未練の正体

呆然とした眼差しで見つめるセシリアの少し冷え切った頬を包み込みながら、彼は続ける。


「だから、貴方には僕と同じ思いをしてほしくない。それに彼が親の仇とはいえ、憎み、恨み、殺してやると、復讐の念に囚われてしまった我が子の姿を望む親がいるはずない。僕だって、彼女だって」


セシリアはしばらく黙り込んでしまった。
じわじわと這い上がってくるのは不思議な感覚。まるで彼が亡き親の言葉を代弁しているかのような。スッと頭に入ってくる説得力。なんとも奇妙な感覚に彼女が何も言えずにいると、「それに復讐なんかよりもずっと大切なことを思い出したんです」と亡霊は口元を綻ばせた。


「貴方が自由になるときまで守り抜く。これが僕がこの世に残した未練」


と言って、セシリアを見つめる彼の目は少し淋しげな目をしていた。セシリアは彼の言葉にハッと目を丸めた。
じんわりと高まってくる胸の奥の温かさ。咄嗟に言葉が出てこない、この現象に名前をつけるとしたら何が良いのだろうか。


「この前も聞いたけれど、どうして、そんなに。なんでそんなにも私のことを守ってくれるんですか……?助けてくれるんですか?」


以前も同じ質問をした際に、「子どもだから。見ていて危なっかしいから」と揶揄われたことをセシリアはよく覚えていた。
きっと、今回もまた同じように交わされてしまうのだろうと思っていた矢先だった。


「この世にたった一つの大切な宝だからですよ」 


慣れた手つきで彼女の頬を撫でる。
伏し目がちだった視線を上げ、セシリアを見つめるなり、柔く口元に弧を描く。

その瞳は紛れもなく、愛する者を見る目だった。
目に入れても痛くない、命に代えても構わない、我が子を見つめる親の目をしていた。


「貴方を脅かすものも邪魔するものもありません。だから、自分が正しいと思う道を慎重に選び、真っ直ぐ進んでください」


―――貴方はもう自由なのですから


その一言でセシリアはそれが何を表しているのか察しがついた。まさかと顔を見上げれば、彼は侘しげな色を浮かべたまま、頷いている。


「つまり、もう、未練は……、未練は晴れたんですか」
「この通り。貴方がこうして無事であることが何よりの証拠だ」
「そうですか……。これでやっと奥さんのところに行けますね。こんなことを言うのはちょっとおかしいかもしれないけれど、よろしくお伝えしておいてください」
「ええ、もちろん」


「良かった。本当に良かった」と繰り返しながら、セシリアは必死に固唾を呑みながら、溢れ出る感情の結晶を引き止める。


「だけど……。だけど、やっぱり、行ってほしく……ない……なぁ……」
「残念ながら、そのご要望にはお応えできませんね」


本当のことを揶揄うようにそう告げる彼にセシリアは、とうとう堪えきれず零してしまった。


―――あれ、なんでだろう。おかしいな。喉の奥がしょっぱいんだろう。目の奥が熱いんだろう


拭いても拭いても溢れてきて、埒があかない。
頬を伝う温かさに戸惑いを隠せないままセシリアは口の中の塩気に咽せながら、かがみ込み、肩を震わせる。


「おや、もう立派な大人になったんじゃなかったんですか?」
「私……、まだ大人じゃない。まだ十五だもん」
「この前言っていたことと矛盾しているじゃないですか。嘘つきはいけませんよ」
「ごめん、なさい。でもっ……だけど」


背丈は変わったが、中身はちっとも変わりしない。月明かりに照らされたその顔には面影が感じられる。
困った人だと彼は軽くため息をつくと、あの日と同じように小さく肩を震わせ、泣きじゃくる彼女をそっと抱き寄せる。そして、幼子をあやすかのように、包み込むように頭を撫でた。


恨みと憎しみの海に呑まれ、必ずや自分たちから幸せを奪った男に復讐を果たすことで身を満たしていたとき、墓地で蹲り、泣いているセシリアと出会った。


そのときになって、ようやく彼は思い出した。
自分には守らなくてはならない存在がいることに。この世にたった一つのの大切な存在すらも、憎悪の念で忘れてしまっていたことに。そして、亡霊になってもなお、この世を彷徨い続けていた理由を。


もっともっと沢山抱きしめてやりたかった。
もっともっと近くで、その温かさを感じたかった。触れたかった。
もっともっとそばにいてやりたかった。見届けてやりたかった。
当たり前の日常、未来を壊したあの晩の出来事が、全て嘘だったらどれほど良かったことか。


亡霊は。ジェイドはそれができない不甲斐ない自分を情けなく思っていると、セシリアが口を開く。


「でも、私、いっぱい助けてもらったのに。ちっとも恩返しらしいことができなかった」
「何を言っているんですか。もう十分すぎるほど僕に沢山の贈りものを与えてくれたじゃありませんか。あの日、貴方と出逢えたことが何よりの素敵な贈りものですよ。ほんの僅かだったけれど、あの日々よりも尊いものはありません」
「私も……。私の方がずっとずっとあなたと出会えて本当によかった」
「おやおや、珍しく対抗的ですね」
「だって、本当のことなんだもん。魔法使いさん。最後に……。最後にちょっとだけ、かっこつけたこと言ってもいいですか?」
「どうぞ」
「私……、この世界の誰よりも魔法使いさんのことが大好き。これからもずっとずーっと」
「僕もですよ。ずっと前から貴方のこと誰よりも大好きでしたよ」


彼の返答にセシリアは安心したかのように、涙を流しながら、くしゃりと笑う。
涙なのか鼻水なのか分からなくなってしまった彼女の顔を見るなり、「目が溶けている」と冗談めかして、拭ってやりながら、彼も笑った。



疲れ果て、眠りについたセシリアを見つめながら、亡霊は夜が明けるときを待っていた。


―――ようやく、貴方の元へ行けますね


白んだ東の空を見つめながら、心の中で呟く。

幸せそうに眠るその顔は幼い頃から少しも変わらない。
愛おしそうな目つきで柔らかな髪に触れ、頬を撫でる。


「どこにいようとも愛している、シエラ」


そう言って、ベッドに横たわる彼女の額にそっと口付けを施した。



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