約束の金曜日。
昼食のハムサンドと牛乳を食べ終わると、届いた苗に傷みがないか一つ一つ丁寧に確認したのち、店の戸締りをし、丘の上に佇む古城を目指す。頑丈で厳格な雰囲気を奏でる門をくぐれば、外とは違う世界が広がっていた。
さすが名門校と称されるだけある。学園内の施設もピカイチ。
風の噂で聞いたので絶対だという保証はできないが、学費は年にうん百万にも及ぶとか。
「要するにお坊ちゃん学校ってわけか」
なんて貧乏人が言うような皮肉った言い方をしながら、しばらく歩いていると、待ち合わせの温室の屋根が見えてきた。
押していた荷車を置き、ガラス張りの扉を押せば、不愉快とも愉快とも言い難い植物独特の香りと僅かに湿った空気に出迎えられる。
見慣れない植物たちを前に立ち止まりたい衝動に駆られながらも、進んでいくと、見飽きた後ろ姿が座っているが見えた。
「ほらほら、約束通り持って来たよー……」
近づいてみると、そこにはいつものように制服ではなく、実験で使うような白衣を見に纏い、上品な寝息を立てるリーチくんの姿が。
本当に眠ってしまっているのだろうかと子供のような好奇心が働き、息を殺して、まじまじと見つめるが、ゆったりと上下する肩以外何も動いていないことから、完全に熟睡していることがわかった。
ナイトレイブンカレッジがどんな教育方針を取っているかわからない。だが、名門と名を轟かせるだけあり、そっちゃそこらの学校とは違い、テスト前に勉強すれば平均点は取れるような生温いものではないだろう。
きっと、えげつない量の課題と目にも止まらぬ速さで進められる授業。それに加え、ラウンジの仕事……。早く渡したいのは山々だけど今はゆっくり寝させてあげよう。
静かに椅子を引き、座る。
それにしても、頬杖もつかずに腕を組んだだけでよくもまぁ器用に眠れるもんだ。私だったら、間違いなく、がくんがくんと首を遊ばせては痛めてしまう。いけない。想像しただけでも痛くなってきた。
あの嫌な感覚を何とか忘れようと彼の顔をぼうっと見つめる。焼けを知らない白肌。触れたら儚く散ってしまいそうな睫毛。
歪みなく通った鼻に穏やか口元。閉じてしまっていて見えないが、映したものの本質を見透かすような切れ長の瞳。
「―――……ジェイド」
辛いから。思い出してしまうから。
言わないようにと喉の奥にしまっておいた名前がポタリと溢れ、それを皮切りに目の奥のほうで熱が渦巻いていく。
ああ、嫌だな。頑張って押し殺していたのに。
ちょっとでも気を緩めたら、溢れ出そうな温かいソレを出させまいと瞼で蓋をし、深く息を吐いていると突然声をかけられる。心臓が口から飛び出るかと思った。
「もう、びっくりした。起きてるんだったら言ってよ」
「すみません。貴女の横顔に見惚れてしまいまして」
くつくつと笑う。愉快犯という言葉が似合うまでに。
言った相手が私で良かったよ。
今時、そんなことを同世代の女の子にでも言ってみろ。間違いなくドン引かれるぞ。
「そういえば、さっき僕のことを呼んでいましたよね?いつものように苗字ではなく、上の名前で」
「ああ、あれ?あまりにも爆睡しているから、お母さんが子供を起こすように上の名前で呼んでやれば起きるかなーって思ってやっただけ」
見苦しくも、即興で作り上げた嘘で取り繕う。
勘の良い彼のことだから、何かしら食い付いてくるかと思ったが、特に怪しむ様子はなく、「そうですか」と一言。
なんとかやり過ごすことができたと安堵する一方で、嘘をついてしまったことに僅かながら罪悪の念を抱いた。普段綺麗事を言う性分ではないが、人としての価値が下がったような、そんな気がしたのだ。
だけど、言えるはずがない。あの人と重ねてしまったなんて。
「ついに苗字呼びから名前呼びに昇格ですか……。貴女の中で、特別な存在というカテゴリーに分類されたかと思うと胸が高まります」
「いや、全然そういうのじゃないから。どうしてそういう変な方向に考えるかな」
「なんなら、これを機に名前で呼んでいただいても構いませんよ?」
「何を言っているの」
こちらの言葉にはいっさい耳を傾けずといった様子で次から次へと投げられてくるからかいの言葉を無視という名の盾で跳ね返す。
「はいはい、おばさんを口説くのはおしまい。この前言っていた約束の品、持ってきたよ」
傍らに置いた荷車の持ち手をコンコンと叩く。
すると、さっきまで、ロマンチシスト顔負けなことを平気で言っていた彼が瞬く間に目の色を変えた。
怪しげで良からぬ好奇心を含んだ瞳ではなく、純朴で澄んだ瞳で「開けても良いですか?」と詰め寄られ、その迫力に押され、「お、おお……どうぞ……」と答える他なかった。
苗を見ては感嘆の声を上げていく彼に、いや、そんなに驚くほどのものじゃ……と口にしようとしたが、海で生まれ育った人魚の彼にとってはこちらの世界にあるものはどんなに些細なものでも珍しく感じるものなのだろう。
それにしても、意外だ。普段あんなに年齢不相応な気味が悪いくらいに落ち着いている彼がこんなに感情を剥き出しにするなんて。
キラキラと幼子のように瞳を輝かせるその姿に、不覚にも可愛らしいなぁと思ってしまった。