渡すものは渡したからもういいだろう。
仕事を終え、一安心し、私は荷車を手にさっさとその場から立ち去ろうとした途端、あの、と呼び止められた。


「この後、お時間があるようでしたら、モストロ・ラウンジでお茶などいかがでしょう?」
「サラッと店の宣伝してくるねえ……うん、でも、たまには外食もいいかも。どうせなら、そこで晩御飯も食べちゃおうかっな」


◆◇◆


「ここが……例のモストロ・ラウンジですか……」


そこらにある水族館が可哀想に思えてくる水槽には宝石のような色とりどりな小魚やサンゴ。彼らは水槽という紛い物の海とは知らずに不自由なダンスフロアを悠々と泳いでいる。

天井からぶら下げられたシャンデリアはどことなくクラゲを彷彿とさせるデザインだ。そして、今私が座っているソファ。素人の目から見てもわかる。これは絶対高いやつだ。

店内の家具やらデザインやら。とてもじゃないが、高校生が働く店じゃない。しかも、支配人も高校生と知った途端、何の言葉も出てこなかった。

最近の高校生ってどうなっているの。ちょっともう、ついていけない。
時代の流れというやつか……とジェネレーションギャップなるものを感じているといつもの胡散臭い笑顔を浮かべた彼が料理は口に合ったかと尋ねてきた。


「あ、うん。すごく美味しいよ、とっても」
「それは良かった。お気に召したようで何よりです」


少々素っ気ない返事をしてしまったが、もちろん料理は美味しい。久々の外食だからとかお世辞だとかそういったもの関係なく、純粋に心の底から美味しいと感じた。ただ、場違い極まりない店内の洒落た雰囲気に圧巻され、まともに頭が動かなかっただけなのだ。

リーチくんを含め、ここで働いているバイトの子たちからしたら、私はどんな風に映っているのだろうか。きっと、たかが、水槽のあるレストラン如きで、縮こまっている滑稽な大人として見られているんだろうなぁ……。

まあ、でもいいや。縮こまったのは事実だし。別にここにいる高校生たちと顔を合わせるのは今夜っきりなんだし。

そう開き直った途端、気の緩みと同時に自然が私を呼ぶ声が聞こえてきた。そういえば、昼に行ったきりだったな。

手洗いの場所を尋ねれば、突き当たりを曲がってすぐだと教えてくれた。が、ここが男子校であることを思い出し、まさか立って用を足さなきゃいけないのかと不安がよぎったが、そんな私の心情を察したかのように、ご丁寧に女性用もあると付け加えてくれた。

君はテレパスか!なんて思いながら、ソファから立ち上がり、教えてもらった方へと足を運ぼうとした途端、暗くて気づかなかった段差に足を蹴躓かせ、すっ転びそうになる。

ああ、この間抜け!

咄嗟に体勢を整えようとしたってもう遅い。次に来るであろうと衝撃に思わず目を瞑るが、不思議なことにいつまで経ってもその衝撃が来ない。頭の中が疑問符で埋め尽くされていくと同時に温かく、柔らかなものに包まれているような気がした。心なしか、ふんわりと漂う落ち着く香り。気がついたときには彼の腕の中にいた。
「お怪我はありませんか?」と尋ねてくる声でさえも右から左へと流れて行くほどまでに私は呆然としてしまった。

この感じ……。まるで……。


「……あ、うん、大丈夫。ごめん」


ゆっくりと後ずさっていく。

ようやく、我に帰ったものの、年下にもたれてしまった申し訳なさと恥ずかしさでまたしても言葉がまともに出てこない。しかも、彼がいた所からここまで、まあまあ離れていたのに一瞬にして現れたものだから、驚きだ。


「すみません。段差があることを伝え忘れてしまい」
「こっちこそ、よく足元も見ずにぼけっとしていたもんだから……っ!」


後ずさりをしすぎて、今度は椅子の角に脹脛の後ろをぶつけ、形容しようにもしがたい痛みが走り、声が喉の奥に引っ込んだ。


「危なっかしい人だ」


そんな私を見て、彼はクスクスと笑う。
目を細め、手で口を隠して笑う姿は優美たるものであった。でも、そんなに笑わなくたっていいじゃない。するとこちら心の声が届いたのか、ぴたりと笑うのをやめると、今度は慣れた様子で私に手を差し出した。


「お手をどうぞ。ご案内いたしますよ」


ひび割れて、色褪せていた思い出が美しく鮮明に修正されていく。

紺碧の洋上に浮かぶ客船で夜通し繰り広げられるダンスパーティー。上流階級の戯れごとに手も足も出ず、煌びやかな舞台の端っこで、ただ時が過ぎるのを待っていた私にあの人はちょっと揶揄うように気取った感じに、こう言うのだ。


“僕と一曲、お付き合い願えませんか?”


穏やかな微笑を口元に添え、淑やかに手を差し出す姿が過去と現在で重なって見えた。思わず、その手を取ろうとしたとき、突然、厨房のドアが勢いよく開き、背の高い人物がこちら目掛けてやって来た。


「ストックがくそキノコだらけなんだけど!コレ絶対、お前のせいだろ」
「不思議なこともあるんですね。立派なブナシメジがこれほどまで増殖するとは」
「とぼけやがって」
「フロイド……?」


その名前を口にした途端、彼とそっくりな顔がこちらを振り向いた。その顔は彼だけでなく、記憶の中の人物とも瓜二つだった。見た目も声も風貌も。何もかもがそっくりそのままに。

こんなことってあるの……?
あの人だけじゃなくて、彼の兄弟にそっくりな人が現れるだなんて。


あの人の兄弟によく似た青年は眉間にしわを寄せ、舐め回すようにこちらをジロジロと見つめてくる。一通り、見終わると、不機嫌だった表情が一変。好奇心の色を浮かべ、馴れ馴れしい口調で語りかけてきた。


「へぇ、アンタ、オレの名前知ってんだ」


なんで?と尋ねられる。なんで?そんなもの私が聞きたい。
返事に困った私は、知り合いかと思って話しかけてしまったと即興で言い訳を作り上げ、難を逃れようとした。だが、彼はなかなか諦めてはくれず、左右で異なる目でこちらを見下ろし続けていた。


「ふーん、あっそ。どうでもいいけど」


ようやく解放された。良かったと安堵する私にリーチくんは、彼が双子の兄弟だと紹介してくれた。そして、名前はフロイドだと。こちらも適当に自己紹介をすると、フロイドくんは「知ってるー、水曜だけのジェイドの番でしょ」ととんでもないことを言い出してきたので、その口を洗濯バサミで閉じてやろうかと思った。



◆◇◆



閉店後の店内でその日の集計作業を行う中、飽きてしまったのか書類から顔を上げたフロイドがぽつりと口を開いた。


「驚いた。まさか本当に生きていたなんてさ」
「言った通りだったでしょう?彼女だと」
「正直疑ってた。どうせ、ジェイドの希望的観測だろって」
「信じていただけたようで何より」

偶然の連鎖



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