第5話・影








「とりあえず、お前ら今日は帰れ」
「アニキ、それ本気で言ってんの?」
「…外泊の許可は」
「ばあちゃんとアニキに免じて出してくれたよ。今年に入って初めてだったから向こうもびっくりしてさ…」
「悪い、悪かった。任務がすんげえ長引いてな」
「別に怒ってないわよ」
「眉間に皺寄ってるよ、アンジュ」

食事を終えて一息ついたのち、一旦荷物を取りに行くと言伝を残して2人と1匹は階上の一室に引き返した。名残惜しさを包み隠さず「泊まっていきなさい」と繰り返す大家さんにはひたすら礼を言う他ない。彼女のおかげで、上官に散々無理を言って勝ち取った「半日休暇」はノーマンにとって忘れられない鮮烈な思い出を残してくれた。
イワンはぼさぼさの尻尾を波打たせながら全身をぺったりと床に伏せる。そろそろトリミングが必要な時期と見えた。寮で風呂に放り込まれるリスクから逃れる魂胆が不意にかすめて合点がいくというもので、アンジュと結託した裏はおよそそんな所だろう。

「何ならこの家でお風呂に入っても良いんじゃない?」

幼い女生徒が提案するや否や、若作りな赤毛の義父はその細く白い首根っこを掴み、イワンの広い背中にポイと降ろした。

「よい子は?何をする時間だ」
「寝る前に歯磨き粉をスニッフィングするタイム」
「その減らず口の燃料が紙製諸本の内容だって、俺がお前んとこの寮母に念を押したらどうなる?それ、行け!そのまんまキープ!1階の突き当りが客間だ!」
「それいつも寮母のマーシーさんが言ってる台詞じゃない!ここは…」
「お前を震災ん時に救助した軍曹どのの部屋だな。当軍曹は今からがっつり1人で静かに寝たいので、とりあえず明日まで…」

ノーマンははたと手を止めて電脳に保存していた予定表を繰り出す。脳に響く鮮明な青のフラッシュがパタパタと電子のページをめくり、彼に「目を覚ませ」と呼びかけているようだった。

「いや、来週くらいまで待てるか?」

アンジュとノーマンが視野を共有した事は1度としてないし、それ以前にアンジュの脳はまだ電脳の開通手術を受けていない。それでも少女は一瞬顔を曇らせて、イワンの首に手を回しそっぽを向いた。ほのかに赤らむ小さな手がふかふかの毛皮に埋もれて、いつか彼女がこのイヌモドキに跨った時よりも手足が伸びたような気がして、何とも言えないくすぐったい心持ちがノーマンを包み込んだ。

「ヒトリミの男はオシゴトがハナ」
「だからそんな口上ばっかり覚えてないで、学校の勉強に身を入れてくれ」




イワンとノーマンが懸命に幼いむくれ顔を解いている間にも、夕刻のにぎやかなニュースは絶え間なく部屋を通過し波打っていた。
アンジュも決して寮が気に入らないわけではないようで、ただ暇を持て余して、更に言えば久々に戦地から舞い戻った顔なじみの報せを聞いていたのである。
ノーマンもとりあえずは、アンジュが半ば彼女本人を説得しようと吐いた愚痴を聞いていた。幼い娘、いや、小さな友人とも呼べるこの子がひたすらに眩しい。時々紺碧の瞳がイワンの忙しない耳元を追ってちらちら光ったが、涙を溜めている様子はなくノーマンは胸をなで下ろした。流石にこんな所で泣かれては困る。
アンジュが自分の事を手放しに信頼しているならそれも良い。ノーマンは素直に思った。
先の震災でアンジュの両親も犠牲になって、したがって寮に顔を立てさえすればおよそつつがなく外泊も叶う。この街で「軍人になって良かった」と心から痛み入る瞬間が訪れるとは思わなかった。
ノーマンとて家族の顔など覚えていない。このご時世、兵士や中流以下の子供達が親を看取るまでに至る道のりは少しばかり遠いらしい。だからこそ、アンジュの事は幸せにしてやりたかった。



賞味期限内のココアと犬用ミルクが戸棚の奥にまだ手付かずのまま残っていたので、柄の悪い帰還兵は眉間の皺を控えつつイヌモドキ愛用のポーチにそれらを詰めてやると、ドアノブに手をかけて仁王立ちをしてみせた。

「飲み終わった頃にまた来い」
「そんなんじゃアンジュの奴がぶがぶ飲んじゃうよ、アニキ」

その時はイワンが彼女の分もぶんどって飲み干せば済む話だ。ノーマンはイワンのハーネスを無理矢理アンジュに握らせドアを引いた。

ドアには厳重に鍵をかける。
いつになく自分の顔はひっつめていたかもしれない。一介の軍曹は短く揃えた髪を梳いて心に一念を留めた。
アンジュの不安げな双眸が脳裏を掠める。ノーマンはメット端末を拾い上げ、改めてシールド部分に映った自分の顔を見た。自分でも嫌になるくらい不機嫌で、戦地にて水たまりに認めたあの顔を思い出した。あれは勿論自分の顔だった。泥だらけで青ざめていたが間違いなく自分の。
ぎらついて獲物を追い詰める事のみを念頭に感じさせる、あの顔。鏡面越しに顔を突き合わせたはずなのにその目は鏡の向こうの己すら、思いの外に追いやっていた。
台所の古い椅子に腰を下ろし、ポケットを探ると折り目のつかない特質な紙封筒が彼を待っていた。


数刻も経たぬ頃にはノーマンはその封筒をしっかりと懐の奥に携え、軍本部に舞い戻った。遠目に見れば平べったい7角形のクッキーを地面に埋め込んで囲んだような施設で、戦局が激化したここ数年は24時間、勇ましい兵士が巡回し目を光らせている。最近はそこにロボットもちらほら混じるようになったのだから、時代とは恐ろしい。人員不足、経費削減、合理性順守、あらゆるベクトルを考慮した上での登用であったが、ごつごつとした正門に多脚型の戦闘用機体がすいすい乗り合わせるのを眺めるたび、ノーマンは歯噛みせずにはいられなかった。
顔さえ見れば誰だかわかるのでは、と文句を垂れつつ電脳のIDを照合してゲートを潜る。電脳そのものの普及も近年に差し掛かり漸く、だったはずである。何でも急激に帝国との距離をすり合わせ迎合を始めた『良家』と対等な関係を築く為、彼らの間ではごく当たり前に適用されている電脳の普及政策が始まったらしい。ノーマンが徴兵された頃には一定年齢以上の電脳化割合が8割を超えていたのでやむを得ずといったところだが、敵や味方、ごろつきと諍いなく技術を売り買いする『良家』の連中と渡り合うべくしての改造手術なら致し方ない。

設備だけが一人歩きして内装などは未だレトロな通路を何本も渡り、時々敷地内専用のホビーに乗り換えて通された先は完全な静音だった。情報のやり取りに特化したプライベート・フィールドだ。『良家』が治める研究所内に似たような設備があるらしく、もとをただせばあちらが元祖、なのだそうだ。技術部の連中は「より改良と改善を加えたのだから引けは取らぬ」と譲らなかったが。
硬化ガラスで仕切られた狭苦しい一室にて、テーブルに封筒の中を空ける。アトランダムに選ばれた6つのワードと若干厚めのカードが転げ落ちた。付与されたパスワードと簡潔に「ストック」と呼ばれる記憶媒体の一種である。ノーマンが手にした代物も見たところ一般で手に入る廉価版と変わりはなかったが、軍で扱うからには相応の想定を備えノーマンの手に渡ったはずだ。
ノーマンはストックに力任せに親指を押し当てると、自分のフルネームと階級、所属師団を告げた。西の訛りを抑えて出来るだけ明瞭な発音に努める。政治的拠点がより東部、ないし『中央』に集中して久しい為か、最近特に西側をルーツとする人間の多い軍で多発するエラーケースを憂慮しての反射だった。この場でなければノーマンも方言をおざなりにしがちな電子機器に喝を入れていたところである。

ストックはノーマンの声紋と指紋を無事認識し、青いネオンサインのようなロゴを投影した。

<Over, Over>

それを合図にノーマンはメット端末に付属するスロットへストックを挿し込んだ。電脳はきっちりオフラインにセットして、これもオフラインの端末で記録内容を立ち上げればサイバー攻撃がいきなり脳に及ぶリスクは抑えられる。ついでに物理的な打撃もフルフェイスのヘルメットなら多少は防いでくれる。はず。
本来ならこうして軍部の外で情報を展開する事態などあってはならない。それでも少佐はこのストックがノーマンには必要なのだと判断した。
毒を食らわば皿までだ。ノーマンは腹を据えて解剖記録のアイコンを選択した。



アイコンをノックし、要求画面でパスワードを全て音声コマンドで放り入れた。主に西部由来のワードが2つ、南西から1つ、中央を占有する言語から3つ。
鍵は全て手書きで託された。どの言語により親しむ者が書いたか定かではなかったが読みやすく小慣れた筆跡だった。
若干旧式の端末という事で処理速度は若干おぼつかない。にしても。

(unknown.)
(unknown.)
(unknown.)

(unknown.)


「…ひでえな」

病理解剖診断書類、漁礁遺跡でドローンが記録した資料映像、およびアクセス権限をノーマン・カーライル軍曹に許可する旨を伝える証明書。
ストックに記録されていたのはそれが全て。しかしデータそのものがどれもこれも相当におぼつかなかった。許可証ならいざ知らず、診断書等々の全ての項目が<unknown>と記載して清書されている。まさかここまでとは思わず、ノーマンも目を剥いた。
身元証明に足る物品を持っていなくとも脳が残っている限り、厳密には電脳内のナノマシン群が残存するならば確定は至極容易である。しかし、脳を匙で掬い取れば恐ろしいほどの情報があらわになる昨今において、どういうわけか性別が男性である以外、この男の情報はほぼ<unknown=不明>。

(血液型も不明…?)

改めて添付された全身画像を眺める。始めはタールで皮膚が汚れているものと合点していたのだが、それは肌やほつれた衣服の至るところで油脂よりももっと無遠慮に澱んでいるように見受けられた。無遠慮で暴力的な血痕。

(…血液?このどす黒くて青っぽいドロドロが?)

執拗にびっしりと打ち込まれた備考欄に自然とノーマンの思考は吸い寄せられた。

<暗緑色の血液>
<銃創多数、いずれも生体反応なし>

「きな臭いどころの与太話じゃねえぞ…」

どこのUMAだろうか。海に出ればDNA改変類や後天的改造素体など溢れるほど見受けられるが、この男の備える特徴には末恐ろしい目的が垣間見えるようで寒気がした。あの『研究所』のマッドサイエンティスト共はいったい何をやらかしたのだろうか。
凶悪な顔立ちに怒気を込めてノーマンは男の緑にまみれた顔を睨む。その「暗緑色」はノーマンの知るタールよりも果てなく無機的で、彼の燃え立つような赤毛とはまるで真逆の凶暴さを備えて澱む。

1度はこいつも。この男も漁礁遺跡と共に海中に沈んだのならそのまま、この世の終わりまで隠遁して塩漬けの化石となって果てていれば世話は無かったのだ。
そも、あの遺跡はどういうわけか修繕工事の対象として多くの企業、政府機関にその計画を伝達され、いずれは海底鉄道を腹の内に通されて観光の名所に姿を変えるはずだったのだ。そこへ逃げ込んだというあの『研究所』の申し子。あろう事か死体になって日の元に浮かび上がったというのはやはり、きな臭い。男の顔は整ってはいるものの、余計に人形のような印象を助長するだけで同情など出来そうになかった。
研究というには微塵もストイックさを感じさせない臭いをノーマンはあちこちから感じ取る。ロストされた筈の技術が無理矢理に遺跡という名の墓場から這い出てまき散らす臭気。どれだけ墓場で石を温めても、人の生来持つ俗っ気という名の鼻つまみ物とは縁を切れなかったらしい。

「ロストテクノロジー、って言うくれえならそのままロストしとけってんだよ、」


ノーマンは思わずいつもの調子で愚痴った。
誰にとなく。
この部屋には自分1人なので無論、それは無作為にどこかの誰かに、或いは軍曹自身の脳へと還元され霧散していくはずの文言だった。

どこかの。
誰かに。


ノーマンは咄嗟に言葉尻を飲み込んだ。飲み込んで溜め込んで吊るしたままだったホルスターに手を伸ばし、息つく間もなくぐっと拳を作って机に降ろした。

今の感触。
自分は今、フルフェイスのメットを被って仕事に当たっていた。
事実、嫌な汗がじりじりと滲んで尚の事ノーマンを悩ませていた。
その合金で外気と隔てられていた後頭部がゆっくりと、じっとりと何者かに撫でられた。
直接。
指使いまで感じ取れた。髪、頭皮、頭骨と言わず全て舐め取ろうかと言うほど不快で緩慢な人肌の感触がノーマンの背筋にまで伝播した。


振り向くよりはと、ノーマンもすぐさまメット端末の電源を切って視界を確保しようと動いた。しかし電源オフのコマンドを無視してメットはデタラメな挙動を繰り返す。脱ぎ去ろうとしたが視界を覆う解剖記録から目が離せない。

<LOST>

暗緑色の角ばった字体でシールドは埋め尽くされた。
あり得ない。今の今までこのウェアラブル端末はオフラインだった。
そんな事は知らぬ存ぜぬとばかりに見る間に白地の書面はボロボロと、腐食したトタンのように崩壊していった。
朽ちたトタンがそよ風に風化の起爆スイッチを無理に押されたかのように、自らの身体が意思に反して崩壊する事を嘆くかの如く、書類たちはビリビリとノイズを発した。

あり得ない。このような手のこんだモーションを伴ったデータの崩壊なんて。ウイルスだろうか。いや、全ての回線を遮断して、しかし軍部の緊急コードにのみ『心』を開いて電脳を自閉状態にした事を確認したうえで、このストックを開錠した。全ては確かだ。この俺の意図だ。


くそったれ。


ノーマンは丹田にずっしりと気合を込めて椅子に深く腰掛ける。ぎしぎしと木製の椅子が不平を漏らす。
くそくらえだ。


「で?どちらさん?」

ノーマンは己の野太い号令のような一声を強かに賞賛し、激励を送った。そして場の発する指令に従った。

来るもんならてめえのご自由に。
ただしその命も机上で、地上で、盤上で、しまいには地獄でフリーとなる条件つきだ。

俺の命も無論フリー。誰の物でもない。法や秩序からも尚更フリーだ。
この据わりの悪い机の上でお互いフリーの駒になって同軸に立つ。

ノーマンは自嘲よりも武者震いに任せて去来する何かを豪気に笑った。
兵士はたとえどんなに無傷のボディで凱旋しても、穏やかな街に安穏とした居を構えても、戦地で落とした大事な『落し物』の呼ぶ声に頭をやられているのだ。
ノーマンは心の内で地団駄を踏む。くそくらえだ。

アンジュ。イワン。




薄暗く絞られたスタンドライトがにわかに出力を強め、部屋を一瞬だけ照らし出す。
誰も気づく間もなく、ノーマンと机を挟んだパイプ椅子が黒く陰り、不気味な細長い人影を落としてくっきりと染まった。

(神はスレンダーマンをお使いに賜った、ってか?)

西部で育った粗野な軍人は天を仰いでブーイングを飲み込んだ。


厳重な施錠が幾重にも施されたルームにて、どこまでもフォーマルスタイルな喪服姿の男が腰かけていた。
パイプ椅子を一切軋ませる事なく深々と座り、ノーマンをじっと覗き込んでにんまりと。

「7つ目のパスワードを遠東からお持ちしたところですよ。ミスター」

今にも消えてしまいそうなほど陰りに染まった破顔を張り付けて、ノーマンの応答を待っていた。
死体解剖診断書類の添付画像に投影され、穏やかに眠っていたあの男が。
 

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