夕方が近づいてきた。人々の興奮の高まりが、はっきりと感じ取れる。凪いだ夏の空気さえ、期待で打ち震えているかのようだった。

 夜の帳〔とばり〕がキャンプ場をすっぽり覆うと、最後の自重も吹っ飛んだ。あからさまな魔法の印があちこちで上がる。魔法省はもはやお手上げとばかり、戦うのをやめた。

「リン、出店を見に行かない?」

 名前を呼ばれて、リンは読んでいた本から視線を上げた。カーテンの影からジニーがひょっこりと顔を出している。リンは本を閉じて、仮眠を取っていたスイを起こし、彼女を伴って、ジニーのあとについてテントを出た。

「パパ、リンと一緒に買い物してきていい?」

「女の子二人で? 危ないよ。パパと、」

「いや! リンとデートするのよ!」

「だけど、」

「あたし、もうちっちゃな子供じゃないのよ!」

「…………」

 父娘の言い合いにリンが困惑したとき、男子用テントから出てきたビルが助け舟を出した。

「じゃあ、ジニー、俺とリンと、三人でデートするか?」

 いや。そもそもデートじゃなくて、ただのショッピングだろ。スイの心中におけるツッコミは、誰にも知られることはなかった。



 出店に並ぶ品は、なかなか興味深いものばかりだった。とは言え、リンは光るロゼットくらいしか買わなかったが(しかも負けさせた)。元々あまり物欲がないのだ。そして、不要な出費も好まない。

 ジニーが、踊る三つ葉のクローバーが飾られた緑のとんがり帽子をかぶって、本当に吼えるライオン柄のブルガリアのスカーフを首に巻いて、キャッキャとはしゃいでいる(しかし買う気はないらしい)。

 見本で遊ぶスイとジニー、ビルの背後を、チャーリーと双子というグループが通り過ぎる。疲れたような顔をしているチャーリーを見て、リンは同情の念を感じた。

「わあっ、見て!」

 ジニーが、リンとビルの腕を引っ張った。三人で、真鍮製の双眼鏡のようなものが積んであるカートに駆け寄る。スイも興味津々で双眼鏡の山を覗き込んだ。

「いらっしゃい。世にも珍しい、万眼鏡〔オムニオキュラー〕だよ」

 セールス魔ンが熱心に売り込む。

「アクション再生ができる……それもスローモーションで。必要なら、プレーを一コマずつ静止させることだってできる」

「……へぇ」

 感慨深げに呟いて、リンは一つ手に取った。つまみやダイヤルがびっしりとついている。少しいじって、リンは「万眼鏡」をカートに戻した。

「どうだい? 大安売りだよ。なんたって、一個十ガリオンだ」

「……十ガリオン? 高すぎますね。割に合ってません」

 身を乗り出してニッコリしたセールス魔ンだったが、リンの言葉を聞いて固まった。ビルとジニーも仰天してリンを見る。スイに至ってはポカンと口を開けていた。

「このくらいの性能なら、高く見積もっても……五、六ガリオンってとこですね」

 倍の値を出して買う気にはなれない。あっさり、だがキッパリと言って、リンはジニーを振り返った。だが、立ち去る前にセールス魔ンが声をかけてくる。

「お嬢ちゃん、中国人かい? それとも日本人?」

「………日本人ですが」

 一応答えながらも、それが何かと胡乱〔うろん〕げなリンに、セールス魔ンは笑った。

「いや、なかなかいい鑑定眼と交渉術を持ってるもんだからね。てっきり中国人かと思ったんだが……そうか。日本人か」

 うんうんと、なにやら一人勝手に頷いているセールス魔ンに、リンたちは互いの顔を見合わせる。スイが尻尾を揺らしたとき、セールス魔ンが手を叩いた。

「よし! お嬢ちゃんの目と度胸に免じて、負けよう! 一個五ガリオンでどうだ?」

「そもそも買う気ないんですけど」

 さらりと言うリンの頭を、スイがひっぱたいた。ジニーもリンの腕を掴む。そしてリンの耳元に顔を寄せ、セールス魔ンに聞こえないよう小声でまくし立てる。

「なんで買わないの?! せっかく負けてくれるって言ってるのに!」

「だって、五ガリオンでもまだ少し高いよ」

「だったら、もうちょっと負けさせましょうよ! ね?」

「負けさせるって……別に、そこまで欲しくないし」

「あたしが欲しいの!」

「…………」

 せがむジニーに、ついにリンが折れた。スイが尻尾を揺らして、ビルがクックッと笑う。助け舟は出してくれないのかと、恨めしげに二人を見つめたあと、リンはセールス魔ンに向き合った。


 そのあと、なんだかんだと数分かけて、リンは見事、三個十ガリオンで「万眼鏡」をゲットしたのだった。

 嬉しさのあまり踊るジニーに、驚嘆するビル、疲れた様子のリンとセールス魔ン。その中で、スイが「この子ホントに何者だよ」と遠い目をしたのは、誰も知らない。


 財布が少しだけ軽くなり、三人はテントに戻った。

 チャーリー、フレッド、ジョージは緑のロゼットを着け、ウィーズリー氏はアイルランド国旗を持っていた。パーシーは何も買わなかったらしい。相変わらずだと、スイは呆れたように尻尾を揺らした。

 リンは辺りを見回して首を傾げる。ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人は、まだ帰ってきていないのか。

「三人とも、『万眼鏡』なんて買ったのか?」

 ふとリンたちが首からかけているものを見て、チャーリーが目を丸くした。

「それ、十ガリオンもしただろう」

「それよりうーんと安く買ったわよ。三個で十ガリオン。リンが負けさせてくれたの」

「マジかよ」

 悪戯っぽく笑ったジニーのセリフに、双子が反応した。いったいどうやったんだと、リンに詰め寄ってくる。スイが、リンのパーカーのフードの中へと避難した。

 双子の背後では、チャーリーとビルが「そんなことをさせたのか?」「ジニーがせがんだんだ」「いや止めろよ」「でも、リン、ロゼットも負けさせてたから」「……マジか」などと話している。

 その横では「おまえたち、やめろ。みっともない。いいか。そもそも、値段を負けさせるという行為は……」と、双子に対してかリンに対してか顔をしかめるパーシーに、ジニーが食ってかかるのを、ウィーズリー氏が宥めている。

 誰も助けてくれないのか……恨めしく思いながら、適当に双子をあしらっていると、ようやくハリーたちが帰ってきた。しかし、リンがホッとする間はなかった。

 ジニーの自慢話を聞いたロンが、ものすごい形相でリンに詰め寄ってきたのだ。聞けば彼は、十年分のクリスマス・プレゼントと引き換えに、ハリーに定価で買ってもらったらしい。

 金払ってないくせに文句言うなよ、と思ったリンだが、口には出さないでおいた。さらにまくし立てるロンをどうしようか迷ったが、ハーマイオニーとジニーが、彼を黙らせてくれた。

 一段落ついたとき、どこか森の向こうから、ゴーン……と、深く響く音が聞こえてきた。同時に、木々の間に赤と緑のランタンが灯り、競技場への道を照らし出す。

「いよいよだ ――― さあ、行こう!」

 ウィーズリー氏が声を上げた。子供たちに負けず劣らず、興奮している。何気にこの中で一番落ち着いているのはビルかもしれないと、フードから顔を覗かせたスイは思った。

4-15. ハイテンション・ショッピング

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 中国語の授業を受けていたとき、教授が「中国では、値札通りの金額なんて払わないよ。常に交渉して値切って買うんだよ」と言っていたので。英語の教材にもその記述があったという驚きの事実。

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