ヤマアラシのジレンマ



合宿5日目。連日の激しい練習も終わりが見えてきた頃、能京カバディ部はこの合宿で得た課題や発見に立ち向かい四苦八苦していた。それは上手くいかないもどかしさや苦しみも伴うが、自身のステップアップの経過であることを皆理解している。故に誰一人としてその苦悩を放棄する者はいない。

それはまた、名前にも言えることであった。
しかし名前はその悩みを決して外には出さないように努めている。皆が勝つために悩み、身体に鞭打っているというのに、自分一人だけ個人的な悩みで仕事を疎かにはできない。

「人見ちゃん! はい、ボトル。動き良くなってるよ。顔つきも、合宿が始まった時と変わったよね。この調子で頑張ってね!」
「ありがとうございます……!」
「マッサージ必要だったら遠慮なく言ってね!」
「はい!」
ドリンクを渡し、満面の笑みで人見にガッツポーズを送る名前はいつも通りだ。そう、誰の目から見ても、いつも通り選手に気を配り、いつも通りニコニコと笑っている。

「名前、関君が少ししんどそうだから見てあげてくれるかい?」
「え、」
「ああ、そんなに焦った顔しなくても、熱中症とかではないと思うよ。ただ念の為にね」
「ん、分かった。関くんは柔道場だったっけ」
「うん」
「ありがとう。すぐ行く」
名前は手に持っていたタオルの山から一つ手に取り、残りは邪魔にならないところに置いた。そしてくるりと王城に背を向けて柔道場へと走り出す。王城もまた、名前に用件を伝え終えたので再び練習に戻った。


普通の、会話だ。
普通の、マネージャーと部員の、連絡事項。


「いや、普通じゃないでしょ!」
「水澄、声を抑えろ」
伊達に窘められた水澄は納得がいっていないように口をモゴモゴと動かしている。
「ヒロに王城を引きつけてもらっているとはいえ、いつ戻ってくるかわからん。大声は出すな。あくまで雑談っぽい顔をしろ」
「こ、こうですか……」
「いや人見、お前顔が引きつりすぎて井浦みたいになってんぞ」
「……ん?」
「あ……」
見事に目を細め片方の頬で笑ってみせた井浦の顔を見て宵越の額から一気に汗が吹き出す。前言撤回だ。人見の比ではない。

「閑話休題。今回お前達が俺に声をかけた理由をもう一度聞かせてもらおう」
「はい……。ここ2日くらい部長と名前さんの距離感がおかしいというか……。いや、世間一般からしたら普通なんでしょうけど、あの二人に限っては例外というか。とにかく、なんか余所余所しいんすよ、二人とも!」
「昨日、俺と水澄でその話をしてたら、人見も食いついてきて」
「そうなんです。僕も、ちょっと違和感がありました。二人とも普段の態度は全く変わらないんですけど、二人の距離だけがおかしいような気がして……」
三人の顔は喉に魚の小骨が支えているように苦しげに歪められている。

「……なるほどな」
井浦は一瞬顔をしかめる。王城と名前の変化には当然気がついていた。王城に不信感を抱いた3日目の夜から王城を見続けていたので見逃すはずがない。王城を見ているうちに名前の様子がおかしいことにも気がついた。この合宿で名前の王城に対する態度は二転三転している。初日、王城にだけ顧問の車でいくことを内緒にしていたことに罪悪感を抱いてか、いつもより素直に感情を表していた。ただ、その裏に隠れている名前の戸惑いも、顕になってしまっていた。
"ただの友人"にしては近すぎる王城との距離に違和感を抱いていたのは名前自身なのだ。

「井浦さんなら何か知っているかと思って声をかけました」
「宵越と話し込んでたんで、躊躇ったんすけどね……」
三人の不安げに揺れる目が、井浦を捉える。
難しい顔をして黙っているところを見ると、宵越も薄々気がついていたのだろう。いや、コイツは気がつくか。目を付けた者のことは穴が開くほど見てるもんな。それをわかっていて水澄たちも声をかけたのだろう。

「ふぅ……」
井浦はゆっくりと浅い息を吐き切る。

俺が焚き付けたのが原因なのか。

初日の夜、名前の揺れる心を見てしまった井浦は、思わず名前の背中を強く押してしまった。ゆっくり歩いている人間の背中を強く押したら、躓いて、下手をしたら膝をついてしまうだろう。完全に自制が効かなかった自分の責任だ。王城と名前の距離が近いのは昔からなのに、王城に甘えたいという感情を垣間見せた名前の様子を見て、焦れったくなってしまった。

その後名前はあからさまに王城を意識し始めた。そこまではまだ言動が少しおかしいという程度だった。むしろ挙動不審になったりして可愛らしいものだった。しかし3日目の夜から王城の態度までおかしいことに気がついた。本当はもっと前から予兆のようなものはあったのかもしれない。

「確かに、ここ数日の部長と名前の様子はおかしい」
井浦の言葉に、4人がごくりとツバを飲み込む。
これは隠しようもない事実だ。下手に取り繕う方が不安にさせるだろう。ただし、これ以上不安を煽るような言動は避けるべきだ。

純粋に王城と名前の仲を心配しているのだと4つの双眸が語っている。井浦はその瞳を真っ直ぐ見返し、言い切った。

「だが、心配するな。あれは夫婦喧嘩みたいなものだ」

4人は固まったまま堂々とした佇まいの井浦を見返す。緊迫した空気に、北風が吹き込んだようだった。

「夫婦喧嘩……」
「そうだ」

あまりにも真顔で井浦が言い切るので、水澄たちはどう受け止めて良いのか考えあぐねる。冗談なのか、大真面目なのか。この場面で冗談は言わないだろうとは思っているが、井浦の普段の行いが4人の迷いを生んだ。
「仲が良いほど喧嘩する、ってやつっすか……」
水澄が恐る恐るといった様子で尋ねると、大真面目な顔の井浦が深く頷く。
「距離が近いほど小さな衝突は付きものだ。俺は嫌というほど見せられてるからな」

そう言って薄く笑う井浦を見て漸く人見を筆頭に4人の表情が柔らかくなる。
「部長たちと仲が良い副部長が言うなら……!」
「そういうことなんすね! やっぱり井浦サンに聞いて正解でした」
「やはり気にはなりますが、不安はなくなりました」
お騒がせな人たちだなあと笑う水澄たちを見て、井浦はそっと息を吐く。

本当に、お騒がせな奴らだよ。

安心した様子の水澄たちを能京の個室まで見送り、王城を迎えに行く。まずは王城に事情を聞くしかない。小学校から一緒にいて、名前のことで王城の心の内をハッキリと問いただすのはこれが初めてのような気がした。いつも感情を素直に表す王城にはその必要がなかったからだ。一人廊下を歩きながら、ククッと笑った井浦の顔が引きつっていたのは、誰にも見られなかった。


「ヒロ」
「あ、慶さん!」
声をかけると、楽しそうに雑談をしていた右藤、佐倉、王城の3人が一斉に振り返る。ヒラヒラと手を振る王城の笑顔があまりにも屈託のないものだったから、思わず顔が緩んでしまう。

「ありがとな、ヒロ」
「いえ! 正人さんと話せてよかったです!」
「そうか……。正人、今ちょっといいか?」

王城は井浦たちの会話に首を傾げるものの、素直に頷く。右藤と佐倉に挨拶し、2人並んで風呂場の近くにあるソファに腰掛けた。風呂場の前の廊下といえど、パーテーションで区切られているので周囲の目も気にならない。練習の合間の自由時間に風呂を利用する者はおらず、辺りはシンと静まり返っている。

「どうしたの? 改まって」
王城は雑談でもするかのように笑いかける。井浦の考えていることなんてお見通しで、その上でどうってことないと示しているような気がして、井浦は眉間にシワを寄せた。

「正人、お前名前のことどう思ってるんだ」

拒絶するなと主張するように、前置きもなしに本題に入った。王城は手元を見つめていたかと思うと眉を下げて笑う。困ったようなその笑いを、井浦は表情を変えずに見つめる。
この一言だけ聞けば、なんてことない思春期の会話だ。それがどうしてこんなに拗れるのか。それは王城も名前も思春期の一時という枠には収めきれないほどの事情と愛を持っているからだった。それを理解していても出てきそうになるため息を、ぐっと腹に押し留める。

「どうって……何? 急だなあ」
「水澄たちも勘づいてる」

後輩の名前を出した途端、王城の顔が陰った。井浦は追い討ちをかけるように言葉を繋ぐ。
「お前が本気で名前のことを大切にしていることはわかっている。けど最近のお前を見てると何をしたいのかわからない。……盲目になりすぎて周りが見えてないんじゃないか?」

王城は頭を垂れたまま黙り込む。一途なのは良いのだが、度を越してしまうのは王城の悪い癖だった。それをわかっていたのに、こうなるまで放置してしまっていたことに歯噛みする。

「名前がどうしたいのか僕にはわからないんだ」

ぽつりと零した言葉は、真っ直ぐな水面に一滴の涙を零したかのように静かで、けれど確実に波紋が広がっていくようだった。

「僕は名前が望むのなら今の関係を続けるし、名前が変化を望むのなら離れることも……覚悟はしていた」

名前の態度を見てどうして離れるなんて発想が出てくるんだとツッコみたくなったが、王城がカバディを大切にするように、名前もまたカバディを大切にしていることを思い出す。俺たちの夢は名前の夢でもある。夢を叶えることに専念してほしいという理由で、名前が王城に過剰に干渉することを避けるというのは十分に考えられることだった。


「僕はそんなに器用じゃない」
顔を上げた王城は悲しげに笑っていた。





[list]
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -