(大人コルテスが少年イドさんを育てる話)


 まだ碌に言語で意思表示出来ない子供を自らの家に招いたのは、ほんの少しの気まぐれと、人並みの同情からだった。使用人の女の下で産まれた子供は、四男坊という事もあり、家族から厄介者として扱われていた。まだ産まれて数年しか経ってない幼い子供は、奴隷の様に働かされ、決して兄弟と同じテーブルで食事をすることを許されていなかった。コルテスが父親の後ろに並び、仕事の顧客だというその家に直接尋ねた時に、出迎えたのは泥塗れの子供だった。折れそうな足には靴さえも履かせてもらえない。小さな手のひらで一生懸命重い扉を引いて、拙いドイツ語で歓迎の意を述べる子供に、コルテスは全身の血が燃え上がるのを感じた。父親から深い愛情を与えられ、何の不自由も無く育ったコルテスにとって、その家の状況は理解し難いものだった。
 こんな扱いをするってことは、いらないって事だよな。なら、俺が貰っても問題ないよな。
 半ば奪い取るような形で、コルテス家は子供を引き取った。だのに子供の父親は厄介払いが出来たと喜び、兄弟達は新しい使用人を雇う様に父親にせがんでいた。誰一人として、子供が居なくなる事を悲しんだりはしていなかった。
 
「今日から、お前は俺と一緒に住むんだ」

「…なんで?」

「俺のとこなら、お前に靴を履かせてやれる。飯もちゃんとしたのが食べられる。何より、いつも俺が傍に居て見守ってやれるからだ」

コステスは幼い手のひらを、握りつぶさない様に柔く握った。家へ向かう馬車の中で、大きな瞳と目を合わせてゆっくりと話しかける。習ったばかりのドイツ語では上手く意思疎通を出来なかったけれど、彼の父親が手伝ってなんとか子供に理解させた。父親は彼の言葉の意味を汲み取り、小さく笑った。

「フェル、お前が父親代わりになるってことか?」

「そうだよ。悪いか」

「いや。私は孫が出来たみたいで大賛成だけどな」

 ぶっきら棒に返事をすると、「ちゃんと傍に居て見守ってやれ」と背中を叩かれる。コルテスはその痛みに苦笑し、照れ隠しに子供の髪をくしゃりと撫でてやった。味わった事の無い温かい感覚に、子供は不思議そうに目を瞬かせる。やがてガタガタと断続的に揺れる馬車の中の心地よさに眠気を誘われ、コルテスの膝の上に頭を乗せて深く眠った。
 

 それでもコルテスは学生だったからそれなりに忙しく、四六時中イドに構ってる事は出来なかった。仕事で忙しい父親は殆ど家に居らず、使用人に任せて広い家に置き去りにしてしまうことも多々あった。しかしイドは文句一つ言わずに、コルテスの言いつけに従った。我が儘を言ったら前の家と同じ様に直ぐに捨てられてしまうと思っているのだろうか、子供のくせに酷く聞き分けが良かった。
 コルテスは最初、その子供の我慢に気づいてやる事が出来なかった。素直な子だと、良い子だと褒めさえもした。彼が一人寂しく部屋の隅で泣いていることなど知らなかった。イドはコルテスが帰る時間帯になると、頬に伝っていた涙を綺麗に拭い去って、笑顔を浮かべて出迎えるのだ。だからたまたま午後の授業が休講になりいつもより早く帰ってきたコルテスは、睫毛を涙で濡らし、真っ赤な酷い顔で眠っているイドの様子に困惑した。慌てて幼い体を抱きしめ「ごめんな」と何度も謝ると、イドは眠たげに顔を上げ、そしてその瞳の中にコルテスを認めると、堰を切ったように涙を溢れさせた。

「イド、我が儘を言うことは、その人と仲良くなるってことだ」

 コルテスはイドにそう教えた。愛を知らない子供に、コルテスは自分の知っている愛をたくさん分け与えた。いとけない頬を伝う涙をそっと拭い、前髪を掻き上げて額にキスをした。

「俺はイドを見捨てない。どんなにイドが我が儘を言っても、絶対に手放したりしない」

「…なんで?」

 イドは出会った時と同じ疑問を繰り返した。彼は幼いながらに「絶対」の意味を疑っていたのだろう。其処に確固とした理由付けをしなければ、その言葉の意味を信じなかった。

「俺が、イドの事が大好きだからだ」

「…いどに、好きになるところなんてないよ」

「それはイドが決める事じゃないだろ」

「だって…」

 言葉を次ぐイドの唇を、人差し指で制した。コルテスはにっかりと笑って、怖々見上げてくるイドの体を抱きしめた。

「俺の我が儘なんだよ」

 柔らかい頬をむずりと掴んで、唇を尖らせたおかしな表情のイドを笑いながらコルテスは言った。イドは真っ赤な顔をさらに赤くして、顔を伏せると何も喋らなくなった。彼が照れているのだという事は、袖を掴む指の強さで分かった。
 それからイドはコルテスの講義が終わる時間まで、大学の外で時間を潰す様になった。講義の時間は使用人がイドの面倒を見てくれていたし、休み時間はコルテスも頻繁にイドに会いに行ってやれた。広場で一緒に昼食を取った時には友人達にからかわれたが、本来陽気な性格なのかもしれない、イドは直ぐにその友人達とも打ち解けていた。大学が終わった後は帰り道に川に寄ってみたり、星を見たりしたりして二人の時間をたっぷり作った。その頃になるとイドは何をしたいのか口にするようになり、コルテスは出来る限りその要望に応えてやった。
 そうやってお互いに遠慮が無くなるまで距離を埋めていき、出来るだけ一緒に時間を過ごそうと努めた…が、そう思っていたのはコルテスだけだったようで、イドが13歳になる頃には一人で黙って何処かへ行く様になった。

「あ、おいフェルナンド!人の部屋に勝手に入るな」

「俺が与えた部屋なんだから元は俺のだ。つまり俺には中に入る権利がある」

「何が「俺の」だ。所有権は君の父君にあるだろう!大体君は何事にも干渉し過ぎなんだ!過保護な親は嫌われるぞ!」

「お前が一人でこそこそしてるから気になるだろうが」

「あのな、この年頃なら一つや二つ隠し事くらいあるだろ。いい加減放っといてくれ」

「彼女か?」

「うるさい!」

 部屋の前で押し問答を繰り返し、ついに苛立ったイドがコルテスを扉の向こう側まで追い遣った。音を立てて閉められる扉に、コルテスは苦笑に似た溜息をつく。夕食には出てくるようにと扉の前で言付けて、その場を後にした。
 イドはそれなりに有名な大学を行き来する男達と接してきたからか、とても聡明で口達者な人間に育った。彼を古くから知る父親や友人達はコルテスが育てたとは思えないと口々に失礼な事を言っていたが、それは一番コルテスが感じている。コルテスはとっくに大学を卒業したが、イドは時々一人で大学へと出かけて行って広場で飛び交う最新のニュースに耳を傾けているようだ。最近大学は新大陸の発見のニュースで溢れ返っていた。豊富な金銀、豊かな自然と大地、見た事の無い交易品。実りの少ない土地の上で生活してきたこの国の人間にとって、海の向こうは楽園のようだった。勿論コルテスも話に目を輝かせていた。海を渡るだけで、一生を保証出来る程の財産が手に入るのだ。しかし、コルテスは遠戚の一人が新大陸へ行く話を持ちかけてきたとき、それを拒否した。コルテスには、イドが居た。まだ成熟しきっていないイドを連れて知らない土地へ行く事は出来ないし、まして置いて行く事など考えられない。

「そりゃ、イドさんはすっごく可愛いですよ」

 でも折角の機会なのに勿体ない!とベルナールは真正面からコルテスを非難した。彼は、コルテスと共に新大陸へ行ける事を心待ちにしていたのだという。酒場で堂々と本人の前で愚痴るのは如何なものかと思うが、彼の気持ちも分からなく無いので、コルテスはその文句を反論せずに受け止めていた。
 イドは今頃また一人部屋に閉じ篭っているのだろう。しっかり鍵も掛けているので、何をやっているのか全く分からない。引きこもっているだけでなく、それなりに外に出て友人達と交流しているのであまり気に留めない様にしているが、コルテスと顔を合わせる頻度は段々と無くなりつつあった。思春期ってめんどくせえ、とコルテスは顔を歪める。

「可愛いけど、昔の方が可愛かったよ。小さい手で俺の服の裾を引っ張るんだ。ドイツ語で『構って』って言ってるのが分かった時にはすっげー嬉しかった。でも此方の言語覚えてからは嫌味しか言ってこない」

「そう言いながらちっともこの国から出ようとしないんですから、コルテスも大概子煩悩ですよね」

「…昔約束しちまったからな」

「何をです?」

 興味本位にベルナールが尋ねてくるが、コルテスは肩を竦めるだけで答えようとしなかった。誤摩化す様に酒に手を付け、飲み干す。

「別にお前だけ行っても良いんだぞ、ベルナール。俺はお前が居なくても何ら困らない」

「素直じゃないですね。私もイドさんの可愛さが愛しいので、彼が独り立ちするまで此処に居ますよ」

「…お前の嗜好にイドを付き合わせねーぞ」

「そういう意味じゃないですよ」

 顔を青くして睨みつけるコルテスに、ばっさりとベルナールは返す。酔ってるなと思ったが、口にはしなかった。

「フェルナンド・コルテス殿ですか?」

 一頻り酒を酌み交わしていると、見覚えのない人間に声を掛けられた。コルテスは口付けたグラスをテーブルに置いて、訝しげに顔を上げる。テーブルの向こう側に立った男は、特徴のある訛った話し方をして、この国ではあまり見掛けない奇妙な服装をしていた。興味を持って男の言葉に頷くと、「嗚呼良かった」と彼は安堵の表情を見せた。

「私、エーレンベルク家の使いの者でして。其方にイドルフリートが世話になっていると聞き、お訪ねしました」

 コルテスは表情を一変させた。椅子が倒れるのも構わずに、男に掴み掛かる勢いで立ち上がる。

「世話になってる?イドは元々俺の子供だ。エーレンベルク家の人間が今更何の用だ」

 エーレンベルク。忘れもしない姓だった。コルテスの父親の商売相手であり、イドを奴隷の様に扱い、あっさりと捨てた家だ。コルテスは体中の血が沸き立つのを自覚する。しかしベルナールが必死に宥めたのもあり、努めて冷静に男に言い放った。男は彼の押さえきれない怒りを見抜き、薄く笑みを浮かべて穏やかに話す。

「そんなに逆上しないでください。あなた方にも良いお話を持ってきたのですから」


 
 家に帰ると、使用人の代わりにイドが出迎えた。どんな心変わりだと苦笑したが、彼は無言でダイニングへと踵を返した。傍に控えていた使用人によると、もう夕食の準備は出来ているらしい。暇つぶしに寄った酒場で長居し過ぎてしまったようだ。食事は一緒に取る様にイドに言付けているから、長時間待たせていた事になる。「ごめんな」と軽く頭を撫でると、「頭を撫でるのはやめたまえ」と拗ねた返事が返ってきた。

「フェルナンド、もう私に構わなくていいぞ」

 夕食中、カチャカチャと食器の音が静寂に響き渡る中で、ぽそりとイドは呟いた。言われた言葉の意味が理解出来ず、コルテスは固まる。

「なに、言ってんだよ、お前」

「新大陸に行きたいんだろう?私に構わず行ってくれば良いと言っている。折角のチャンスを泥水に捨てるのは勿体ないし、私には君を縛る権利はないと思うよ。君が私を拾ったのだって、一時の感情の勢いだったんだ」

「……おい、イド」

「私ごときの為に夢を無駄にすることはない。厄介払い出来る家も見つかったんだ。此処で終わりにしよう」

「イド!!!」

 ガンッとフォークの柄をテーブルクロスに叩き付けた。ダイニングルームに響いた尋常ではない音に、控えていた使用人が肩をびくつかせる。しかし、コルテスの怒りの対象は全く動じていなかった。無表情を崩さず、激昂するコルテスを見据える。
 重い沈黙が流れた。テーブルクロスを突いたフォークをゆっくりと其処に置き、コルテスはイドを睨みつける。

「…お前、酒場に居たな」

「ああ。君がベルや、私の父上が寄越した男と話していた内容は、大方聞いた」

「父上とか言うんじゃねえ。お前を捨てた親だぞ」

「だが、父には変わりないだろう?」

 コルテスは目を見開いた。その言い方、まるでその男の元に帰りたがっているようではないか。イドは器用に鳥の肉を捌き、ソースと絡めて口の中に入れた。口に含めた肉を噛み、飲み込んだ所で漸く沈黙を破る。

「…君には感謝している。だがもううんざりなんだ。約束は無かった事にしてくれたまえ。これが、私の最後の我が儘だ」

「ふざけるなよ。勝手に決めやがって…」

「…こう言えば分かるか?」

 イドは肩を竦め、年上である筈のコルテスに向かって諌める様に言葉を紡いだ。

「本当の家族の元へ帰りたい」

 真摯に告げられた言葉にコルテスは押し黙った。子供の頃に何度も目を合わせた大きな瞳は、今では何かに諦めたかの様に細められている。長い睫毛の下に隠れた碧は一瞬コルテスを捉え、直ぐに伏せられた。コルテスが何かを言おうと口を開く前に、ガタンと大きな音を立てて席を立つ。少ししか手を付けられてない食事に使用人達が慌ててイドを引き止めようとしたが、彼は全く取り合わなかった。早々と部屋を出て行ったイドの背中は完全にコルテスを拒絶している。結局何一つ声を掛けてやる事も出来ずに、コルテスはその背中を見送った。


 何が最後の我が儘だ。ふざけるな!
 一方的に振り払われた繋がりに、コルテスは憤りを隠せなかった。イドへ注いだ時間や愛情は何だったのだろうか。独りになるのを怖がってコルテスにしがみ付いてくる小さい手のひらが、何にも代え難い宝物だった。あんな風に拒絶されたら、あの日半ば無理矢理イドを家族から引き離した事も、全て余計な事だった様に思えてくる。確かに、コルテスにとって新大陸に行く事は夢だった。しかしそれは、傍にイドが居るからこそ成り立つ夢だ。コルテスはイドが可愛くて仕方なかった。体が成長して、たくさんの知識を身につけ、物言いがきつくなったかもしれない。だが、黄金の髪も海の色をした瞳も何一つ変わっていない。コルテスにとってイドはいつまでも可愛い息子だった。そんな大切な家族を厄介払いだなんて考えた事も無い。しかし頭で何度も繰り返した言葉は、イド本人を前にすると出てこない。彼自身が此処を出て行きたいと望めばコルテスに拒む理由は無くなる。十数年一緒に暮らしてきた思い出は、血の繋がりには勝てないのだと、イドの投げ遣りな視線を受け止めて実感した。
 コルテスは酒場で男に言われた言葉を脳内で反芻する。エーレンベルク家にはイドを含めて四人の跡継ぎが居たが、イドが屋敷を出て行った途端、上の兄弟三人が病気で次々と倒れたのだと言う。黒死病なのだそうだ。父親は無事だったが、息子達はあっという間に死んで行った。跡継ぎが死んだ事で、エーレンベルクの名を継ぐ者が消え去り、父親は苦悩した。養子を取る事も考えたが、ふと彼は其処で思い出したのだ。息子達が死ぬ前に訪れた異国の商人達を。彼らが引き取った自分の血を継いだ子供を。酒場に訪れた男は、コルテスがイドの世話の為に新大陸に行く事を断念したと知っていた。夢を叶える為に、イドを手放せと告げてきた。
 酒場の男も、イドも、何にも分かっていない。そんな生半可な気持ちで育てたわけではないのだ。こんなあっさりと別れが来ていい筈が無い。だのに手を伸ばせないのは何故なのか。拒絶されるのが怖いからか。


「イドさんは馬鹿です。本物の馬鹿です!イドさんを手放すコルテスの方が十万倍も馬鹿で救いようが無いですけど、自分を捨てた薄情者の息子になってやる必要なんて無いじゃないですか!」

「聞こえてるぞベルナール」

「なら追いかけたらどうですか!!?」

ベルナールはキッと目を鋭く尖らせてイドが乗って行った馬車の方向を指差した。荷物を馬車に乗せて、使用人や友人達に別れの挨拶をする中で、コルテスは一度も屋敷から顔を出さなかった。イドは一度寂しげに屋敷の窓を見上げたが、部屋を遮るカーテンを視界に入れると、諦めて視線を落とした。彼は今まで親しくしてくれた友人達に熱く抱擁すると、一礼してエーレンベルク家の使用人とともに馬車に乗り込んだ。イドの乗った馬車が道路の向こう側へ消えた後、居なくなった事を確認しに外に出てきたコルテスに、ベルナールは我慢出来ずに怒鳴った。

「あいつの決めた事だ。俺が兎や角言う事じゃねーだろ」

「あんたそれ本気で言ってるんですか」

「あ?」

「イドさんに、絶対に手放さないって約束したそうですね」

「…なんでお前がそんなこと」

「イドさんに聞いたんです。何が『兎や角言う事じゃない』ですか!イドさんがどんな思いであんたと過ごしてきたのか知らないくせに!」

 最後の方は涙声で突っかかりながら告げたベルナールは、コルテスの胸元に拳を突き付けた。何か握られた拳に、コルテスは訝しげにそれを解く。手のひらに触れた感触は金属だった。鍵の形をした小さなそれは、イドが此処に来る初日に、彼の部屋と一緒にプレゼントしたものだ。

「イドさんの部屋の鍵です。彼が今まであんたに隠れて何をやっていたか、ご自分で確認してきたらどうですか」

 ベルナールはそう次ぐと、顔を上げたコルテスを睨みつけて門の外へ出て行った。ずっと握りしめていたのだろうか、手のひらに収まる鍵は熱が籠っている。
 コルテスが初めてこの鍵をイドに渡したとき、イドは鍵の用途が分からずあちこちを触って確かめていた。コルテスは彼を部屋の前まで連れて行き、実際に鍵を開けて使い方を教えてやった。今まで何にも持っていなかった子供に、「所有する」という観念を教えてやりたかった。外から持って帰ってきた宝物を、その部屋に置いておけば良いと思った。その為に渡した鍵は、イドが成長するにつれて「隠し事を閉じ込めておく」為に使われ始めたと、コルテスは思っていた。コルテスが知らない顔を、イドはこの部屋の中にたくさん持っていた。
 実はそうではなかったと、コルテスは再び手中に戻った鍵を通して知った。イドの部屋の前まで移動し、数十年ぶりに鍵を開ける。ガチャリと重い手応えが腕に響いた。取っ手を回して、扉を開く。軋んだ音を立てて開かれた世界は、想像だにしていなかった物で溢れ返っていた。数字がたくさん描かれた羊皮紙。三角定規、双眼鏡、誰かから借りたのか、随分古びた地球儀。コンパス。あちこち方位線が描かれた海図。まるで、この部屋だけ海の上に居るかのようだった。数字やグラフ、文字がびっしり書かれた本は机の上に積み上げられ、殆どが大学にあったものだ。他にも、航海学の講義の内容をメモった落書きなどもたくさんあった。イドはコルテスの知らない所で、友人達のコネを使い、大学で航海学を学んでいたのだ。全ては、コルテスの「新大陸へ行ってみたい」という夢を追いかける為に。

「…っあの、馬鹿!!」

 扉を閉める事も忘れ、コルテスは屋敷を飛び出した。馬小屋から愛馬を引っ張り出し、腰に剣を備えて股がる。使用人が慌てた様子で引き止めようとするが、構わず馬の脇を蹴って門の外へ駆け出した。
 



 フェルナンドに言い放った言葉は、嘘じゃない。
 イドは馬車に揺られながら、ふとそんな事を考えていた。ガタガタと整備されていない道を行く馬車の振動は、コルテス引き取られた日の事を明確に思い出させる。環境が変わる事も理解せず、ただ「移動している」という事実だけ認識していた幼いイドは、優しく髪を撫でる男の体温がひたすら温かくて膝の上で眠った。コルテスの父親も、コルテスも、使用人達も、前の家に比べれば見違えるほどに温かく、本当に自分の居場所は此処で良いのかと狼狽えてしまった。
 イドにとって、コルテスは全てだ。しかし、コルテスにとってはそうではない。彼の視界には、たくさんの世界が広がっている。イド以外にもたくさんの物に触れている彼は、様々な物に魅了されるだろう。最初はイドも、その背中を追いかけていたかった。コルテスが見据える世界を、自分も見てみたいと思った。コルテスと共に大学へ行き来する時期、街には色んな出来事で溢れ返っていた。特に「新大陸」という単語が、何よりも一際輝いているように思えた。そしてコルテスが新大陸に行くことを望んでいると知るのに、そんなに時間は掛からなかった。ずっと一緒に居るから、彼が何を考え、何を望むのかくらいは、分かっているつもりだ。イドはコルテスの背中を追いかける為に、彼に内緒でたくさん勉強した。いつか彼の船の航海士として乗せてもらえる様に、彼の友人達に頼み込んで我武者羅に机に向かった。

(もしかしたら私は、彼に同等に見てもらいたかったのかもしれないな)

 イドは窓に髪を擦り寄せて景色を見た。視界に映るのは鬱蒼とした薄暗い木々のみで、青くて広い海とは似ても似つかない。
 コルテスに言い放った言葉は嘘じゃない。イドは、彼の子供扱いにうんざりしていた。何かあれば頭を撫で、可愛いと繰り返すその行為が嫌だった。彼の子供のままだったら、どんなに勉強したって新大陸には連れて行ってもらえない。だからイドは努めてコルテスには冷たく当たろうとした。それは、彼なりの大人の対応だった。好きだからこそ、隣に並びたいからこそ、イドは極力コルテスの傍に居る事を避けた。しかし、物事は上手く進まない。どんなに勉強したって、彼はイドのことを大人扱いしなかった。だが、それだけなら、まだ我慢出来たかもしれない。

「イドルフリート、少し眠りなさい。馬を変えるまで、時間がかかる」

「…眠れないんです」

「あの男の事なら、もう忘れなさい。君を捨てた男の事など、覚えていても辛いだけだろう」

「………」

 男の言葉に、イドは押し黙った。溜息をついて目を瞑る。それでも浮かんでくるのはコルテスの事ばかりで、暫く眠気が訪れる気配はなかった。彼と出会い、乗り込んだ馬車の中ではあんなに安らかに眠れたのに不思議なものだ。イドは自嘲気味に笑って、顔を伏せた。
 多分、そうなのだろう。新大陸に行くという夢の為に、コルテスはイドを諦めた。コルテスの夢の為に我武者羅に努力したつもりだった。しかし子供であるという一点で、連れて行ってもらうことは不可能で。
 「昔約束しちまったからな」と酒場で嘆くコルテスの言葉が胸に突き刺さる。それは「イドを絶対に手放さない」とコルテスが幼いイドに誓った約束。幼かったとはいえ、イドも鮮明に覚えていた。昔はあの言葉で酷く安堵したけれど、今となってはコルテスの重荷でしかないということを、あの日明確に知った。ならば、自ら手放そうとイドは思った。捨てられるくらいなら、自分から去った方がコルテスの負担にならないし、自分も傷つかない。イドは大人になりたかった。コルテスの隣に並びたかった。コルテスの重荷になり、縛る事しか出来ない絆なら、初めから無かった事にしてしまった方が、気が楽だった。

「……っ!!?」

 その時、ガタンッと馬車が大きく揺れ、イドは前のめりになりそうな体を必死に支えた。視界には見えない、二頭の馬が哮る。蹄が土を無意味に踏みならす音が木霊した。いきなり急停止した馬車に、イドの隣に居た男は訝しげに窓から顔を出す。「おい、何事だ!」と御者に怒鳴るが、馬車の前に立ち塞がる影を認めると息を呑んだ。
 
「こんばんは。フェルナンド・コルテスと申します。イドルフリートを迎えにきました」

「…フェルナンド…!?」

 その声に、イドは立ち上がった。男を押しのけて窓を覗き、その勢いで扉を開く。コルテスは馬から降りると、これ以上無い程大きく目を見開いて見上げてくるイドに、眉を少し下げて笑い返した。

「なんで、…わざわざ追いかけてくるんだ。ド低能が…!」

 コルテスの表情を視界に入れて、折角吹っ切れようとしていた感情が頭を渦巻き、痛いほど心臓が悲鳴を上げる。イドは半ば懇願する様に叫んだ。何時間も掛けて固めた決意を一瞬で踏みにじられていく。その双眸には涙さえ浮かんでいた。

「私は君の家に帰りたいなんて、一度も頼んでない!」

「はぁ?お前の要望なんて知るかよ」

「…なっ!」

「お前を素直に見送れない理由が出来たんだ。悪いが、一緒に帰ってもらう」

 先程と表情を一変させて、コルテスは口角を緩やかに釣り上げた。唇が弧を描き、居丈高に告げる。その表情を、イドは見た事が無かった。コルテスがイドに見せる表情はいつも優しげで、時折困ったように目を柔らかく細めるのだ。イドは言葉にし難い違和感を抱きつつも、双眼を見開いてコルテスを捉える。だがその高圧的な瞳を向けられると、耐えきれずに俯くしかなかった。少しも揺るがない声で告げられた言葉は、イドの精一杯の拒絶を飛散した。
 イドの手のひらとは比べ物にならない大きな手が、するりと腰の剣を舐める様に撫でる。鋭い黒曜石が子供から男に向けられた時、睨め付けられた男は哀れなほど狼狽えた。得物を手にするのも忘れて一歩一歩後退する。

「そういう訳で、悪いな。イドルフリートは俺のもんだ」

 ほんの少し抜かれた剣の刃が、木々の隙間から入り込んできた光を反射した。音を立てて鞘から引き抜き、土を踏みならして男に近づく。事態に気づいた御者が、暴れる馬を御して森の奥へと繰り出した。馬の嘶きが木霊する中、「イド、こっち見んな」と低くコルテスは紡ぐ。振り返る事無く言葉を紡ぐ背中は、酷く重く鼓膜を揺さぶった。

「…くっ来るなァ!!」
 
 その声に、漸く男は武器を手にすることを思い出した。吠える様に叫んで威嚇するが、コルテスは応えない。男が懐から取り出した銃はカタカタと音を鳴らして震え、銃口はあちこち好き勝手な方向に揺れ動く。イドはコルテスの言葉を脳内で反芻し、意味を汲み取って目を瞑ろうとしたが、視界が暗くなる瞬間に鮮明な赤が眼に映えた。聴覚が銃声と肉の裂ける音を認識したのは、そのすぐ後だった。


 馬の蹄が土を蹴る音が、気まずい静寂に響く。気性の荒い愛馬は不満だろうが、一度馬を止めて話し合う時間を作るべきだろうなあと何度かコルテスは思案していた。しかし向き合った所で言葉は出てこないのは分かりきっているので実行に移せずにいる。むっつりと黙りを決め込んだイドが何を考えているのか分からない。腰に添えられた手のひらが、時折ぎゅっと服を掴んでくるのが気になって仕方なかった。何か言いたい事があるけれど言い出せない。そんな彼の心情を表しているようだった。

「…俺の事、怖くなったか」

「…別に」

 ぼそりとイドは呟いた。返事があった事に一先ずコルテスは安堵する。強がりかもしれないが、イドは彼の言葉を否定した。

「嫌なもの見せちまって、ごめんな」

「なんで謝んの」

「だって怖かっただろ」

「怖くないって言ってるだろ」

「無理すんなよ、体震えてんだよ」

「寒いからだド低能」

「この真夏に何言ってんのお前」

 コルテスの腰に巻き付く腕の力が、一層強まった。触れられたく無い事のだと察して、コルテスは溜息をつく。人を見下すような物言いを覚えてしまったが、まだ中身は13歳の少年なのだ。血を見て恐怖を感じない訳が無い。

「…怖くない」

 コルテスの背中に顔を埋めて、イドは低く紡いだ。無性にその髪を撫でてやりたいなと思ったが、馬を操ってる状態で不可能だし、何よりイドが嫌がるだろう。代わりに腰を掴む小さな手のひらに軽く触れてやった。ぴくりとイドの指先が反応して、背中に埋めた顔が僅かに上がる。

「………フェル」

「ん」

 軈てイドがコルテスの愛称を呟く。幼い頃に聞いた懐かしい甘えの声に、コルテスは出来るだけ耳を傾けた。返事をして促したが、イドは次の言葉を紡ぐのを少し戸惑っているようだった。ぎゅ、と布を掴んだまま手を固く握り、再びコルテスの背中に頬を寄せる。

「私は…たぶん、君のことが好きなんだ」

 コルテスは目を見開き、数回瞬きした。間抜けな声を出したのだろうか、イドはくく、と子供らしくない笑い方をする。

「びっくりしただろう」

「……その…イド、好きってのは、どういう」

「…君を父親とか、兄弟だなんて思いたく無かった。家族っていうのも、嬉しかったけど…もっと別の物で繋がっていたかったんだ。だから、多分…そういう意味」

「………」

「君に子供扱いされるのがうんざりだった。君の重荷になるのも嫌だった。君の夢に寄り添えるくらい知識や体力を身につけたら、認めてくれるんじゃ無いかって思ってた」

 失敗したけど、とイドは自嘲する。その言葉に、コルテスはイドの部屋の光景を思い返した。驚異的なまでに積み上げられた知識の山。何かに捕われたかの様に綴られていた努力の跡。それら全てが、自分への恋心の為だとは予想だにしていなかった。

「失望したか?…可愛い息子になりきれなくて、ごめんな」

 コルテスの沈黙をどう取ったのか、イドはぎこちなく笑った。

「…私は、ね…フェルナンド。君の隣に、並びたかったんだ…。ずっと、君に追いつきたかった。君みたいになりたくて、君の役に立ちたくて…、その為には重荷になってなんかなれなくて、君の子供を卒業出来るのはいつだろうって、ずっと待ってて…」

 最後の方は言葉になっていなかった。イドは嗚咽になりそうな声を必死に喉の向こうへ追い遣って、閊え閊え想いを零す。自嘲気味に笑っていた表情も強ばり、コルテスの背中に押し付けて誤摩化した。じわりと背中が汗ではない物で濡れる感覚がして、コルテスは息を呑む。イドが泣いたのは本当に久しぶりだった。今までどれだけの想いを人に伝えず溜め込んでいたのだろうか。そう考えてしまうほど、イドは時間を掛けて、たくさんの事を吐露した。

「イド。俺もな、お前に言ってなかった事があるんだ」

 引き攣った声に耳を傾け、コルテスは小さく言葉を落とす。それにイドは僅かに顔を上げた。

「…なに」

「遠戚の新大陸に行く誘いな、アレ断っちまったんだけど、チャンスが完全に無くなったわけじゃないんだ。新大陸に行きたがってる船なんてこのご時世ごまんとあるしな。だから今度、カディスに行くつもりだ。あっちには此処よりも新大陸の情報が集まってるらしいから」

 いきなり突拍子もない話を始めるコルテスに、イドは首を傾げた。話の意図が分からずに無言になる彼の様子がおかしくて、コルテスは小さく笑う。

「お前にも、ついてきてもらおうと思う」

「…は」

「帰還した兵士や有能な航海士だってたくさん居るぞ。お前の航海学もいずれ役に立つだろうな。一緒に来るだろ?拒否権は無いけど」

「…いや、だって…きみ」

「不満か?」

 掠れた声が困惑に揺れる。突然の問いかけにどう返答すれば良いのか分からないのだろう。背中を押す為にコルテスが意地悪く尋ねてやると、むきになった声が返ってくる。

「不満なわけあるか!」

「よっしゃ!じゃあ決まりだ!!」

「…わっ!?」

 コルテスは勢い良く手綱を引いた。馬が驚いた様に体を跳ね上げるが、物ともせず宥めてやり足を止めさせる。彼の背中にいるイドは突然揺らいだ支えに驚いて目の前の腰にしがみついた。向けられる非難の視線にコルテスは笑みで返し、その体を正面から抱きしめてやる。驚きに跳ね上がった肩を撫で、旋毛に鼻を埋めた。

「言っただろ?どんなにイドが我が儘を言っても、手放すつもりは無いんだよ」

 耳元で低く囁くと、イドは擽ったそうに身を捩る。それさえも許さずに固く抱きしめると、諦めたのか緩く背中に腕が回った。ゆっくり息を吸うと、何処か甘い香りが鼻孔をくすぐる。嗚呼、イドの匂いだ。そう思いながら、背中を流れる髪を解いた。イドはコルテスの大きな胸板に頬を寄せながら、あの時馬車で感じた温もりを思い出して、静かに瞼を閉ざした。

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