短編


坂路

 坂は空への入り口だ。
 誰かがのたまった。誰だっけな。覚えていない。遥か遠い記憶の淵に浮かぶのは、黄色い麦藁帽子と笑顔が輝いている白い顔だけだ。
 白い顔。
 目鼻立ちなんて細かい部分、覚えていない。もしかしたら、本当に目鼻立ちが無かったのかもしれない。それが男の子だったのか、女の子だったのかすらも胡乱だ。その子に関する記憶は楽しい事ばかりで、だから坂は好きだ。坂の下から上を見上げると、本当に空への入り口みたいで見ているだけで楽しくなってくる。
 その子は何処へ行ったのかな。ひょっとしたら本当に、坂から空へ行ってしまったのかもしれない。気が付いたらいなくなっていて、いないという事実が当たり前で、その事に関して何も考えずに生きてきた。
 いつの頃からか、坂を見上げるのをやめてしまった。
 その子がいなくなってからなのか、それとも大人になってからなのか。その子がいないという事実は、私の胸にぽっかりと空虚な虚
うろ
を作り出したのかもしれない。
 坂は空への入り口だ。
 今ならそう、信じられる。この事を突然思い出したのも、そう、何か理由があるはず。それは失恋した次の年にやってきた。急に頭の中に閃いて、思い出がそれに重なって、ある種の確信を得た。そぅ、坂は空への入り口なんだ。

「――ちゃん。君にだけ教えてあげる。君は特別、だからね」
 フフッ、といつもの笑顔を煌かせて、白い顔の子は言った。誰もいない時。誰もいない場所で。
 大人たちは皆、この子の事を見ることが出来ないらしい。誰も見えてるようには振舞わないし、話しかけようともしない。存在自体を無視しているのか、存在自体が無いのか。でも、私にとっては親友以上の存在なのだ。何処へ行くにも一緒。何をするにも一緒。ひょっとしたら、兄弟以上かもしれない。
 その子は、気が付いたらそこにいた。何処から来たというでもなく、気が付いた時には一緒に遊んでいたのだ。
「絶対、誰にも秘密だよ。秘密の場所」
 そう言って連れて行ってくれたのは、あの坂道だった。その坂路の下から上を見上げて、あの言葉を言ったのだ。「坂は空への入り口なんだ」と。その言葉を受けてか、坂の下から上を見上げてみると、なぜだか空が輝いて見えた。まるで、そう、秘密の入り口が口を開けたかのように。目の錯覚かと思い目を擦ったが、まだ輝いて見えた。
 その時は気が付かなかったけれど、そのキラキラは空への入り口だったの。あの子が私を連れて行きたかったのは“空”だったのよ。
 その子は振り向いて私に微笑を投げかけると、ステップを踏んで坂を上って行った。
「――ちゃん、あそこだよ。さあ、早く行こう。早くしないと閉まっちゃう」
 そこは空への扉。どうやって開いたのかは解らないけれど、そこを潜ると誰も知らない世界にいけるらしい。そこは異界。この世界と対になっている、隣り合った世界。綺麗な場所なんだそうだ。まるで万華鏡のような。否、もっともっと綺麗で華美で素敵な場所。その場所を一度でも覗き見たなら、忘れられなくなり、その場所へ行きたくて仕方が無くなると言う場所。
 異界。
 私は、生唾を飲み込んだ。
 そして、あの子の後を付いていく。
 そして、

 坂から空に、吸い込まれた。
 そこには、何処までも抜けるような蒼穹が無限の広がりを見せていた。蒼穹と地平線が出会う場所ではキラキラと何か、水晶のような透明な何かが幾重にも重なって煌いていた。まるで、万華鏡のような。
 そこは紛れも無い、異界だった。“空”は空であり、この世ではない場所。異界。
 私達はそこで、時の移り変わるのも忘れて遊び呆けた。そこでは始終ずうっと青い空が広がっていて、時間の経過が無い様に思われた。外の世界で時が移り変わっているのも知らずに、ずうっと、飽きるまで白い子と共に遊び戯れた。そこでは何か、欲しいと思ったものが直ぐに出てくるので、遊ぶものに困ることは無かった。
 遊び疲れて、“空”から出ると、夕暮れ時だった。茜色の雲が棚引いている。
 後で知ったことなのだが、私は三日間行方不明となっていたのだそうだ。三日間何処へ行っていたのか、という母の質問に、私ははにかむしか出来なかった。
 私は、それ以来その子と会っていない。

 そして、いつからか私は、坂と“空”を捨てていたのだ。
 そして今、やっと思い出した。大切な、一番大切な思い出を。
 坂は空への入り口だ。
 今ならそう、信じられる。

Copyright (c) 2007 shun haduki All rights reserved.


大阪ショートショート大賞に応募した作品です。
落選しました。

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