カチャン、金属同士が触れ合う音が、広い室内に響いた。ビーカーから瓶の中へと移された金茶色の魔法薬からは、薬自体の色とは不釣り合いな黒い煙が立ち昇っている。凛は、それをしげしげと眺めた。

 もう何度目かの調合だが、何度見ても不思議な薬だ。色の釣り合いもそうだが、材料の組み合わせも、いままで見たことのない取り合わせだ。なにより、何の薬なのか、未だに分からない。夏芽は何も告げてはくれなかった。

 興味はあるが、下手に質問をして夏芽の機嫌を損ねるようなことは避けたい。そんなリスクを冒してまで知りたいわけではない。ということで、凛は何も言わず、薬の入った瓶をテーブルの上にそっと置いた。

「詰め終わったのか」

「え……あ、はい」

 背後から声をかけられて内心驚いた凛だったが、あまり表情と声音には出なかった。まあ感情が外に表れたところで、夏芽が気を遣ってくれるわけでもないのだが。

「じゃあ、いつも通りに」

「はい」

「これで最後だ。……今日からしばらく留守にする」

「え……あ、はい」

 凛の返事を聞くか聞かないか、夏芽は実験室を出ていった。残された凛は、夏芽が出ていったドアをしばらく見つめ、頭の中で母の言葉を反芻する。

 これで最後。彼女はそう言った。今日が「最後」なのは分かったが、何が「最後」なのかは分からない。薬の調合法の指導のことだろうか? それとも薬を調合すること自体? もしかして、二人が顔を合わせることが? いや、それはない……はず、と、凛は頭を振る。

 夏芽は肝心なところを言わないことが多々あるので困る。溜め息をついたあと、とりあえず夏芽の指示通り薬を依頼人に送ろうと、凛は瓶を手に取った。

 用意していた箱に瓶を慎重に入れ、読み終わった「日刊予言者新聞」を適当に破って丸めたものを緩衝材代わりに隙間に詰め込む。蓋をした箱を適当な包装紙で包み、宛名を書いたラベルを貼る。

 ここまで流れ作業で行い、凛は一息ついた。あとはこの箱をテレポートで「漏れ鍋」まで転送し、そこからフクロウに届けてもらえば完璧だ。二度手間で面倒なことこの上ないが、仕方ない。こういうとき、日本に住んでいるって不便だなぁと思う。

 ふぅ……と長く息を吐いて、凛は、ラベルに書かれた名前を見、指先でそっとなぞる。この人の名前はそろそろ書き慣れてきた。今回で五、六回目くらいだろう。先月の今頃に三回薬を送ったし、今月も同じように送った。月に一度、約三十日周期で薬を必要とするらしい彼は、いったいどんな病気を持っているのだろう?

 ふと疑問に思った凛だったが、すぐに思考を止める。いくら考えても所詮は推測だ。それより早く薬を発送しようと、凛は箱を持って実験室を出ていった。


**


「………はい?」

 新学期が始まる三日前、教材を買うためにダイアゴン横丁を訪れたリンは、まず先にと立ち寄ったグリンゴッツのカウンターにて、小鬼を前に呆然とした。肩に乗っているスイも、ポカンと口を開けている。いま小鬼に言われたことが理解できなかったのだ。先に我を取り戻したリンが、小鬼に質問した。

「……あの、いま、なんて?」

「六六六番金庫が新しくあなたのものになっております」

「……なぜ?」

 その一言に尽きた。リンがもともと所持していた金庫は一つだけだ。預金額が増えたわけでもないのに、なぜ増えるのだろう? なにか思い当たる節はないかと記憶を辿るリンに、小鬼は淡々と言った。

「遺産相続の手配を受理いたしましたので」

 一瞬、リンは呼吸を忘れた。最近に亡くなった人で、自分に遺産を遺すような人は、一人しか思い当たらない。リンの脳裏に、不器用に笑う青白い顔が浮かんだ。

「……あの、その金庫の、前の所有者って、」

「その質問にお答えすることは、我々の職務ではありません」

 震えるリンの言葉を遮って、小鬼はピシャリと言った。リンはそれ以上追及しようとはせず、黙って小鬼から新しい金庫の鍵を受け取り、そして自分の金庫への案内を頼んだ。

 小鬼が別の小鬼に指示を出す中、じっと手のなかにある鍵を見つめるリンの頬を、スイが優しく撫でた。



 グリンゴッツの金庫から貯金を下ろしたあと、リンは買い物を始めた。制服を新調し、薬問屋で「魔法薬学」の材料を補充し、羽根ペンとインク、羊皮紙を買い足し、それから教科書を買った。

 書店での買い物が一番苦労した。新しく取る科目が多いので、用意する教科書も必然的に増えたのだ。量も問題だったが、本自体にも問題があるものがあった ――― 例えば「怪物的な怪物の本」とか。いったいどうやって読むのだろう? と首を傾げつつ、リンは、疲れ果てている店主に礼を言って書店を出た。

 まだ何か買うものがあるか、歩きながら考え込んでいると、誰かに大きな声で名前を呼ばれた。

「リン! おーい、リン!」

「……ハリー?」

 振り返ると、リンの学友の一人であるハリー・ポッターの姿が見えた。フローリアン・フォーテスキュー・アイスクリーム・パーラーのテラスに座って、満面の笑みを浮かべ、リンに向かって千切れんばかりに手を振っている。

「新学期の買い物?」

 リンが傍に行くと、ハリーが弾んだ声で聞いた。頷くリンに、ハリーは、荷物を置いて座るように促す。リンは彼の向かいに腰を下ろし、スイはテーブルの上に乗った。

「たくさん買ったんだね、どうしたの?」

 ハリーはリンの荷物を見て目を丸くした。袋が四つ、しかもそのうち二つはぎっしり詰め込まれ、はち切れそうなくらいだ。

「教科書がたくさんあって……あの、新しい科目は全部取るから」

 ハリーが信じられないという顔でリンを見たので、リンは苦笑した。

 それから、二人はいろいろ話した。ハリーがおばさんを膨らませて家を飛び出して「夜の騎士〔ナイト〕バス」に乗ってここに来たこと、魔法大臣に会ったこと、それからずっと「漏れ鍋」に滞在していること、毎日ダイアゴン横丁に出てきているがロンやハーマイオニーにまだ会えていないこと、などなど。リンは驚き半分呆れ半分で聞いていた。

「……よく退学にならなかったね」

「僕もそう思ってる」

 しみじみとしたリンの呟きに、ハリーは同意した。どうして魔法大臣はハリーを見逃したのだろう? 二人は考え込んだが、答えは出なかった。先にリンが思考を放棄した。

「まぁいいんじゃない? 君の都合のいい方向に進んだんだから、ラッキーってことにしておこうよ」

「……結構いい加減なんだね」

 あっけらかんと言ったリンに、ハリーは苦く笑った。去年も感じたことだが、リンはハーマイオニーと同じく優等生と言われているけれど、まったく性格が違う。ハーマイオニーだったら、自分が納得のいく答えを出すまで ――― あるいは、誰かに邪魔されるまで、考えるのをやめないだろう。あっさり考えるのをやめるところは、ロンに似ている。

 頭が良くて真面目だけど、ちょっといい加減。カタくなくて接しやすい。彼女が人気者な理由はきっとここにあるんだろうなぁと思いながら、ハリーはしばらくリンと会話に花を咲かせた。

 ほかのホグワーツの生徒には会ったか、誰と誰がここにいた、「怪物的な怪物の本」はいったい何なんだ、「高級クィディッチ用具店」に新しく出た箒は素晴らしい、などなど。

 だいぶ話して話題が尽きてきたかという頃、ふと腕時計を見たリンが「……あ」と声を漏らした。ハリーが首を傾げる。

「どうかした?」

「うん、あの、悪いんだけど、これから人と会う予定で………」

 申し訳なさそうに眉を下げるリンに、ハリーは首を振った。

「大丈夫だよ! そもそも僕が引き止めてたんだし。リンは早く行きなよ」

「本当にごめん……あの、じゃあ、ホグワーツで」

 簡単に挨拶を済ませ、リンはスイを肩に乗せて、待ち合わせ場所である「漏れ鍋」へと走った。


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