日常

「ごめんね〜もうすぐ終わるからね〜」

うわぁぁぁ!と号泣する子供の声が病院に響く。嫌がって思わず振りほどこうと上がってくる手を母親に抑えさせ、口の中に溜まった唾液をバキュームで吸うと号泣で浮いてきた開口器に気づかなかった時雨の指を口を閉じようと必死の子供が全力で噛んでくる。カツンと外れた開口器が診療室の床に落ち、時雨は片手で子供の奥歯に添えるように手を入れると、無理矢理隙間を作る

「ーーーッマキちゃん!新しい開口器」

素早くその隙間に開口器をねじ込んでもらうと、親指でそれを奥に押し込む。

「もうちょとだよー。もう痛いこと終わったからね、ほら、カバさんのお口」

診療を再開するとやめてもらえないと思った子供が激しくかぶりを振る。
マキが素早く子供の頭を抑える。
母親の心配そうな顔に気遣う余裕がない。もう一時間以上こうして続けている。それでも今日やらなければ虫歯は骨に広がってしまう。
時雨の額にはうっすら汗がにじんでいた。






歯科恐怖症の子供にとっても体力の消耗の激しい戦いだ。汗でぐっしょりと濡れてしまった服を母親が着替えさせている間に次の予約を取る。ここの先生はお薬を使って大人しく診療をさせてくれるって聞いたんですけど…と零した母親に、まだ2歳のこの子には無理です。とぴしゃりと行ってしまった。
しまったと思って親子を見ると、まだ嗚咽しているが子供はじっと無影灯に引っ掛けられたエイのぬいぐるみを見つめている。

「あ………孝一くん今日はよく頑張ったね、次は今日みたいに怖いことしないよ」

無影灯に手を伸ばすと、キーホルダーのチェーンを外す。
それを子供の手に握らせる

「今日はお母さんと本当に頑張ったから、孝一くんにプレゼントね。次はこの子と一緒に来て頑張ろうか」

子供がそれを握りしめて小さく頷くと、こわばっていた母親の表情もホッとしたように和らいだ。








「あーあ、らしくないことしてる人がいる」

チアシードでタプタプになったヨーグルトを食べながら、雪が時雨の元に来たのは昼休みの事だった。
器具の点検と滅菌をしている時雨以外に診療室に人影がはない

「らしくないって……もう本当勘弁してよー」

私も病み上がりで余裕なかったんだよ、
というと、ああそう。
とだけ気の無い返事が返ってくる

「今日だって時雨先生余裕ないっていうか機嫌悪くってさ、なんか物言い冷たいし、かと思ったら慌ててあのぬいぐるみアッサリ人にあげちゃうし」
「だってあの子も頑張ったし…」
「前にももっとお利口に治療ができてあれが欲しいって言った子供は沢山いたじゃない」

う……と返事に詰まると、雪は時雨の口に無理矢理ヨーグルトを突っ込んでくる。

「返事は必要ないからとにかく聞きなさい」

次々ねじ込まれる。銀のスプーンが時々かちりと歯に当たるが、雪が手を緩める気配はない。

「私心配してアンタのとこ行ったのよ先週」

チアシードのプチプチした食感。ヨーグルトの酸味が広がる

「そしたら家にいないし。死んじゃったと思ったて院長に聞いたらあの空条家で一週間養生するって言うじゃない」

まだまだあるらしいヨーグルト
次々ねじ込まれる。まるで雛の餌やりのようだ。

「ああーなんかすごい事になってると思ったらまさかの数日で私を遊びに誘ってきたアンタはなんか飄々としててムカつくし。早めに仕事復帰したと思ったら相変わらず顔色悪いし肌のコンディション最悪だし化粧直す気力もないみたいだしアンタどうしちゃったの」

カツンとヨーグルトの入ったガラスの器の底にスプーンが当たる音がした。
どうやらもうヨーグルトは言葉通り底をついたらしい。

「私にはアンタ、そんなに他人みたいにフワフワしてなかったじゃない。聞かないけど、本当はなんか察しはついてるしいってほしいけど」

あ、だめだ。彼女をまっすぐ見られない。
でも言えない。時雨にだって、自分がどうしてこんなにひきづっているのかわからない。けれど雪に話せる事ではない。そんな確信があるのだ。

「とにかく!アンタたちなんのために連絡先交換してるわけ!!もう本当!早くどうにかしなさいよ!」

ちょっと声の震えてる彼女は多分怒りながら悲しんでる。
いい加減そのくらい健康的なものでも菓子パンでもなんかたべなさいよね。と化粧室に踵を返した雪は本当は泣きそうになってる。
時雨だって許されるならなんでこんな事になってるのか誰かに聞きたい。
なんでこんなにショックなのか、どうして会えないのか。自分はあの人達にあいたいのに。

口の中のチアシードを全て飲み込んだ時、丁度昼休みの終わりを知らせるタイマーが鳴った。




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