の少女が網膜の上で躍った。続いて社名ロゴのように映像直下に名称も浮かび上がる。
とても鮮明で360度回転させた上での閲覧が可能だったが、これはつまりこの子が全方位からの視認を許容せざるを得ない身の上である事を暗に示していた。

「Dolly Olly」

思わず口をついて出ては不思議な反響を鼓膜に残す。とても奇妙な名前だった。
頭くる、だとか、信じられない、とぼそぼそ愚痴っていたアンジュ氏も突如、ガバっと顔を上げて、その名を口の中でもぐもぐと繰り返した。

「そう、その子。間違いないわ、その子を探せば道は開ける」

俺は思わず詰問を繰り出しそうになったが、何とか留めた。
ドーリィ・オーリィ。
呪文のような呼称で偽名の可能性も捨てきれない。何より立ち上げた写真に俺は釘づけだった。
彼女の首筋からフリルのように背中へと、もしくは羽根のようにたわみ広がる肉のひだ。ぐるりと回転させれば緑や青に底光りして銀糸のような髪が瞬く。そして鼻先をこちらに向けてこの少女は真っ直ぐに、オパールのような千変万化の反射に彩られた銀の目で見る者を射止めた。
画像の範囲は胸部にとどまっているものの、この子の全身、見えぬところに未だ目立つ特徴が潜んでいるに違いない。その確信に足るほどの強烈な特徴が資料には凝集している。

「ミュータントか、キメラ」

俺が零せばアンジュ氏は深くゆっくりと頷いた。

「察しが良くて助かるわ。特徴がアクセサリーみたいに表れてて、それでも人間としての風貌はほぼ完璧だけど恐らく…」
「魚類か、両生類との掛け合わせですね」
「当たり」

主任は再び何かしらを考え込む。おどけてはいるものの意味深げに宙を見て、続いて俺の目、正確にはこの機械の目がデジタルな瞬きを覚える様をじっと見つめた。
そんな彼女への控えめな疑念は一筋消えぬまま、心の根底で俺を控えめに支えている。あの少女にせよ、俺にしか見えていない筈の画像なのだ。ブラックボックス中枢を熟知した公認科学者たるアンジュ氏は、名に相応な情報を持ってこの場に居合わせたという事になる。

「魚類だから、水族館というわけですか」
「そういう事。あいつなりの暗喩も兼ねてるんでしょうけど、恐らくこの娘の得手の良い方法で身を潜めるには打ってつけなのよ」
「…それで、ここまでを設定したあの男というのは敵なのか、」
「味方よ」

アンジュ氏の挙動は迅速だった。確信や情動などというものでなく、彼女の理念の根本がその強いまなざしに表れている気がした。腐れ縁。あのお化けのような男との縁。
彼女はいったい、あのような男を交えてどんな人生を送ってきたのだろうか。それを知る日が俺に訪れるかどうかは分からないものの。

同封されている資料は地図とプロフィール書類の2通に留まった。実に簡素で、そこに奴の言う「リクエスト」などという枠から逸脱した強い要求が見て取れる。しかし、これでアンジュ氏との邂逅を逃していたらあの男の作為、もとい無言の真意は俺の前を素通りして今頃消えていたかもしれない。見ない事にすればそれも可能だったのだ。妹の音信だけでも確保して彼女のもとへ飛び、この銀の目の少女の事は知らぬと押し通しても相応の未来は滞りなくやってきただろう。
悪い誘惑、というわけでもない一抹の選択肢である。悪くはない。会ったこともないミュータントを連れていく。どこへ?この先、彼女を連れて何をどうするのだ。そこを考えるほどに不透明な未来は俺のもとから遠ざかっていく。
それでも。
俺は少女の、ドーリィの目や少し浮いた鎖骨、粗末ではないが簡素過ぎる衣服を手繰り寄せるように目で追った。フォーカスしたり、眺望したり。見れば見るほど俺の中で彼女の銀の風貌がはらはらと煌めいてマリンスノーのように堆積し、一つの像を結ぶまでに時間はかからなかった。
この子には恐らく寄る辺がない。俺が迎えに行かなければ、遺伝子改変によって生成された『ラボ生まれ』の末路など目に見えている。いっそ倒錯した美しさを備えた年端もいかぬ少女など、その界隈でどれほどの好奇にさらされるか。知りたくもないが、俺を含む兵士達ならば海洋に出て嫌というほど見聞きしてきた事柄である。
決まりきった悲惨な未来をおざなりにし、せっかくこちらへとたなびくか細い接点を無下にしてこの子を見過ごしては、妹に、ひいては先立った母に顔向けなど出来るはずがない。

「…偽造IDなら用意したんだけど、どうする?」
「研究所の御膝元でそんな違反が通じるんですか」
「言ったでしょ、私がいれば10人分だって」

俺はアンジュ氏を正面から注視した。どことなく彼女の物言いや笑い方はあの男に似ていたような、言いようのない既視感がさざ波のように寄せて、やがて霧散した。



春先の淡い冷気は楽しげにメンテしたばかりの関節へ繊細な対流をなびかせ、後方へと舞うように流れる。シティの条例に適ったモーター・サイクルに乗って俺はルームを、いや、研究所の広大な敷地そのものから飛び出そうとしていた。
他の人員もやはり俺のように外出制限が当たり前だったので、日付も変わろうという現時刻においては都合が良い。いざ動き出せば何事もスムーズに過ぎ去り、それらが過去へ過去へと緩やかにシフトしていくのをただ俺は見送るだけであった。ここまではあの男やアレクさん、主任のつてがあっての変遷なのだから不自然な事はない。
寮で暮していた頃、「最近のゲームってチュートリアルが乱暴だよな」と、半ばその粗も楽しみながら同室のウェンルーと余暇を潰していたのを思い出す。
その通りだ。実に荒っぽいチュートリアルだった。
恐らくはここまでが、俺にあてがわれた最初で最後のガイダンスであり、未熟にも順応し切れぬ少年兵に対する忠告だったのだ。ゲームのようにやり直しのきかない人生へと、未だ子か大人かとぶれて止まないこの俺に開かれたゲート。

鮮烈な花の香りが鼻腔をくすぐったように感じて俺は減速する。いつの間にか研究所お抱えの植物園に差し掛かっていた。許可さえ貰えばここで栽培された花は好きに飾る事ができたし、それを滅菌して押し花に加工し、離れて暮らす妹に送るのが俺の習慣となっていた。
15世紀前に終戦したとはいえ、大戦の爪痕によりシティ以外の植生は未だ貧困であると聞く。俺が妹と育った村も例に漏れず色あせた水彩画のような土地で、だからこそ、珍しくて華やかな花を送れば妹はとても喜んでくれた。看護師から聞いた話によれば押し花を1枚1枚アルバムに保存しているらしく、うっかりその一冊を枕にして眠りこんでは飛び起きて、慌てて1枚ずつ安否を確認するというのだ。
そんな事を繰り返していては病状に障らないか、身体のひび割れが広がりはしないかと、俺は何度となく医師に振ったが「その分、心はとても潤うはずだ」と、ついぞ取り合ってもらう事はなかった。

後数種、合流するまでの分として花を貰っておくべきだったかもしれない。古びた石畳のたわみに体幹を揺らしながら、俺はいつしか学術区西端、アクアリウムの豪奢な正門を間近に認めた。
水族館に、人魚。
水槽に展示でもされていない事を祈る。


アンジュ氏からの情報と、あの男がよこした地図に従って裏口を開錠した。偽装IDもといハッキング・ツールは実にいい仕事をしてくれる。さすが主任科学者のお墨付きというべきか、研究所の重役がイリーガルな技術に明るい事を憂う時間はなさそうである。
裏門から中を探ればガラス壁に外の景色がぼんやりと映る。俺の唯一の特化点である両目が最適な光量を求めて調整を始めた。入り組んだ水族館の裏方通路を電脳内の地図と照合し、最短ルートと視界をシンクロさせてリアルタイムでのマッピングも可能となる。一連のガイドや簡易なグラフが並列して主観視点のシューティングゲームさながらだが、戦場でもこの機能には何度か世話になった。
非常灯、監視カメラ、守衛室近辺にて生体反応の有無など。一連の下調べが終わって網膜の微細な振動が収まった。

『異常ナシ』

それは信用していいのか。この目玉達がデタラメに片っ端から、舞い散る花びらを検証して画面を埋め尽くした昼間は忘れてないぞ。
忘れもしないまま、しかしほぼ訓練通りの潜入作戦である。平和な学術区での決行なので予期される数々の弊害は難なくパスできた。
しかし、あらゆる想定を施したつもりが俺は初めて直に見る巨大水槽を前に暫し、とりあえず何をしに来たか忘れる程度には茫然とその光景に楽しみを見出した。アンジュ氏が妹を連れてくるように言ったのも頷ける。国内随一の規模もとい、水族館そのものの運営が難しい世情が信じられないほどに、豊かな生態系がここに写し取られていた。
シティで育っていれば、このような施設での社会見学も当たり前だったのだろうか。この街に来て感じたあの、シティ外との底知れないギャップがここに集約されているような気がした。
そこに俄か、歩を思考を止めた俺をつつくように電脳内のタスク欄がアラートを発する。

『ドーリィと落ち合う:最終目的地』

俺は思わずデータの齟齬を疑った。位置情報にミスは認められないし、アクアリウムの中心地もこの巨大な円筒状の水槽で間違いはない。念入りにサーチを施しつつここを目指したどり着いた筈なのに、警備員の他、誰かを見かける事はなかった。
誰か。人間を1人とて。
いや、もしや。
ぼんやりと頭上の魚群を見上げて、一際泳ぎの上手い大きな回遊魚の投じる影が晴れた瞬間に、俺は目の探査条件を切り替えた。

『索敵条件:人間』
『Shift』
『索敵条件拡大:魚類または海生動物を含む』
『追加条件:体表温度35度以上』

可能性としてはゼロじゃない。
あの子は魚類とのキメラなのだ。人間という狭い枠から片足飛び出したかのような未知の子供。
目は瞬く間に電力を消費して、鋭い「視線」をもって魚群の群れを捕えた。大きさがある程度揃った魚達が驚くべき密度を保って俺を圧倒する。ここか。呼びかける間もなく閃光の塊は徐々にこちらへと下降し、ちょうど俺の目先で何かを待つように静止した。

「Dolly」

気が付いたときにはそっと、張りつめた緊張を一挙に解くように呟いていた。
Dolly(人形のような)。

傷ひとつない円筒の水槽がわずかに振動したような気がした。俺はひこうとしたがそれも間に合わず、アクリル壁の向こうで音もなく魚の群が割れ、亀裂を走らせる。
少女だった。雲の切れ間から注ぐ光のカーテンがいつしか消えるように魚達は一歩退き、1人の少女を名残惜しげに人工光のもとへ連れ出した。
少女。ドーリィ。彼女がドーリィ。
プロフィールできちんと細部を観察したつもりだったのに。
魚とも人ともつかない不思議な少女は銀の髪と目を魚達と共に光らせ、鱗の城壁に囲まれるままにこちらを穿つように見つめていた。

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