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 ハリー・ポッターは辟易していた。これはいったいどういう状況なのだろう……。ハリーは考えた。フローリシュ・アンド・ブロッツ書店へと入るまではよかった。そこでサイン会を開いていたギルデロイ・ロックハートがハリーに気づき、声を上げるまでは。

 何が何だか理解できないうちに、ハリーはロックハートに腕を掴まれ、彼と並んだ写真を撮られ、彼の全著書をプレゼントされていた。

 本の重さでよろけながら、ハリーはなんとか人混みを掻き分け、店の隅に逃れる。そこにはジニーが一人立っていた。ハリーは、彼女の足元に置いてある大鍋のなかに本の山を落とした。

「これ、あげる。僕のは自分で買うから」

「いい気持ちだったろうねぇ、ポッター」

 誰の声だかすぐ分かった。ウンザリと振り返れば、予想通り、ドラコ・マルフォイがそこにいた。いつもの薄ら笑いを浮かべている。

有名人のハリー・ポッター。ちょっと書店に行っただけで一面大見出し記事かい?」

「ほっといてよ。ハリーが望んだことじゃないわ」

 ジニーが突っかかったとき、ロンとハーマイオニーが、ロックハートの本を一山ずつ抱えて人混みから脱出してきた。

なんだ、君か」

 ロンは靴底にベットリとくっついた不快なものを見るような顔でマルフォイを見た。

「ハリーがここにいて驚いたのかい? ん?」

「ウィーズリー、君がこの店にいるのを見て、もっと驚いたよ……そんなにたくさん買い込んで、君の両親はこれから一ヵ月は飲まず食わずだろうね」

 ロンの腕のなかにある本の山を一瞥して、マルフォイがせせら笑う。ロンが真っ赤になったとき、ウィーズリーおじさんがやってきた。

「ロン、何してるんだ? 早く外に出よう……ここはひどいもんだ……」

「これは、これは ――― アーサー・ウィーズリー」

 背後から冷ややかな声が聞こえた。マルフォイ氏だった。息子の肩に手を置き、息子とそっくりな薄ら笑いを浮かべて立っている。

「やあ、ルシウス」

 ウィーズリー氏は首だけ傾けて素っ気なく挨拶をした。できるだけ相手を視界に入れまいとしているようだった。反対にマルフォイ氏は、しっかりとウィーズリー氏を見て冷たく笑う。

「お役所は最近お忙しいらしいですな? あれだけ何度も抜き打ち調査を……残業代は当然払ってもらっているのでしょうな?」

 ふとマルフォイ氏はジニーの大鍋に手を突っ込み、使い古しの擦り切れた本を一冊引っ張り出した。それを眺め渡してニヤリと笑う。

「どうも、そうではないらしい。なんと、役所が給料も満足に支払わないのでは、わざわざ魔法使いの面汚しになる甲斐がないですねぇ?」

 ウィーズリー氏はロンやジニーよりももっと深々と真っ赤になった。

「マルフォイ、魔法使いの面汚しがどういう意味なのかについて、私たちは意見が違うようだが」

「さようですな」

 マルフォイ氏の薄灰色の目が、少し離れたところで心配そうに成り行きを見守っているグレンジャー夫妻へと移った。

「こんな連中と付き合っているようでは……ウィーズリー、君の家族は ――― 」

 ウィーズリー一家は何なのか、ハリーたちは続きを知ることはなかった。マルフォイ氏が突然みんなの視界から消えたのだ。

 ハリーたちは目が点になった。いったい何が起こったんだ? 魔法か? 誰も分からない。ただ、誰かが誰かを蹴り飛ばし、誰かが地面に倒れ込んでそのまま地面を滑っていったかのような、ドゴォッ、ズザーッという音がしたのは分かった。

「 ――― やあ、諸君。今日はとてもいい天気ですね?」

 穏やかな女性の声がした。ハリーは首を回してその人物を視界に入れた ――― 東洋人だ。美人というわけではないが、女性にしては少し背が高く、スラリと細い。肩より上でバッサリ潔く切り揃えられた黒髪の間から、左耳に翡翠色のピアスが見える。パンツスーツを着ているので、ローブを着た人々でいっぱいのダイアゴン横丁ではかなり浮いていた。

 向けられる様々な視線を気にせずニヤリと笑って、女性は話を続けた。

「なんとも絶好の買い物日和じゃないか。好かないムカつく陰気な性悪野郎を吹っ飛ばしたことで、気分も晴れた。実に気分がいい。フェリックス・フェリシスを飲んだかのような清々しい気分……素敵だね」

 フェリ……何だって? いったい何だろう? というか、そもそもこの人は誰なのだろうか?

 とても晴れやかな表情でつらつら語る女性を前にして、ハリーの頭のなかが疑問でいっぱいになっていると、女性のかなり前方から、地を這うような低い声がした。

「 ――― ナツメ・ヨシノ……」

 女性に吹き飛ばされたらしいマルフォイ氏が、やっとのことで起き上がっていた。怒りからか屈辱からか、体は小刻みに震えている。しかし、髪の毛は乱れ、ローブは土埃で汚れ、ほかにもいろいろ残念なことになっているため、あまり迫力はない。

「おや……これは、お久しぶりです、マルフォイ先輩」

 ミセス・ヨシノはさも驚いたような仕草をしたあと、爽やかに笑って言ってみせた。だが、声には明らかに皮肉が込められている。

「先輩ともあろう立派で高貴な御方が、こんな庶民的な場所にいるとは驚きましたね ――― ついうっかり足が出るくらいに」

 フレッドとジョージがウィーズリーおじさんの後ろで吹き出した。

 ハリーはミセス・ヨシノを見上げた。この人がマルフォイ氏を蹴り飛ばした……本当に? どこにでもいるような、大人しそうな人なのに……人は見かけによらない。

 じっと見ていると、不意にミセス・ヨシノが顔から一切の表情を消した。その一瞬での豹変ぶりに、ハリーの背筋が凍る。ロンとハーマイオニーが一歩後退り、息を呑んだジニーをウィーズリー氏が背後に庇う。双子も笑うのをやめた。

 一瞬でその場の空気を変えたミセス・ヨシノは、マルフォイ氏の方へ一歩踏み出した。

「つうか何? なんで私の前にいるんだ? あのとき、二度と私の世界に踏み込んでくるなって言ったのに。あれ、視界にも入ってくるなよこのカスが、という意味を込めてたんだが、分からなかったのか? それとも分かった上で私の前に現れたのか? また投げ飛ばされたいのか? 蹴り飛ばされたいのか? 鼻折られたいのか? 毒盛られたいのか? いっそ腕か足か肋骨でも折ってやろうか? ついでに杖も折るがな。それで、お前は馬鹿か? 性懲りもなくノコノコやってきて……私が笑顔で迎えるとでも思ったのか? 手酷く痛めつけられる可能性は考えなかったのか? ああ、ひょっとして、むしろ痛めつけてもらいたくて来たとか? 何だお前、巷〔ちまた〕で言うマゾって奴か? 引くんだが。でもお望みとあらばやってやらなくもない。どうする?」

 誰にも口を挟ませずに一息でそれだけ言い切ったミセス・ヨシノは、穏やかに微笑んだ。

 その人畜無害そうな笑顔を前に、沈黙が降りた。誰も口を開かない。マルフォイ氏はミセス・ヨシノを睨んではいたが、何も言わなかった。ミセス・ヨシノが溜め息をついて再び一歩前に出たとき、声が割り込んできた。今度は女の子の声だった。

「 ――― 母さん? 本買えました……けど……」

 その場に流れている不穏な空気に、リン・ヨシノの声は固まった。何度も瞬きをして、母親と、彼女と対峙している(ボロボロな)マルフォイ氏を見比べ、リンはサッと顔を青くした。

「母さん、まさか、他人に手を上げたんですか?」

「手じゃない、足だ。それに赤の他人ってわけでもない」

「そういう問題では……っ」

「うるさい。邪魔。鬱陶しい」

 慌てて駆け寄るリンを突き飛ばすかのように乱暴に押しのけ ――― 大量の本を抱えていたリンはバランスが上手く取れずに倒れかけたが、双子に危うく抱き留められた ――― ミセス・ヨシノは無表情のまま、さらにマルフォイ氏に近寄る。

 マルフォイ氏が勇敢にも一歩前に出て身構えたときだった。

「 ――― おまえさんら、何やっちょる!」

 突然大きな声がして、一人を除いてみんな飛び上がった(ミセス・ヨシノだけは平然と、しかし忌々しげに眉根を寄せて舌打ちをした)。ハグリッドが本の山と人の波を掻き分けてやってくる。

「年甲斐もなく喧嘩か? え? やめんか、みっともねえ」

「お前には言われたくない言葉だ」

 ミセス・ヨシノが冷たくハグリッドに吐き捨てた。リンがジョージの腕のなかで「母さん!」と叫んだ。これにはハリーたちも憤った。マルフォイ親子はどうされても構わないが、ハグリッドが暴言を言われるのは許せない。

 全員に睨まれても、ミセス・ヨシノはまったく動じなかった。鬱陶しいとでも言いたげにリンを一瞥して(リンが肩を跳ねさせた)、マルフォイ氏に向かってぞっとするような凄惨な笑みを浮かべる。

「さっさと失せたほうが身のためだぞ? 可愛い息子に、泣いてる情けない姿なんか見せたくないだろう……?」

 視線を向けられ、ドラコは「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。もともと青白い顔が今や蝋燭みたいな色になっている。ミセス・ヨシノはせせら笑った。

「私の息子に ――― 危害を ――― 加えるな」

 マルフォイ氏が低く唸り、急いでドラコを引き寄せて背中に庇う。怒りか、はたまた恐怖からか、言葉は震えて途切れ途切れだった。

 未だに持っていた古本をジニーに突き返し、鼻で笑うミセス・ヨシノを睨みつけたあと、マルフォイ氏は乱暴に人混みを掻き分けて書店を出ていった。


→ (3)

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ごめんルシウスさん超がんばってごめん
 
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