「リン? ハリー?」

 二人は顔を見合わせたあと、後戻りして声の主を探した。リンが先に見つけた。

「ルーピン先生」

 どことなく嬉しそうな声にハリーが振り向くと、ルーピンが、彼の部屋らしきドアから顔を出していた。驚くほどの速度でリンが彼に駆け寄り、なにやら話しかける。ハリーにはその内容は聞き取れなかった。

 彼らに近寄っていってもいいのだろうか。ハリーが悩んでいると、ルーピンがハリーのほうを見た。ばっちり目が合い、ルーピンが微笑む。

「二人とも、ちょっと中に入らないか? ちょうど次のクラス用のグリンデローが届いたところだ」

「なにがですって?」

 ハリーはリンと一緒に、ルーピンに続いて部屋に入った。部屋の隅に大きな水槽が置いてある。鋭い角を生やした気味の悪い緑色の生き物が、ガラスに顔を押し付けて、百面相をしたり、細長い指を曲げ伸ばししたりしていた。

「水魔だよ」

 興味津々で見つめるリンの頭を撫でて、ルーピンが言った。

 水魔についてルーピンが軽く説明する間、ハリーはなぜだかザワザワした感覚を感じた。それを振り払うように水魔に視線を向けると、水魔は緑色の歯を剥き出し、隅の水草の茂みに潜り込んだ。

「紅茶はどうかな?」

 ルーピンはリンの頭から手を離し、ヤカンを探した。

「私もちょうど飲もうと思っていたところだが」

「いいんですか?」

「もちろん。ハリーはどうする?」

「……いただきます」

 柔らかく笑ったリンと対照的に、ハリーはぎこちなく答えた。それから、ルーピンに促されるまま、リンとソファに腰かける。スイがテーブルの上へと飛び移った。

 ルーピンがヤカンを見つけ出し、杖で叩くと、たちまちヤカンの口から湯気が噴き出した。ハリーたちに座るよう促して、ルーピンは埃っぽい紅茶の缶の蓋を取る。

「すまないが、ティー・バッグしかないんだ。しかし、お茶の葉はウンザリだろう?」

「どうしてそれを?」

 ハリーはルーピンを見た。ルーピンは穏やかに笑って、縁の欠けたマグカップをリンとハリーに渡し、スイにはミルクの入ったコップを渡した。

「マクゴナガル先生が教えてくださった。二人とも、気にしてはいないだろうね?」

「気にしていると思われたんですか?」

 リンが首を傾げた。ルーピンは微笑んで、縁の欠けた部分を避けてマグカップに口をつける。

 ハリーは一瞬、マグノリア・クレセント通りで見かけた犬のことを打ち明けようかと迷ったが、思い止まった。リンとルーピンに臆病者だと思われたくなかった。リンは死神犬のことを完璧に笑い飛ばしてみせたし、ルーピンも、ハリーは「まね妖怪」にも立ち向かえないと思っているようなので、なおさらだった。

「心配事があるのかい、ハリー」

 ハリーの考えていることが顔に出たらしい。ルーピンが聞いてきた。一瞬ハリーは嘘をつこうかと思ったが、リンが気遣わしげにハリーを見ていたのに気づいて、嘘はやめることにした。

「あの、先生、まね妖怪と戦った日のことを覚えていらっしゃいますか?」

 ハリーが出し抜けに質問をすると、ルーピンは特に動揺もせず「ああ」と頷いた。

「どうして僕を戦わせてくださらなかったのですか?」

「そうだね……君のまえでは、まね妖怪はヴォルデモート卿の姿になるだろうと思ったからだ。……どうやら私の思い違いだったようだがね」

 ハリーは目を見開いた。予想もしていない答えだったし、そのうえルーピンはヴォルデモートの名前を口にした。これまでその名を口に出して言ったのは(ハリーは別として)ダンブルドアだけだった。

「たしかに、最初はヴォルデモートを思い浮かべました」

 困惑しながら、ハリーは正直に言った。リンが興味深げに視線を寄越してきたのが視界の端に見えた。

「でも、僕 ――― 僕は、吸魂鬼のことを思い出したんです」

「そうなの? おそろいだね、ハリー」

 紅茶のカップを膝の上に載せたリンが、静かに、そして気軽に言った。ハリーとスイがリンを見る。

「君も? 君も吸魂鬼を思い浮かべたの?」

「思い浮かべたっていうか、まね妖怪が実際“それ”になったんだよ」

 そのときのことを思い出したのか、リンの表情が少し暗くなった。しかしそれも一瞬で、すぐにいつもの理知的な雰囲気に戻って、水魔のいる水槽を見やる。水魔が水草の茂みから出てきて、リンたちに向かって拳を振り回していた。

「……なるほど」

 不意にルーピンが呟いた。考え深げな表情だった。ハリーとリンを交互に見て、ふっと笑みを浮かべる。

「感心したよ……それは、君たちが最も恐れているものが恐怖そのものだということなんだ。とても賢明なことだよ」

「恐怖そのもの……?」

 いまいち理解できず首を傾げるハリーに、ルーピンは「ああ」と頷いた。ハリーの横で、リンがのんびりと紅茶を口に含む。

 穏やかな目で見つめてくるルーピンを見つめ返して、ハリーはなんと言っていいか分からず、とりあえず視線を下げ、紅茶を少し飲んだ。恐れているものが恐怖そのものとは、いったいどういう意味だろう?

 そしてハリーはふと、以前リンが言った言葉を思い出した。


 ある『もの』を人が恐れるとき、人はその『もの』に恐れを抱いているのではなく、その『もの』から連想されるものに対して恐れを抱いている


 ハリーは、吸魂鬼が恐いと思っている。だけど、リンとルーピンは違うと言っている。じゃあ、ハリーが恐れているものは何だろう? 吸魂鬼か? それとも ――― 。

「さて。リン、ハリー」

 突然ルーピンが声を出したので、ハリーの思考は中断せざるを得なかった。意識と視線をルーピンに向ける。ルーピンは自分の分の紅茶をきれいに飲み干したところだった。

「もうそろそろ帰りなさい。私は仕事を続けるからね。あとで、宴会で会おう」

「はい」

 ハリーは空にした紅茶のカップを置いた。相変わらず水魔を眺めていたリンは、急いで紅茶を飲み干して立ち上がり、スイを肩に乗せる。

「お邪魔しました」

 ペコリと丁寧に頭を下げ、リンは部屋を出た。ハリーもそれに倣い、ルーピンの部屋を後にする。ドアまで歩いていく途中、ルーピンの部屋に掛かっているカレンダーに三日ほど続けて丸印がついているのが見え、それが妙に印象に残った。

3-9. 二人で留守番
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