傷痕



 ハリーは仰向けに横たわったまま、まるで疾走してきたあとのように荒い息をしていた。


 妙に生々しい夢で目が覚め、ハリーは、両手を顔にギュッと押しつけていた。その指の下で、稲妻の形をした額の古傷が痛む。いましがた白熱した針金か何かを押しつけられたかのような、灼けるような痛みだ。


 ベッドに起き上がり、片手で傷を押さえながら、ハリーは、ベッド脇の小机に置いてあった眼鏡へと、もう一方の手を伸ばした。眼鏡をかけると、寝室の様子がそれまでよりはっきりと見えてきた。


「…………」


 ハリーは、もう一度指で傷痕をなぞった。まだ疼いている……。


 目が覚める前にどんな夢を見ていたのか、ハリーは思い出そうとした。あまりにも生々しかった……一人は知っている。あとの二人は知らない……ハリーは顔を歪めた。夢を思い出そうと、懸命に集中した。


 暗い部屋が、ぼんやりと思い出された。暖炉マットにヘビがいた……そして、冷たく甲高い声……ヴォルデモート卿の声だ。そう思っただけで、胃袋に氷の塊が滑り落ちるような感覚が走った。


 ハリーは、ヴォルデモートの姿を思い出そうとしたが、できなかった。椅子がこちらを向き、そこに座っている“もの”が見えた。ハリーが“それ”を見た瞬間、恐ろしい戦慄で目が覚めた。それだけは覚えている……それとも、傷痕の痛みで目が覚めたのか?


 あの老人は誰だったのだろう? ヴォルデモートの傍に控えていた男性は? 彼らが話していた内容はなんだった? 僕の名前が出てこなかったか?


 次々に疑問が浮かんでくる。それに対する答えを探そうとするが、とらえようとするほど、細かなことが頭の中からこぼれ落ちていった。まるで、両手に汲んだ水が指の間から漏れていくように……。


 ハリーはベッドに腰かけた。もう一度、指先で傷痕をなぞる。静寂の中で耳を澄ませる……隣の部屋から、従兄弟のダドリーが巨大ないびきをかく音が聞こえた。一瞬、ハリーはビクリと身体を跳ねさせた。


「…………」


 頭〔かぶり〕を振って、ハリーは、やりきれない気持ちで部屋の中を見渡した。机の上にあるバースデー・カードに目が止まる。七月末の誕生日に、友人たちから送られたカードだ。


 彼らに手紙を書いて、傷痕が痛むと言ったら、なんと言うだろう? ハリーは、気持ちを紛らわそうと、そんなことを考えた。


 たちまち、ハーマイオニー・グレンジャーが頭の中に現れた。驚いて、甲高く叫んでいる……。


『傷痕が痛むんですって? ハリー、それって、大変なことよ……ダンブルドア先生に手紙を書かなきゃ! それから、私、『よくある魔法病と傷害』を調べてみるわ……何か書いてあるかもしれない……』


 脳内ハーマイオニーの意見を、ハリーは却下した。ハリーのような特異な症状が『よくある魔法病と傷害』に記載されているとは思えない。それに、ダンブルドアに「今朝、傷痕が疼いたのです」なんて伝えるのも、どうかしている。


 ハリーは、ロン・ウィーズリーがどんな反応を示すか、想像してみた。頭の中に、当惑した表情のロンがやってきた……。


『傷が痛いって? だけど『例のあの人』がいま君のそばにいるわけないよ。そうだろ? ねぇ、ハリー、僕、わかんないけど、呪いの傷痕って、いつでも少しはズキズキするものなんじゃないかなぁ……パパに聞いてみるよ……』


 ロンに相談するのも却下だと、ハリーは思った。絶対に大きな事態にされる。ウィーズリーおばさんはハーマイオニー以上に大騒ぎして心配するだろう。フレッドとジョージは、ハリーを意気地なしだとからかってくるかもしれない。


 それに、ハリーはウィーズリー家に泊まりにいく可能性があるのだ。ロンが、クィディッチ・ワールドカップについていろいろ話していた。せっかくの滞在中に、傷痕はどうかと心配そうに何度も聞かれたりするのは、なんだか嫌だ。


 リンはどうだろう? 彼女はなんて言うだろうか……ハリーは考えてみた。ゆっくりと、ハリーの脳裏に、相変わらずの静かな表情をしたリンが浮かんできた……。


『結論をはっきり言うと、よく分からない。君が見たっていうヴォルデモートの夢と、なんらかの関わりがあるような気はするけど、確証はないし。まぁ、あまり深刻に考えなくてもいいかもしれないよ? 寝返りの拍子に壁にぶつけただけの可能性もあるし』


 ハリーは思わず笑ってしまった。そう、それこそリンらしい言葉だ。彼女は、深く重い空気が苦手なのか、あっさり流して軽い冗談に持っていく傾向がある。


 脳内リンの言葉で、ハリーの緊張も解けたようだった。ふっと肩の力が抜ける。そうだ。あまりビクビクしていても仕方ない……ロンの家で会ったときにでも、三人に話そう……。


 立ち上がって伸びをして、ハリーは時計を見た。そろそろペチュニアおばさんが起きるころだ。朝食に下りていくために、ハリーは着替え始めた。



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