彼は、彼女が好きではなかった。

 彼女は、彼の父親の妹(彼はいつも心の中で「あの女」と呼んでいた)の娘 ――― つまり、彼の従妹だった。

 彼の父親と「あの女」は、仲が良くなかった。いや、二人の仲が悪いと言うよりは、「あの女」が一方的に父親を無視していた。彼は、自分の父親が「あの女」を悪く言ったりしているのを聞いたことはなかったが、ろくに話も聞かないで嫌そうな顔をする「あの女」に対して、困った顔をしたり怒っていたりするのを、いつも見ていた。

 彼は父親のことが大好きだった。だから、父親に冷たい態度を取る「あの女」が嫌いだった。そして、そんな女の子供である彼女のことも、好きではなかった。

 彼女が純粋な日本人ではないという事実も、その気持ちに拍車をかけていたかもしれない。彼女の目は由乃一族の誰とも違う色だった。彼女の目は黒色ではなかった。暗いようで明るい、不思議な色だった。だから、子供の頃、彼のなかでは「彼女は“余所者”だ」という意識が強かった。

 そんな嫌悪感と差別意識から、幼かった彼は、馬鹿なことをしたのだった。


**


 あるとき、彼の家に彼女が来ていた。

 あとから知ったことだが、当時「あの女」が研究室に閉じ籠って彼女の世話をろくにしなかったせいで、彼女は体調を崩し、それを見かねた彼の父親が、彼女の面倒を一時的に見ることにしたらしい。

 しかし、そんなことを知りもしなかった彼は、用事もないのによくもズケズケと自分の家に来たものだと憤慨した。勝手にやってきて彼の領域を荒らす……そんな嫌な奴にしか、当時の彼には思えなかった。

 だから、彼女と一緒の部屋にはいなかったし、彼女が近づいてきたら逃げたし、一緒にいなければならないときは彼女を無視したし、どうしても彼女に話しかけなければならないときだって、言葉を吐き捨てるようにして用件を伝えた。

 ある日、彼は父親に言われて彼女と遊ぶことになった。彼は正直そんなの真っ平御免だったが、渋々了承した。大好きな父親の頼みだったので断れなかった。心のなかで、彼は彼女を罵った。遊び相手を欲しがるなんて、そして彼の父親にそれをねだるなんて、なんと図々しい奴なんだ、と。

 父親が彼女を心配して言ったという事実に気がつかず、彼は彼女を悪者にしたのだった。

 彼は彼女を連れて、家の近くにある森へ行くことにした。家のなかで彼女と一緒に遊ぶのは嫌だったからだ。自分の部屋に入れるのは嫌だったし、居間かどこかで遊ぶにしたって、彼の遊び道具を彼女と共有するのなんて、彼には耐えられなかった。

 祖父や父親の弟子たちからの明るい挨拶に元気よく返事をしながら ――― 彼女は彼らに小さくお辞儀をしただけだったので、暗い奴だと彼は思った ――― 彼は森の中へと入っていった。

 どこか適当な遊び場はないかと歩いていた彼は、無邪気な、そしてそれ故に恐ろしい悪戯を思いついた。



 彼は、森の奥にある大きな洞窟へ、彼女を連れていった。入口の周りには鉄の柵があったが、彼らは上手に通り抜けて中に入った。入口からしばらく一本道が続き、途中で細い脇道がある。それを通り過ぎてまた少し歩けば広い空間に出て、そこから道が三つに分かれていた。

 彼は彼女に、道の奥に何があるか探検しに行こうと言った。左の道を彼が行き、右の道を彼女が行く。二人が帰ってきてから二人で真ん中の道を行こうと説明した。彼女は特に何も考えないで頷いて、右の道に入っていった。それを見て、彼は笑った。

 その先にいるものが何か、彼は知っていた。“雷獣”という、雷を操る獰猛な妖怪だ。全部で三匹いて、一匹ずつ分けられていた。とても危険な妖怪なので、そのように人のいないところに一匹ずつ隔離されていたのだった。

 彼は、きっと彼女が驚いて泣いて帰ってくると思った。そうしてからかってやろうと思ったのだ。彼にとって、それはとても「些細な」悪戯だった。彼は可笑しそうに楽しそうに笑っていた。――― 左の道と中央の道から、二人の弟子たちがそれぞれ出てくるのを見るまでは。

 彼らは彼に、どうしてここにいるのか尋ねた。彼は黙っていた。怒られるのが嫌だったとか、そういうのではなく、二人の顔が怖かったからだ。二人は険しい顔で言った。

 いまの時間は食事時で“雷獣”たちがより凶暴になっているから近づいてはいけない、遊びに来たのなら早く帰らなくてはならない、と。

 彼はその一瞬呼吸を止めた。それとほぼ同時に、右の道から眩い光が迸った。二人が勢いよく振り返る。ひく、と息を呑んだ彼は、割れるような雷鳴を聞いた。

 二人が彼を問い詰めた。彼は半分泣きながら「悪戯」について明かした。それを聞くや否や、一人が彼の頬を打ち、一人が駆け出した。

 右の道の先にいる“雷獣”にはまだ食事を与えていないから、奴は飢えていて、三匹の中でいま一番危険なのだぞ、と、弟子は彼の肩をきつく掴んで怒鳴った。眩しい光や轟く音で弟子の表情や言葉が時折分からなくなるなか、彼は必死で首を振った。


 そんなつもりではなかった。そんなこと知らなかった。自分はただちょっとだけ彼女を脅かすだけのつもりだったのだ。だから、


 ――― そこから先は、一番眩い、視界を焼き尽くすような光と、一番激しい、鼓膜を突き破るような轟音と、重い、地を揺るがすような衝撃に、呑み込まれた。

 彼は目を瞑り、肩を跳ねさせ耳を手で覆った。弟子の手が肩から離れた。彼は支えを失って地面に崩れ落ちた。ぎゅうと目をきつく瞑って身体を丸めた。目の端から熱い涙が流れて頬を伝った。彼は心の中で叫んだ。


 だれか、だれでもいいから、だれか助けて! あの子が死んでしまう! そんなこと望んでない! 助けて、死んでしまう! お願い、神様、あの子を助けて……! 


 彼は強く、ひたすらに、天にいると言われている神に祈った。


→ (2)
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