(少年は愛を学ぶの続きもの)

 つくづく、物事は自分の思い通りに進まないものだと思う。

 イドルフリートは目を伏せ、すっかり体温の熱を吸い取った鍵を机の引き出しに放り込んだ。粗雑に投げ込まれた鍵を一瞥もせず、音を立てて引き出しを閉める。見たくないものに蓋をするように。

 何か切っ掛けがあった訳ではない。いや、寧ろ切っ掛けは至る所に散らばっている。それを踏まずに歩けと言うのが無理な話で、何をしていても些細な事で鮮明に昔の出来事を思い出してしまう。昔彫った刺青を忘れられないように、この記憶も忘れる事は出来ないだろう。忘れるには、彼と長く居過ぎた。記憶を憎まなければ前に進めないなんて滑稽だと思う。コルテスと共に過ごし、彼に恋した日々は人生の汚点だ。それでも、当時のイドにとって何よりも輝かしく、喜びに満ちあふれていた。絆が強く固く結ばれるべきものだと言う事を、過去のイドは確信していただろう。


 六年も七年も前の話だ。コルテスは少年だったイドの手を引いて、カディスの町へと移動した。白い建物が印象的な、大西洋が見える小さな港町。所狭しと敷き詰められた建物が影を生み出していたが、海岸に出ると太陽が眩しかった。目立ったものが何も無い静かな町に、何かきらきらしたものが広がっている気がした。コルテスは其処に部屋を借りて、イドと二人の住処にした。彼の故郷の屋敷に比べたら随分と小さい部屋で使用人も居なかったが、まるで二人だけの隠れ家のようで心が躍った。エントランスをくぐって煉瓦の階段を上がると、小さな玄関が二人を迎えた。

「カディスは、スペインで最も古い町なんだ」

「へぇ…そうなのか?」

「その頃は此処も小島で、その後土が堆積してイベリア半島になったとも言われているらしい。古代フェニキア人が、此処を『ガディル』と名付けたのが由来で…まぁ、この話は後でも出来るか。お前の部屋を用意しなきゃな」

 コルテスも何処か楽しそうだった。玄関を抜けて真っ直ぐ行くとキッチンが付属するリビングがあった。トイレと洗面所は共同らしく、此処には無い。手前にある日当りの良い部屋を見つけたコルテスは、そこのドアを開く。

「此処がお前の部屋だ」

 夕方の強い光が部屋をオレンジ色に照らし、イドを出迎えた。眩しさに目を細め、新しい生活の場となる部屋を見渡す。コルテスは笑みを浮かべると、イドに小さな鍵を手渡した。

「この部屋の鍵だ。今度は使い方分かるよな?」

 昔のことを掘り起こされ、イドは苦笑した。

 二人だけの同居。イドとコルテスは十歳以上歳が離れているが、この時だけは同じ立場に立てた気がした。仮にも好きだと告白した人間に全く変わらず接してくるコルテスの態度に焦れなかった訳ではないが、気まずい距離を保たれるよりはよっぽどましなのでこれで良かったのかもしれない。イドは何処かで強欲になっていたのだ。思春期になり大人びた要求も覚えるようになって、手の平に集まるものだけでは我慢出来なくなっていた。だけど世界の見方が変わってから、頭を撫でてくる感触がもう嫌いになれなかった。寧ろ心地よく、手の平の温かさに身を委ねる様に目を瞑った。
 勿論、コルテスが何の為に此処を選んだのか忘れていない訳ではなかった。新しい目的を見つけた彼はすぐに動き、常に忙しなく町を行き来している。イドに見せている顔が、コルテスの全てではない。しかしイドに寂しく思う暇はなかった。イドも出来るだけ海岸に出て、幼い頃から溜め込んできた知識を現実と照らし合わせた。コルテスと同じ目線で、同じ目的を見ていると今なら確信出来る。未来を信じられる人間の、なんと力強いことだろう。そこら辺にいる航海士とは比べ物にならない優れた能力をもった人間になる為に、イドはこれまで以上に貪欲に知識を詰め込んだ。

 そうはいっても、新しい生活はなんだか慣れない。少し前まで使用人が必ず傍に控えていたので、コルテスと二人きりになる機会はなかなか無かったのだ。ふとした瞬間に訪れる沈黙が照れくさく、イドは口を噤むことを恐れた。話題が無くなり行き場の無くなった瞳が手元を映す間、コルテスの静かな視線が自分に向いていることに気付く。

「…なんだい」

 勇気を振り絞って視線を上げると、コルテスは頬杖をついた手を机に戻した。

「いや、大きくなったなと思ってな。そろそろ変声期が来るかと思うと残念だな」

「フェルナンドはいつ頃だったんだ?」

「俺?うーん…お前の頃には声が掠れてたかもな」

 コルテスの子供扱いにいちいち反発することも無くなった。イドは「ふうん」と興味無さげに呟いて、コルテスの喉元に視線を映す。

「ボーイ・ソプラノは『神様のいたずら』とも言うんだ。神は少年に一時美しい歌声を授けるのに、大人になるとそれを奪い取っちまう。だから…なんだ、イドのその声は貴重なものだぞ、大切にしろ」

「私はさっさと低くなりたい」

「…まあ、お前には早く大人になってほしいのもあるけどな。最近の知り合いに子供と同居してるって言うと物凄く食いつきが良いというか」

 イドは目を見開いた。他人に自分を「子供」と説明していることに腹立ったのは事実だが、その前に誰かに自分のことを話しているとは思っていなかったからだ。コルテスの唇が他人の前で自分を語る光景をどうにも想像出来ない。イドは続きを促すように視線を向けたが、この話は終わりと言わんばかりに目を逸らされてしまった。

 『神様のいたずら』
 子供の頃に輝かしいもの、美しいものを溢れんばかりに与えて、甘やかして、大人になった途端欠片も残さずに奪い取ってしまう。残酷な話だ。すっかり変声期を迎えた今のイドにとって、奪われたのは声ではなく、コルテスだ。歌を生業としている少年によくあることだが、彼らが大人になる過程で元の美しい声を保とうと無理をすると喉を痛めてしまうらしい。それと同じように、これから独立した航海士として生きていくイドにとって、コルテスと共に過ごした思い出を振り返り続けるのは未来の妨げになるのだろう。
 ならばどうして与えたのだ。何故神はまだ物事の分別も分からない子供の傍に彼を置き、奪っていったのだ。初めから共に生きられないと決まっていたなら、彼に恋することも、それを伝えることも無かったのに。
 随分昔の話だが、コルテスと同居する初日のことは、昨日食べた夕食よりも鮮明に思い出すことが出来た。彼がどんな表情で語りかけてくれたのかも、いつ頭を撫でてくれたのかも。今から考えれば滑稽だが、それくらいコルテスのことが好きだったのだ。彼の一挙一動が気になって仕方なかった。彼が好きでどうしようもなかった過去を思い出すたびに、じくじくと傷口が抉られて熱くなる。

 あれはいつだったか、おそらく同居してそんなに時間が経ってなかった。イドは新大陸へ行ってきたという航海士の話を聞きに行ったが、その話が期待以上に興味深かったのでつい長居してしまった。日が完全に沈んだ町中、黒く染まった海岸を沿うようにして歩いて家に帰る。コルテスはもう寝ていると思っていたのに、部屋の明かりがついていた。まだ子供扱いが抜けない彼のことだから、こんな遅くまで何処ほっつき歩いていたんだと小言を言われるかもしれない。煉瓦の階段を上る足取りは重く、イドはそっと玄関のドアを開けた。

「おお、いどぉ」

 できあがっていた。
 イドは隠すことなく、訝しげに眉を顰める。ジョッキを片手に振り返るコルテスは首まで赤く染まっていて、目元もとろんと朧げに据わっていた。一人で飲んで楽しいのかと思う反面、イドのような子供と二人きりだと自宅で飲むタイミングが掴めなかったのかもしれない。それが一体何の気まぐれだ。イドは薄手のコートを掛け、廊下を真っ直ぐと歩いて開けっ放しのリビングのドアを通る。机の上には空いた瓶が僅かな液体を零しながら転がっていた。

「飲み過ぎだろ」

「…お前がなかなか帰らないからさぁ」

「明日の仕事は?」

「子供がそんなの気にすんなよ。明日は仕事ないってぇの」

 覚束ない手つきが飲みかけのワイングラスを手に取り押し付けてくるので、イドはそれを取って机に戻した。

「だから一日中二人きりだ」

 そう断定され、イドは苦笑する。此方に予定があることはお構いなしらしい。確かにコルテスの言う通り予定は何も無い。二人きりという言葉に口許が緩んでしまうのを必死に保とうとした。

「はいはい、酔っぱらい。どうせフェルナンドは二日酔いでベッドから出られないよ」

「言ったな。俺はなぁ、意外と強いんだぞ」

「顔を真っ赤にして何を言ってるんだか。ほら、私が帰ってきたんだからもう仕舞いにし給え」

 緩んだ手の平からジョッキを取り上げて机に置く。コルテスの目が名残惜しげに酒を追い掛けたが、再び手を伸ばすことは無かった。代わりにイドの手首を掴み、引き寄せる。

「ちょっ」

 ガタン、と太腿が机の縁にぶつかった。前のめりになってしまわないように反対の手で体を支える。酔ったコルテスの力は容赦なく、無理矢理振りほどこうとしても手を離してくれなかった。暫く無言のにらみあいが続き、焦れたイドが口を開く。

「…フェルナンド、何の真似だ」

「ほそっこい腕だな」

「また子供だなんだと言いたいのか。君のそれは聞き飽きた」

「……いや」

 酔っぱらいにしては随分しっかりとした声で否定する。

「俺は、お前を子供と思いたいだけなんだ。そうしなきゃいけないって、言い聞かせているだけなんだよ」

 コルテスは親指でするりとイドの手首を撫で、満足したのか力を抜いた。しかしイドは腕を引けずに、呆然とコルテスを見つめる。イドの視線から逃れるように目を伏せたコルテスは、行き場を無くした手で酒瓶を弄った。

「あの時、お前言ったじゃん」

「あの時ってどの時だ」

「だから…お前が、俺に好きって言った時」

「……ああ」

 あれから一度も掘り返されたことの無い話題にイドは反応するのが遅れた。どう返事するべきか分からず、曖昧に頷くことしか出来ない。その時のノリで口走ってしまった本音は、いつか伝えるべきだと思ってはいたが、返事を期待していた訳じゃなかった。忘れてくれるならその方が良いと思っていたほどだ。だが、おそらくコルテスにも思うところがあったのだろう。無かったことにするにはあまりにもお互い距離が近すぎた。

「あれから色々考えたんだけど…ぜんっぜん答出なくて…。イドのことは、大切だし…でもやっぱり、…、子供じゃん」

「……分かってるさ。私はただ言いたかっただけで、君に応えてもらおうなんて全く」

「最後まで聞け。お前は子供だから、俺が支配しちゃしけないんだよ。まだ何も知らないんだから、縛っちゃ駄目なんだ」

「……」

「でも、…なんか挫けそうで」

 コルテスはそこでぴったり言葉を止める。きちんと伝えようとしているのだろうが、話が見えない。イドは促すように目で訴えたが、そもそも視線が合わなかった。仕方なくイドから口を開く。

「挫けるって、どういう意味だ」

「……昔、イドがこんなちっちゃかった時さ」

「あ?」

 話題がいきなり変わって思わず声が低くなった。こんな、と良いながら親指と人差し指で空間を作るコルテスに、そのサイズは産まれてないと突っ込みたくなる。

「…お前の親父が、お前を都合のいい道具としか思ってないの目の当たりにした時、俺だけはそんな親にはなんねーって思ったんだ。おれは、イドを利用しようとしないし、たとえ血が繋がってなくても、大切にしたいし…」

「それはさっき聞いた」

「だけど、俺は……もう、最低だ」

「だから何が」

 そこで漸くコルテスは顔を上げて、イドと目を合わせた。

「嬉しかったんだ。イドの告白が、めちゃくちゃ嬉しかった」

「…っ」

 思ってもいなかった言葉に目を見開いて固まってしまう。一気に顔に熱が集中して、咄嗟に目を逸らした。コルテスは相変わらずとろんとした表情で、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「縛っちゃいけねーと思ってんのに、頭じゃ全然違うこと考えてる。あの時からお前のことばっか考えてて…」

「……」

「大人としての返事とか、俺まったくわかんねえし…格好つかねえ」

 ――嗚呼、どうしよう、めちゃくちゃ嬉しい。
 緩む頬を保つことが出来なかった。酒で掠れた声はとても柔らかく、優しく響いた。イドは情けなく顔を歪める。酒の力はすごい。多分コルテスは、内に抱えた感情を表には出さないように必死に努めていたのだろう。せめてイドには気付かれないようにと隠してきたのだろう。こんなに加工されていない裸の本音は初めて聞いた。

(やっぱり私はフェルナンドが好きだ)

 改めて実感して、幸せでいっぱいだった。後悔したこともたくさんあったけど、伝えて良かったのだろう。初めて今までの苦労が報われた気がした。気にしていないように振る舞っていたのは、今まで築いた距離が壊れてしまうのが怖かったから。でもそれはコルテスも一緒だったのだ。こんなに悩んで、酒にまで手を出して誤摩化して。
 どきどきと高鳴り出した心臓は落ち着こうとしない。コルテスは明日酔いが覚めても覚えているだろうか。忘れていても、自分が覚えているから構わない。今夜は眠れないかもしれないと、幸福感で溢れた頭で心配した。

 
――という輝かしくも恥ずかしい思い出を思い出しては頭を掻きむしる日常をあれからずっと続けている。恋とは恐ろしい。それが世界の全てと言いたげに振る舞ってしまう。盲目な恋が、その一時的なものならまだ良かった。どうして冷めてしまった恋は後味の悪い薬のように体の中をのたうち回るのだろう。上手く線引きできない感情を抱えたまま、忘れられずに七年経った。あの日の酔ったコルテスを鮮明に脳裏に描き、おまけにそこに情欲を抱いてしまうのだから、もういっそ記憶喪失になりたかった。

 別離の切っ掛けはコルテスだった。カディスは小さな町で、彼はよくその外まで足を伸ばしていた。「暫く帰れなくなるかもしれない」と玄関前で告げたのを今でも思い出せる。初めてのことではなかったので、内心寂しく思いながらも「そうか」と頷いて彼を見送った。数日したら帰ってくるものだと思っていた。しかしそれから一週間経ってもコルテスは帰ってこない。一ヶ月経って心配でいてもたってもいられなくなった頃、漸く彼の使いだと言う男が尋ねてきた。『コルテスは仕事が忙しくて、まだ帰られない』という旨と数ヶ月やり繰り出来る分の金だけイドに置いて行った。手紙も何も無いのにいきなり告げられてイドは困惑した。手紙を書いてその男に渡しても、返事は一向に返ってこない。
 半年経った。相変わらず使いだけは来るが、コルテスが生きていることしか伝えてくれない。会えないのに金だけ受け取るのは気持ち悪く、イドは暫く考えた後、部屋を出て行くことに決めた。一人で生きて行く為の知識も実力も身につけたし、そろそろ自立するべきだろう。航海士になったらコルテスの情報も自然と集まる。目指す場所は同じだから、そこでいつか会えるだろうと気楽に考えた。

 コルテスがキューバに渡ったと知ったのはその後だ。
 
 彼の使いが伝えてきたのではない。偶然、コルテスを知っている男から聞いた。そのときその男になんと返したかは愕然としていて覚えていない。最初は裏切られたと思った。イドが今まで航海法を学んできたのは、コルテスと共に新大陸へ行く為だった。それなのに、何の相談も無く勝手に行ってしまった。置いてけぼりにされた寂しさよりも、怒りの方が勝った。しかしすぐに、それが当然の結果だと思った。すっかり忘れていたが、コルテスはイドのものだけではなかったのだ。幼いときから十分分かっていたではないか。コルテスには溢れんばかりの可能性がある。その邪魔をしていたのは他でもない幼い頃の私だ、と。子供に縛られる生活にそろそろ嫌気が差したのだろう。もしくはイド以上に心引かれる存在が出来たのかもしれない。彼も良い歳だから、結婚の話も持ち上がっている筈だ。そんな輝かしい未来に、彼を好きだと言った子供は邪魔なだけだ。
 勿論これは憶測であって事実ではない。コルテスに直接聞いた訳ではない。だが、『コルテスがキューバに渡った』という揺るがしようのない事実は、深くイドの心を抉った。二枚舌で欺かれても希望を持てるほどイドの心は出来ていなかった。

(ようやく実る見込みの無い恋に終止符が打てる)

 悲しみに押し潰される前に、イドはそう考えることにした。





 カディスでコルテスと暮らした部屋の合鍵を未だに持っている時点で過去を振り切れていない。そんな自分を低能だと自嘲するが、一向に捨てる気になれなかった。
 イドは粗雑に仕舞った鍵の存在をなんとか頭から追い遣り、腕を伸ばして窓を開ける。ガタンと重い音が響いて、驚いた鳩が羽根を散らして飛び去って行った。それを追い掛けず、身を乗り出して顔を出す。

「おはようベル、今降りて行くから、勝手に上がってくれ給え」

「おはようございます、イドさん。急がなくていいですよー」

 近所迷惑にならない程度に声を上げると、ベルナールは被っていた帽子を取ってふりふりと振った。それに笑みを浮かべ、「すぐ着替える!」とだけ伝えて窓を閉める。
 ベルナールはイドが子供の頃から知っている友人の内の一人だ。彼もキューバに渡っていたが、最近スペインに戻ってきたのだと言う。

「お久しぶりです!ああもう、こんなに大きくなって!」

 開口一番母親の様な言葉を口にするベルナールに苦笑した。六七年振りに見る彼は、記憶よりも背が高く、男らしくなっていた。イドは屈託なく笑ってベルナールを抱きしめる。久々の再会だったが、彼の纏う匂いは変わってなくて懐かしかった。
 久々に国に帰る、一度会うことはできないか。ベルナールの手紙は実に簡潔なものだった。何処でイドの新しい住所を知ったのか分からなかったが、別に隠していたわけでもないので他の友人に聞いたのだろう。イドは現在航海士として頻繁に海を渡っていて暇ではない。会える日を細かく記述して送ると、「立派になりましたね」とズレた返事が返ってきて一人笑った。
 久々に再会して、イドとベルナールは色々なことを話した。キューバはどんな国だったか。航海中に何があったのか。先住民の容姿や暮らし、戦争の話。大体はカディスで耳にしたものばかりであまり真新しくはなかったが、旧い友人から聞くのでは抱く印象が全く違う。イドは時間が経つのも忘れてその話に聞き入っていた。だから、ベルナールがふと発した言葉に反応するのが遅れた。「コルテスも一緒に此処にくれば良かったのに」と言う言葉に次いで、「七年ぶりにあんな大怪我したからって、いい加減もう動けるでしょうに」と心底呆れた表情で紡がれる。

「七年ぶり?」

 聞き返すと、ベルナールの動きがぴたりと止まった。

「七年前、コルテス怪我したのか」

 丁度そのくらいの時だ。コルテスがカディスから消えたのは。
 思い当たる節がありすぎる。ベルナールは「まずい」という顔をした後、ぎこちなく笑った。その笑顔に誤摩化されずにずっと見つめ返していると、彼は溜息をついて顔を伏せる。

「…ベルナール、どういうことか説明しろ」

「……二人がずっと会ってないことをすっかり忘れてました。私がコルテスから怒られます」

「答えろ。コルテスはどうして勝手にキューバへ渡った?」

「……いつからそんな可愛気がなくなったんですか、貴方は」

 彼は投げ遣りにそう呟いて、テーブルに放置してある紙を手元に手繰り寄せた。ちょいちょいと指先を動かすので、インクとペンを手渡す。

「本人に直接訊いてください」

 そこには、見たことがない住所が書かれたあった。


 ベルナールが帰った後、机に向かった。彼に渡したのと同じペンとインクを使い、冒頭にコルテスの名前を書く。『Querido』――親愛なる、と筆を滑らせるのがとても滑稽に感じた。

『直接話したいことがあるので、いつ頃空いているか返事を下さい』

 丸めてゴミ箱に捨てた。どうして文面だと丁寧語になるのだろうか。

『イドです。お元気ですか』

 大怪我をしていたという人間相手にこれはない。却下。

『約束守れ』

 七年も経っていきなりこれでは、なんのことだか分からない。あの忘れ易いコルテスのことだから、きっと返事に困って手紙を出さないだろう。
 伝えたいことはたった一つなのに、手紙のような改まったものでは余計な言葉も付属して書かなければならないような気がしてくる。ベルナールがイド宛に送ってきた手紙の内容も少し真似てみたが、それを自分がコルテスに出すとなると何処かおかしい。投げた紙屑がゴミ箱を外れて床に転がる。

「…住所知ってるんだから直接会いに行くか」

 結局それしか思いつかなかった。ベルナールにくっついて一時的に帰ってきたのか、コルテスの住所はこの国で間違っていないようだ。地図を取り出し、住所の冒頭に書かれてある場所を探す。聞き覚えのない場所だったから、彼の父親が住んでいる町では無いだろう。すっと指が撫でた場所を目で追い、目を丸くした。イドが今住んでいる街の、隣だった。

 歩くには少し距離があったので、丁度その街へ行くという馬車に乗った。乗っていた時間はたったの10分。其処から徒歩で10分。あっという間にコルテスの家の前についてしまった。何の連絡もしていなかったから、居ないことも頭に入れていた。だとしたらいつ頃帰ってきそうか近所の人に聞いて家に戻ろうと思っていたのだが。
 窓の向こう側には明かりが灯っていた。締められたカーテンから、僅かな灯火が見える。居るんだ、と思った。

「……」

 会いに行くと決めてしまった以上、実行するべきだ。しかし足は根っこが生えたかのように地面にしがみ付き、心臓はばくばくと緊張し始めた。今更になって、コルテスと会うことに怯えている。変な別れ方をして七年経ち、彼がどんな目で自分を見るのか想像したくなかった。

(でもそれは、彼に会わない言い訳にはならない)

 イドは自分にそう言い聞かせた。足を動かして、エントランスを潜る。煉瓦の階段があるところは前の家と似ていた。一歩一歩の足取りが酷く重い。コルテスの部屋の前までくると、ドアノブを掴み、何度か叩いた。ガン、と派手な音が木霊する。ドアの向こう側で物音がすることを予想していたが、何の音も無く目の前の扉が開いてイドは目を見開いた。イドを見た部屋の住人も同じ表情をして固まる。

「…イド」

 懐かしい響きだった。伏せたくなる顔をなんとか上げて、コルテスを見つめる。久々に見たコルテスは、何一つ変わっていなかった。七年も経っているのに老けた様子は無かった。ただ頬や腕に治りかけの傷口があるくらいで。
 だが向こうにとって、イドは記憶通りの見た目ではないだろう。背の高さもコルテスとそう変わらない。二十歳になって、体つきが一気に変わった。

「本当に久々だな、コルテス」

「…イドだよな」

「ああ」

「声が全く違って、驚いた」

 コルテスは容姿や背丈よりも、声を違和感に思ったらしい。昔のやり取りを思い出してイドは苦笑した。コルテスを目にした途端子供の頃の出来事が一気に脳裏を通り過ぎる。一瞬、懐かしさで思考が埋もれた。しかし首を振って過去を振り切る。何の為に此処に来たのか忘れるわけにはいかなかった。過去と決別する為だ。コルテスを好きだった日々を忘れる為だ。

「入っていいか」

 否定させない強い口調で頼むと、コルテスは無言で頷いた。イドは彼に倣って部屋に入る。部屋の中は懐かしいコルテスの匂いでいっぱいだった。リビングに向かう途中、コルテスは振り向かずにぽつりと呟く。

「どうして此処が分かった」

 感情の含まない低い声。暗い気持ちがイドを襲い、そんな自分に笑いそうになった。なんだその言い方。まるで自分が招かれざる人間だと言われている気分になる。

「ベルに訊いた」

「…お前ら会ってたのか」

「白々しいな。ベルに私の住所を教えたのは君だろう」

「…違う」

「そうか」

 どっちでもいい。だが、コルテスは使用人を使えばいつでもイドの居場所を特定することが出来る。その可能性を忘れていた訳ではなかった。父親の元へは戻らず、イドの住む町のすぐ隣に新しく部屋を借りたのは、不自然に思えた。少しは会うことを視野に入れてくれていたのか。過度な期待は止めようと思いつつ、未だに縋っている自分が居る。コルテスの背中を見て、その問いを投げかける勇気は消え失せたけれど。

「それで、何の用だ」

 リビングに入るとコルテスは顎でソファーを示した。遠慮せずそこに座ると、彼は正面の椅子に腰掛ける。

「怪我をしたと聞いた」

「…ああ、これな。向こうで一戦やった時にへましたんだよ」

「違う」

 コルテスが訝しげにイドを見据える。

「七年前にも怪我をしたんだろう」

 そう次ぐと、彼は返答に迷ったのか目を彷徨わせて閉口した。だが沈黙は肯定だ。
 ベルナールの話だと、キューバに渡ったのは怪我が治った後なのだという。ということは、カディスを去った直後に彼の身に何かがあったということになる。

「言い給え。何で怪我をした」

「…今更、それを聞いてどうなる。それにお前には関係のない話だ」

「関係があったから、帰ってこなかったんだろ?」

 コルテスの眉間の皺が一層深くなる。思ったことが顔に出る癖も昔から変わっていない。彼が何を考えているのか子供の頃から分からなかったが、こういう時だけ分かり易い。イドは自分が言いたいことだけ言って口を閉じる。あとはコルテスの言葉を待とうと思った。

「…エーレンベルク家の人間が接触してきたんだよ」

 暫くして、コルテスは言葉を落とす。予想もしていなかった言葉にイドは目を丸くした。

「…は?」

「お前の父親が、まだお前を連れ戻そうとしていて…俺の居場所が割れた。せめてカディスにイドが居るってことを隠そうと思って、それで帰れなかった」

「…え、じゃあ、怪我っていうのは…」
 
 コルテスの言葉に重ねるように次ぐと、彼は言い辛そうに唇を噛んだ。

「闇討ちに遭ったんだ。…殺されかけて、だから俺は咄嗟に、お前の父親を」

「……」

 過去を鮮明に思い出したのか、コルテスの言葉が一度途切れる。膝に置かれた手が固く握りしめられているのを目にして、イドは困惑した。

「…もしかして、私の父親を手にかけたことを悔いて、私と顔を合わせ辛かったとか言い出すんじゃないだろうな」

「当たり前だろう!お前の実の父だぞ。俺がどうこうして良い相手じゃないだろうが」

「…っだからって何も連絡しないで勝手に一人でキューバに行くんじゃない!」

「先にカディスの部屋を出て行ったのはお前じゃないか!!俺は帰るつもりだった!!」

「っは、あ?」

 頭がくらくらしそうだった。何か言い返そうとしても言葉が喉につっかえて出てこない。ただ口だけがぱくぱくと金魚のように動く。

「帰ってみたら荷物が全部無くなってて、とっくに愛想が尽きたんだって、思って…」

 不安定に紡がれる言葉にイドは呆然とした。何を言われているのか理解するのに時間を要した。愛想が尽きたどころか七年間君のことしか考えてなかったよ、こっちは。視線を合わせようと顔を上げるが、コルテスはばつが悪そうに視線を逸らす。
 なんだこいつ。私を捨てたのは君じゃないのか。なんで私が君を捨てたことになっているんだ。
 脱力して何も言葉が出てこなかった。頬杖をついて、コルテスを視界から追い出す。ようやく、コルテスが此処を一時的な住処にしたのが偶然ではなく、イドに会いに行く決意の下で決めたのだと分かった。もしイドが行動しなかったら、彼からイドを訪ねただろう。どうして何も言わずにカディスを去ったのかと問いつめる為に。心配し、待ち続け、憎んで、死にたくなるくらい彼のことでいっぱいだった七年間は、一体なんだったんだ。殴りたくて仕方なかったが、向こうもそれは同じなのかもしれない。ふとイドは泣きたくなった。

 好きだと言った相手を、たった一つのすれ違いで憎んで、関係を消してしまいたいと願った。純粋な愛に溢れていた時代もあったのに、人間関係は呆気無いほど簡単に途切れてしまう。それでも、思い出だけは忘れることは出来なくて、延々と悩み続けるしかなくて。

 愛しい気持ちだけが絆ではないと知った分、確かに自分は大人になったのだろう。

「コルテス」

 イドはソファーから立ち上がると、コルテスの前まで歩く。顔を上げた彼とようやく目が合った。

「私の気持ちはあの時のまま…だと言ったら嘘になる。君のことを嫌いになりたいと思っていた時もあった」

「……」

「だが、もう一度やり直したい」

 曖昧な言葉を言ってもまたすれ違うだけだろう。まだ頭の中は整理されていないが、先に手を差し伸べるのは自分であるべきだと思った。コルテスは差し出された手をじっと見つめ、戸惑うように視線を外す。

「…もうお前に、俺は必要ないだろう」

「それは君が勝手にそう思っているだけだ。…君はどうなんだ」

「……」

「君に、私は必要ないか」

 子供の頃は怖くて聞けなかった台詞。幼い体ではコルテスを支えてやれないし、迷惑を掛けるばかりだと思っていた。だから早く大人になりたかった。昔、酔っぱらってコルテスが言った言葉が未だに胸に残るほど嬉しかったのは、自分が必要だと彼の口から聞けた気がしたから。
 コルテスは暫く顔を伏せたままだったが、ふと吐息を漏らすと僅かに顔を上げた。その表情を見て、イドは目を見開く。コルテスの顔が酔った時と同じくらい真っ赤だったからだ。

「…ここで照れるか、普通」

「うるせえ」

 投げ遣りな言葉が返ってきたかと思うと、差し出した手を乱暴に掴まれる。驚いて手を引っ込めようとしたら、思い切り引っ張られてコルテスの体の上に覆い被さった。

「…っコルテス」

「悪かったな。お前は違っても、俺はあの時のままだよ」

 逃げられないように背中に腕を回される。七年ぶりの感覚に、イドの心臓が跳ね上がった。剣を握る回数が増えたからか、昔よりもがっしりとしている。

「あの時のままってどういう意味」

「言わせんな黙れ馬鹿」

「なんでキレるんだ!」

 意味が分からない。抵抗しても無駄だと思い知ったので、イドは諦めて体の力を抜いた。照れ隠しのつもりなのか、コルテスはイドの腹に顔を埋めたままだ。もう三十路過ぎてるのになんだその行動は。
 心底呆れたという装いをして肩を落とし、腹に埋まる黒髪を撫でる。ぴくりと身動ぐコルテスの背中に、一気に胸が熱くなった。結局、彼と離れることは出来なそうだと自嘲する。きっとこの関係は明るいものだけではないのだろうけど、ふとした温もりが愛しく感じてしまうのだから救いようがない。

「……フェルナンド、私は今日泊まるからな」

 とりあえずこの状況から少しは先に進むべきだと、イドは苦笑しながら彼の名前を呼んだ。くぐもって聞こえた返事は少し上擦っていた。



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