日本という小さな島国。とある森の中にひっそりと建っている小綺麗な家で、由乃 凛は目を覚ました。

 窓から入ってくる朝日の光を眩しく思いながら、何度か瞬きをして、横を向いて時計を見る。六時だった。そろそろ起きなければならない。

 凛は起き上がって身体を伸ばしたあとベッドから降り、窓のそばまで歩いていってカーテンを開ける。綺麗に澄み渡った空が見える。いい天気だ。機嫌をよくした凛は、まだ寝ている相棒を起こさないように静かに部屋を出た。

 凛の朝は規則的だ。身支度を簡単に整えたあと、庭にある鶏小屋へ向かい鶏たちに餌をやって生みたての卵をもらい、帰りに郵便物を回収し、それらをリビングのテーブルの上に置き、小さなジョウロに水を入れて一回部屋へ戻り、窓際の小机の上に置かれた鉢植えの植物に水をやりつつ生長に問題がないか調べる。

「……今日も異常はなし」

 満足気に微笑んだ凛は、そのまま葉を撫で、目を細めた。

 この植物(何という植物なのか凛はまだ知らない)と凛専用の書斎 ――― 母が書斎を共有してくれないため、面倒だったが作ることにした ――― にある膨大な量の本は、贈り物だ。夏休みが始まって数日後にダンブルドアが届けてくれた……もう二度と会うことのできない「彼」からの贈り物だと言って。

 ゆっくりと慈しむように植物を撫でたあと、凛は立ち上がり、部屋を出ていった。



 自室から出てきた凛は、朝食を作りにかかった。ご飯に味噌汁、焼き魚、ほうれん草のお浸し。日本の典型的なメニューだ。食事が出来上がったところで、凛はまたもやリビングをあとにして、ある場所へと向かった。

 廊下の端にある階段を下り、地下の薄暗い廊下を進む。不気味な雰囲気満点だが、凛は特に怖がる素振りも見せない。肝が据わっているとかそういうのではなく、単純に慣れだ。

「…………」

 あるドアの前で立ち止まった凛は、深呼吸をした。吸って、吐いて。何度か繰り返したあと、凛は意を決して、ドアに ――― 正確には、その向こうにいる人物に声をかけた。

「おはようございます、母さん。あの、朝ご飯、用意できましたけど、お食べになられますか?」

 沈黙が流れた。どこか重く感じられるような沈黙だ。凛は辛抱強く返事を待った。返事を待たずに勝手に判断してはいけないし、早く返事をするよう催促してもいけないということを、凛はしっかり分かっている。

 夏芽は、気紛れというか気難しいというか、自分の世界で生きている。そのため、急かされたり、止められたり、あれこれ指図されたりするのを ――― つまり必要以上に干渉されることを、嫌う。とくに、なかなか返答をしないことについて文句を言われることを、もっとも嫌悪している。

 思うところがあったりほかのことをやっていたいと思っていたりするだけで、べつに聞こえていないわけでも相手を馬鹿にしているわけでもない……それなのに相手からいろいろと非難されることに、苛立つのだ。

 だから、応答しろと急かしてはいけない。彼女に関しては、まさに「急〔せ〕いては事を過つ」「急いては事を仕損じる」なのだ。

 どうでもいいが、何かに集中しているときに、周りの声(音)をしっかり聞いて、内容を理解して記憶しているって、よく考えたら、実はとんでもなく凄いことではないだろうか……。凛がそんなことを思ったとき、ドアの向こうで誰かが身じろぎする気配がした。

「………今から行く」

「っ! 分かりました、準備して待ってますっ」

 パッと表情を明るくして、凛はドア越しに軽くお辞儀をして、急いで一階に戻った。心臓が飛び跳ねるように仕事をしている。慌てているからではなく、嬉しいからだ。

 夏芽はいつも研究室に閉じ籠っていて、魔法薬の製造や実験が一段落つくまで出てこないので、食事の時間が不規則だ。そのため、凛が母と朝食を共にするのは実に久しぶりなのだ。

 頬と口元が自然と緩むのを感じながら、凛はリビングに駆け込んで、パタパタと母の食事の準備を始めた。

 朝食を器によそい、テーブルの上に並べたとき、ちょうどリビングのドアが開き、夏芽が欠伸をしながら入ってきた。凛は彼女に微笑みかけた。

「おはようございます、母さん。ご飯、準備できてますよ」

「……ああ」

 気のない返事をして、夏芽はテーブルに着き、もう一度欠伸をしてから、箸を手に取って食事を始める。

 凛がリンゴの皮を剥いていたとき、ドアがまた開いて小さな猿が現れた。こちらも欠伸を噛み殺し損なっている。

「スイ、おはよう」

「うん ――― ふぁ、あ ――― おはよう」

 人間のように挨拶を返し、テーブルの上に座ってコップの水を飲む猿に、誰も何も言わない。この光景も慣れたものだったし、そうでなくても、凛も夏芽も特に反応しなかっただろう。この母娘は、あまり深く物事に関心を示さない。

「今日は、買い物に行くんだったか」

 味噌汁を啜った夏芽が、不意に言った。

「はい」

 ようやく席に着いた凛は、母の言葉に首肯した。一昨日、凛の通うホグワーツ魔法魔術学校から手紙が届いたので、凛は今日、新学期用の新しい教科書などを買うためロンドンのダイアゴン横丁に行くことになっていた。しかし、それがどうかしたのだろうか? 凛は首を傾げて母を見る。夏芽は椀を置いた。

「ちょうど薬の材料をいくつか仕入れたいと思ってたところだ。せっかくだし、ついていってやる」

 だから、どうしてそうも上から目線なんだ。スイは心中で悪態をついたが、その横で凛が嬉しそうに微笑むので、空気をぶち壊さないためにも、悪態をリンゴと一緒に飲み込んだ。


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