無罪が確定したものの、シリウスはいくつか制約をつけられていた。

 しばらくは(特に公共的な)言動が制限されること。マグル界での扱いは、証明方法が通用しないため変えられないこと。そのため、マグル界との不必要な接触は禁じられること。それから ――― ハリー・ポッターと過度な接触を取らないこと。

 魔法省は「両親の仇としてずっとブラックを憎んできたハリー・ポッターには、まだ彼を受け入れる準備が整っていない」など、世間的にはもっともらしい言い訳をつけていたが、要は怖いのだとリンは気づいていた。

 無罪であるにも関わらず、ろくな裁判もされずにアズカバンに投獄された ――― そんな名付け親と親密に関わって、マグル界で育ってきた「生き残った男の子」が、魔法省、引いては魔法界に対してどんな印象を持つか……それを危惧しているだけだ。

 当人たちにとってその措置は逆効果だと気づいていないのが、魔法省の悲劇だ。ハリーは親戚一家と決別するチャンスを奪われ、魔法省を恨めしく思っているし、シリウスの方もしばらく怒り狂っていたらしい(リーマス談)。

 だがシリウスは、ナツメが失踪したと聞くや否や、リンの面倒を見たいと言い出した。純粋に血縁者としての感慨を抱いたのか、単にハリーの代わりとしているのか、リンには分からない。

 とりあえず、その申し出がなんとかヨシノ家に受け入れられ、リンが意思確認を受けたあと、リーマスも含めて三人(プラス、スイ)での生活が始まったのである。ちなみに家は、リンの叔父のアキヒトが用意してくれた。

 ヨシノ家の許可を取るまでが大変だったと聞くが、いったいそこで何が起こったのか……誰も教えてくれないので、リンには分からない。

 そこまで考えたところで、朝食が出来上がった。リンは、考え事をしながら他事ができるという特技にちょっとだけ感謝した。でなければ、きっと悲惨なことになっていただろう。

 こんがりキツネ色に焼けたトーストにバターを小さじ一杯分のせ、ベーコンエッグとサラダと一緒に皿にのせる。なんとなく気分でコンソメ味に決定したスープと、ヨーグルトをかけたフルーツと合わせて、三人分トレイに用意した。

 それらを順番にダイニングテーブルまで持っていったところで、リビングのドアが開いた。そちらに顔を向けて、リンは微笑んだ。

「おはよう、スイ、シリウス。ちょうど朝ご飯できたとこだよ」

 なんともタイミングがいいなと笑っていると、シリウスが大股でリンに近づき、彼女を抱きしめようとして、空振った。素早く身を引いたリンが、呆れ顔でシリウスを見上げる。

「ご飯が台無しになったらどうするの?」

「………」

「待っててもむだ。トレイ置いたあともだめ。ご飯は冷めないうちに食べたいから。ほら、シリウス、早く座って」

「………」

 物寂しそうな顔をするシリウスを、リンはトレイをテーブルに置きながら容赦なく追い立てる。その様子を見て、スイとリーマスは笑いそうになるのを堪えた。なんとも慣れた調子である。最初の頃のリンは、されるがままにスキンシップを受け、ただただ顔を赤くしていたというのに。

 だが、リンは完全に慣れたわけではない。その証拠に、リンの言葉を無視したシリウスが後ろから強引に彼女を抱きしめると、リンの頬が一気に染まり、身体も硬直した。

 それを見た途端、スイもリーマスも、当初のリンを懐かしく思い返して笑うのをやめた。スイは眉を吊り上げて、リーマスは静かな表情で、二人 ――― 正確にはシリウスを見つめる。しかし本人はお構いなしだ。

「……ん……リン……」

「……っ?! ………っ、…………っ」

 シリウスが、まさに幸せだと言わんばかりの表情で、リンの頭に顔を寄せ、寝起き特有の掠れ声で囁いた。それにリンの肩が跳ね、頬の色がますます鮮やかになる。口をパクパクと小さく開閉させるリンに気づかず(ひょっとしたら気づいた上で無視しているのかもしれない)、シリウスは腕の力を強め、リンの頭にすり寄る。

 そこら辺にあるラブロマンス映画のワンシーンのような光景に、スイは怒りを通り越して呆れてしまった。もう勝手にやってろといった心情である。溜め息混じりに視線を背けるスイとは反対に、リーマスは彼らを見つめ続け、そして不意にニッコリと微笑んだ。

「……シリウス?」

「すみませんでした」

 まったく笑っていない目を見て、シリウスは即行でリンから離れた。ブラッジャーも驚くような素早さに吃驚しつつも、スイはリーマスから滲み出ている何かに冷や汗をかいた。あの微笑みには逆らってはいけないと、本能的に悟る。

 相棒と血縁者が怯えていることに、リンは気づく余裕がない。ようやく離れた慣れない体温に、心底ホッとしていた。

 赤い頬に白い指先を当てているリンに、リーマスが笑いかける。先ほどとは一八〇度違う笑みだった。スイはますます震撼〔しんかん〕した。

「さて、リン、食べようか。私の正面に来るといい」

 リーマスは穏やかな声音でリンを促した。リンはぎこちなく頷いて、指定された席へと着く。彼女の皿の横に、スイは座った。リンのトレイに置かれていたカットフルーツの皿を取り、食べ始める。

 同じようにリーマスが食事を始めたところで、シリウスが口を開いた。

「……なんで俺のトレイは宙に浮いてるんだ?」

 スイは顔を上げ、ヒョイと尻尾を振った。彼の言う通り、食事がのったトレイが一枚、テーブルから離れて空中に静止している。リンも不思議そうにする。浮遊呪文を行使した人物だけが、シリウスに向かってニッコリ笑っていた。

「君は立ったまま食べたらどうだい?」

「なんでだよ。さてはおまえ、根に持ってやがるな」

「床でもいいよ」

「……い、言っとくけどな、おまえだっていつもリンにやってるじゃねえか。俺はあんまりリンに会えないってのに、おまえは事あるごとに、」

「そうか。シリウスはまだ寝ていたいのか。じゃあ寝室に帰って、そうだな、もう一日くらい寝てくるといいよ。君の分は私がしっかりと食べておこう」

「分かった、俺が悪かった。だから本当に勘弁してくれ」

「最初からそうしていればいいのにね」

 たじろぎ、ついには両手を上げるシリウスに対し、リーマスは笑顔のままだった。スイはなんとなく寒気を感じて、リンの右手にすり寄る。リンはじっとリーマスを見つめていた。

「……リーマスって、時々すごく口が達者になるよね」

「…………」

 そこじゃねえだろ……。心中で呟きながら、スイは脱力した。天然というか鈍感というか、イマイチ状況を理解できていないリンである。重要な場面でしか洞察力を発揮してくれないのかとスイが悲観していると、ようやくシリウスが着席した。

 スイを挟んだ、リンの隣。横を向かなければリンを見ることはできず、しかも向いたところで見えるのはせいぜいリンの横顔。かつ、手を伸ばしてもギリギリでリンには触れられないという、絶妙な位置。言わずもがなリーマスによる指定席だ。

 不満そうなシリウスを見て、スイは尻尾を揺らした。ご愁傷様としか言いようがない。もっとも同情する気はさらさらないのだが。スイの愛しのリンにあれだけベタベタと触れたのだから、当然だと思っている。

 視界に入るシリウスに内心でほくそ笑みながら、スイは、綺麗にスライスされたバナナを口に放り込んだ。

4-3. 一味違った生活
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