昔の夢を見た。まだ十になるかならないかくらいの頃の。すぐ隣には祖父がいて、目の前には上品そうな身なりの女の人。
「ほら、シーナ、挨拶しなさい」
ぽんと私の背を叩き、挨拶をするよう促す。
「シーナ・ウェドバーです。よろしくお願いします、お、奥さま」
「あらまあ、可愛らしいこと。この前会った時はまだ赤ん坊だったのにもうこんなに大きくなっちゃって。確かうちの子達と同い歳だったわよね?」
「ええ。お二人が御生まれになられてから、ちょうどふた月後にこの子が」
「そうなの……。早いものねぇ。ところでこの前、診てくれた庭の木のことなのだけど―――」
「ああ、それでしたら。今度また診ておきますよ。そういえば、あのときも―――」
頭の上で飛び交う大人たちの会話にこれは長丁場になると心の中で小さくため息をついた。さっさと家に帰り、夕方から始まる再放送のアニメを見るためにテレビの前を陣取りたいのに。ああ、もう三十分も切っている。
痺れを切らした私は視線を送ったり、袖を掴むなどして、さりげなく、祖父に合図を送るものの、「大人しくしてなさい」「静かにしなさい」と注意され終わる始末。
ちぇっ、もう知らない。
プイッと頬を膨らませ、そっぽを向いていると奥さまの後ろにある柱からちょうど自分と同い歳くらいの男の子たちが覗いているのが見えた。
驚いたことに二人とも顔がそっくり。ひょっとして、ドッペルゲンガーなんじゃないか。ドッペルゲンガーの二人組はニコリと笑うことも話しかけることもなく、こちらをジイっと見つめてくる。
なんか嫌な感じ。無視しても良かったが、変に頑固で負けん気の強かった私は彼らを見つめ返してやった。彼らと同様、表情筋一つたりとも緩まさず、堅く口を閉じたままで。そうしてしばらく見つめ合いっこを続けていると、こちらに気がついた奥さまが「あら」と声を上げた。
「なんか視線を感じると思ったら、貴方たちだったのね。もう、そんなところで突っ立っていないで、こっちに来なさいな」
「ほらほら」と奥さまに手招きをされ、二人は渋々といった様子でこちらに向かってくる。いや、向かってくると言うよりかは、一人の子がもう一人の子の手を引いてやって来たと言ったほうが正しい。
双子だ。パッと見は二人ともよく似ているが、よく見みてみると微妙に違う。
そして、誰にも言われていないのにもかかわらず、自己紹介をした。
彼らは奥さまの息子さんだった。
切れ長な目つきをした子はジェイドといった。丁寧な言葉遣いと振る舞いでいかにも名家の御子息といったところか。少し垂れた目つきをした子はフロイド。前者と比べるとやや砕けた印象を受けたが、初対面の相手にも臆することなく、慣れた様子で自己紹介をした点から彼もまた名家の名に恥じることがないようきちんとしつけられたことが窺える。
名前は聞いたことがあった。
両親や祖父母の会話の中で彼らの名前を聞いたことが何度か。そして、もう一つ。二人の名前を口にするとき、決まってこう呼ぶ。
「シーナ・ウェドバーと申します。どうぞよろしくお願いします。ジェイドさま、フロイドさま」
彼らほどではないけれど、自分なりに精一杯、礼儀正しく挨拶をする。が、二人はどこか腑に落ちない様子で互いに顔を見合わせていた。そして、垂れ目の子が口を開いた。
「何その呼び方。なんつーか、すげぇ気持ち悪い」
「え。だけど、みんなそうやって……」
「同い年の人にもそうやって呼ばれるのは少々、むず痒い気がしまして」
両親、祖父母共にそう呼んでいたものだから、てっきりそれが正しいかと思って口にしたことが真っ向面から否定されてしまった。
えっ?と豆鉄砲を喰らったハトのような顔をしているであろう私に対し、二人は自分たちのことを呼び捨てで呼ぶよう求めてきた。本当にそんな風に呼んでしまっていいのだろうかと戸惑いはあったものの、内向的な性格が邪魔して、友達の少なかった私はそれがとても嬉しくて仕方がなかった。いいの?と恐る恐る見つめれば、彼らは勿論だと言わんばかりの笑顔を向けてくれる。
「……うん!よろしくね、ジェイド!フロイド!」
「これ、シーナ!将来、お仕えする身になるというのに、呼び捨てなど!」
「まあまあ、そんなに怒らないでくださいな」
「しかし……」
「ねージェイド。早く部屋に戻って決着つけようよ」
「そうでしたね。一階から話し声が聞こえるからと中断していたのですね。貴方もやりますか?」
「え、いいの?でも、私ゲームとかよくわからないよ?」
「勿論ですとも。ルールはちゃんと説明致しますから、ご心配なさらず」
ほら早く!とフロイドに手を取られ、転びそうにながらも、階段を駆け上がった。
双子の兄弟は本当に不思議な人達であった。
貴族というのはどれもこれも傲慢で横柄で。権力と暴力を振りかざしてあれをしろこれをしろと無理難題を押し付けてくる輩ばかり。私が今まで見てきた名家と呼ばれる人達はみんなそうだった。なのに、この二人ときたら、名家の人間だというのにもかかわらず、ちっともその名を鼻にかけることなく、対等の立場で接してくれる。
年月を共に過ごし、私たちは十七歳になっていた。
私のような使用人の子供ならば、とっくに働いている歳なのだが、これからの時代は女子も学問を身につけるべきだと奥さまの方針もあり、私はミドルスクールを出た後も地元の高等学校に通いながら、住み込みで使用人として働いていた。
二人はというと、遠くの街にある全寮制の学校に通っていた。バケーションになると必ず帰ってきて、顔を出してくれる。つい数年前までは、私と大して変わらなかった背丈はいつの間にかうんと伸び、少し首を傾けないと目を合わせられないほどになってしまった。
「あれ?シーナ……なんか縮んだんじゃね?」
「キミたちが大きくなっただけです!失礼ね」
「ふふ。ちょうどいいサイズで僕は好きですよ」
「ジェイドが言うんだったら、まあ……」
「シーナって、ホント、ジェイドのことの好きだよねぇ。付き合っちゃえば?」
「そ、そんな、変なこと言わないでよ」
フロイドの言う通り。私はジェイドに恋をしていた。
物腰が柔らかくて、優しくて、まるで童話に夢見た王子様。
と、思うと同時にひどい罪悪感を抱いた。
身分も違う私が公爵家の跡取り息子に好意を寄せてしまうだなんて。
「お前も大きくなったら、あのお屋敷の使用人としてお使いになるんだよ」と幼い頃から言い聞かされて育った私には誰かを好きになる権利なんてものはないと思っていた。ましてや、うんと身分の高い相手のことを好きになるなんて、なんて罰当たりなことなのだろう。
でも、どうしても私はこの気持ちを抑えることができなかったり。なら、せめて。せめて、この想いだけでも伝えて、潔く諦めよう。勇気を振り絞って、思い切って告白した。賭けだった。捨て身の思いだった。最初で最後の大告白。もう、恋なんてしない。これっきりで忘れてしまおう。
だけど、彼の口から出たのは意外という単語で片付けて良いものではなかった。彼も私のことが好きだと言ったのだ。
しばらく頭が働かなかった。
使用人の娘の私が?名家の出でもない私のことが?高貴な身分である彼が。そんな馬鹿なことが……。
ぐるぐると疑問の渦潮を巻いていると、彼の方から口を開いた。
「使用人の娘だろうが公爵令嬢だろうが関係ない。好きになった相手が貴方だっただけの話だ」
貴方だってそうでしょう?といつものような優しい目ではなく、凛とした真剣な眼差しで尋ねてくる。その目は本気だった。心の底からそう思っているのだと確信した。その途端、胸の奥がじゅわっと熱くなり、鼻の奥がツンと痛くなった。目尻から目頭から零れ落ちる涙は甘い味がした。
◆◇◆
「緊張していますか?」
「ううん、と言ったら嘘になっちゃう。やっぱり、ちょっと怖い。こんな上流階級の人たちばかりがいるところ、初めてだもの」
「ふふ。さっきの貴方の豪快な歩き方ときたら」
「もう、笑わないでよ。慣れない靴を履いているんだから仕方ないでしょ」
「失礼。それもそうですね。気を取り直して、僕と一曲お付き合い願えませんか?」
「……笑わない?」
「ご安心下さい。エスコートいたしますよ」
気ごちない私の手を彼の手が優しく包み込む。
生まれて初めての豪華客船でのパーティー。装飾、料理、乗客。見るもの全て、感じるもの全てが煌めいていて、とても夢見心地だった。ずっと。ずっと、この時間が続けば良かったのに。
沈んでいく船尾。星空を貫く船首。明かりは消え、至るところから、黒煙やら重油やら吐き出している。
洋上の女神と呼ばれた客船の姿はどこにもなく、海に沈みゆく鉄の塊があるのみ。
簡素なボートの上から見た景色は地獄絵図だった。
ねえ、どこ?どこに行っちゃったの?黒く冷たい海に飛び込もうとすれば、後ろから沢山の手が伸びてくる。
物凄い剣幕で怒鳴り散らしてくる船員。哀れんだ目を向ける毛皮を纏った貴婦人。どこか怯えた様子で母親に抱きつく小さな子供。
聞こえない。何を言っているの。邪魔をしないでよ。引っ張らないでよ。あの人のところにいかせてよ。お願い……、お願いだから……!
全身全霊を込めた悲痛な叫びは届くことなく、やがて、姿を変え、涙に。その涙は舌を窄めたくなるほど塩辛い味がした。
もう、大丈夫。何が大丈夫だ。
必ず、戻るから。嘘、来なかったじゃない。
どんなことがあろうとも絶対に生きるんだ。あの人がいない世界でどう生きろと言うの。何を見出せばいいの。
あの日以来、心にささくれが増えていった。
あのとき、死ぬべきだったのは私なんだ。無理矢理にでも残るべきだったんだ。私が代わりにあの暗い海に呑まれるべきだったんだ。私は思う。きっとこれは、身の程を知らなかった私に対する天罰なのだと。
夢から覚めるといつも思う。ああ、また息苦しい朝がやって来たと。カーテンを開け、東の空に滲む朝焼けを睨みながら。