セヴンス・ヘヴン・ボイルド・ガールズ1 | ナノ
※再録
※伊武♀→神尾♀・桜石桜♀♀・内森内♀♀
※橘きょうだい→それぞれ女体化・男体化


01


 尾ひれ背びれをつけた根拠の無い噂が、教室内を泳いでゆく。しかしそんなものなど気にも留めぬ甲高い声は、今日も絶好調に鼓膜の中へと雪崩れ込んでくるのだった。
「それでさ、その時、コーナーギリギリを突く杏くんのショットが炸裂してさ! あたし本当に、ずっきゅーんって!」
 二十九回目。本日神尾の口から飛び出したそのワードを、舌の上だけで刻む。三十に差し掛かろうとしても尚、喧しく上下する唇は止まる気配を見せない。
「あー、マジでもう、杏くんってどうしてあんなに格好良いんだろ!」
 ついに大台に乗ったその名にうんざりとした気持ちも隠さず、伊武はしばらくぶりに口を挟んだ。
「そんなに好きならさ、昼休み私なんかのとこに来るのやめて杏くんのとこ行けばいいでしょ」
 この台詞を吐くのも、もう何度目だろうか。いい加減神尾とて聞き飽きていてもおかしくないにも関わらず、彼女は今日も今日とて律儀に顔を赤らめては「出来ねぇから深司んとこいんだろーが!」と両手で頬を仰ぐ。
 アシンメトリーの前髪からぎょろりと覗く目が、ぱちぱちと瞬かれる。右耳付近にきらりと光るのは件の少年に貰った髪留めだ。腹の底にもわりとした靄が溜まる。
 何を返すでもなく鼻を鳴らし、伊武はそっと席から立ち上がった。
「どこ行くんだよぅ」
「トイレ」
「あたしも一緒行くー」
「さっき行ってたじゃん。続きは石田にでも話してきなよ」
「えー。やっぱ石田も聞きたいかな?」
 隣の机上に我が物顔で居座っていた神尾は、伊武の言葉にぱっと表情を明るくさせる。やがてひょいと飛び降りると、頬をうっとりと両手で覆った。短く折られたプリーツスカートが視界の端で揺れる。自分のものより随分と短い。
「少なくとも、私よりは」
 ちらりと教室の真ん中に目を投げ、別の友人グループと弁当を広げている長身の少女を見やる。
 和やかに会話を交わす石田は、男女問わずクラスメイトの誰からも頼りにされる好人物だ。伊武とて彼女のことは信頼の置ける数少ない友人だと思っているが、大きな輪に入るのは苦手だった。その為、昼食を彼女と共に取ることは割合少ない。マイペースに少人数で、或いは一人で弁当を広げていることが多かった。
 石田は度々自分のことを気にかけてくれるが、同じ部だからというだけで気を遣わせてしまっているのならば心苦しく思う。だが、人の好い彼女は何の含みもなく、自分とも昼食を取りたいと思ってくれているだけなのだろう。わかってはいるのだ。ひねた所感の問題だった。
 早々に昼食を片付けた神尾が二組の教室に顔を覗かせる頻度は、彼女が『杏くん』に恋慕の情を抱くようになってから殊更増えたように思う。
 ポーカーフェイスだの何を考えているのかわからないだのとしばしば評される伊武だが、幼馴染みに件の話をされる時程、生まれ持った表情筋の硬さに感謝することはない。
 溢れんばかりの瑞々しい思いを恋慕する相手を除いた周囲に日々散水している神尾だが、自身に向けられる好意には酷く鈍感である。事実、伊武の抱え続けている濛々とした恋情に、彼女は一度たりとも察しを巡らせたことすらない。神尾の無知は、今日も一人の少女の意識を無自覚に暴力に晒していた。
 三十回のカウントをゼロに戻しながら、伊武は長い黒髪に指を巻き付ける。明日は、今日の記録を抜くのだろうか。想像して、奥歯をじんわり噛み締めた。
 机を寄せ合い弁当を広げる輪の中に無遠慮に踏み込んでゆく後ろ姿を見つめながら、伊武はさっさと教室を後にする。
 ――石田ごめん。今度、コンビニでメンチカツ奢るから。
 心の中だけで唱え、廊下を進んだ。もっとも、石田は神尾の話を最初から最後まで律儀に相槌を打ちながら聞いてやってくれることだろう。彼女の真摯な性分を利用するのも、これで何度目になることか。
 冷気が頬を撫でる。窓から覗く空には、白い鱗が無数に散っていた。秋が、憂鬱を加速させているのだろうか。センチメンタルな感懐に笑えて、伊武は口端を歪に持ち上げた。
 神尾アキラという少女に他の誰とも異なる感情を抱いている、と気付いたのは、中学に上がってからのことだ。しかしその思いを初めて募らせたのは、もうずっと前のことになる。
 保育園は同じだったものの、校区の関係で小学校は離れることになった。波長が合うわけでもなければ性格が合うわけでもなかったが、今から思えば、互いに無いものを互いが補い合えるような、そんな関係性は出会ったその時から始まっていたのかもしれない。心地好い関係は学校が別れてからも続き、小学生時代も時たま一緒に遊ぶことがあった。
『アキラはブスだから、けっこんできなくてかわいそう。だからわたしが、けっこんしてあげる』
 そんな憎まれ口を叩いて喧嘩になったのは、小学二年生の夏休みの話だ。
 うだるような暑さの中、三歳の頃に彼女と出会った公園で、二人日陰のベンチに並んでアイスを食べていた。神尾はソーダ味の棒アイスで、自分はバニラ味のカップアイス。全て、全て鮮明に覚えていた。今日まで一度たりとも忘れたことはなかった。それこそが思いの裏付けになっているようで、ふつりと腹が立つ。
『びじんだからって、なにいってもゆるされるとおもうな!』
 怒りで顔を真っ赤にさせた神尾に、思い切り掴みかかられたことを覚えている。今より随分と短かった髪の毛をぎゅうと両手で掴まれ、ベンチに張っ倒された。今と変わらぬ細っこい体付きをした神尾。その頃から誰よりも一歩が早かった彼女は、伊武が何か言うより先に、持っていた棒アイスを口に突っ込んできたのだった。
 当時から、口が立つのは伊武のほうだった。それがわかっているから、神尾は口喧嘩に持ってゆくまいとしたのかもしれない。喋れなくなったまま、幼馴染みの顔をじっと上目に睨んでやった。小豆色の髪の毛に隠れた三白眼は酷く激昂していた。
『あやまるまで、アイスだしてやんねぇもん!』
 出してくれなければ謝れない。そう返すことも出来ず、伊武はただぼんやり、地面に落としたカップアイスが溶けてゆくのをもったいなく思っていた。じりじりと照り付ける太陽が、緑葉の間から神尾の白い肌を焼いていた。
 ――やっぱりアキラは、あたまがわるい。
 そんなことをぼうっと考えた後、伊武はソーダ味の氷の塊を思い切りよく噛み砕いてやった。あっ、と神尾が声を上げて棒を引いた時には、水色の大きな長方形はほとんど伊武の口の中で溶けて消えてしまっていた。
 今から思えば、当時の自分たちがどの程度『結婚』という言葉を理解していたのか、わからない。
 ただ、自分が神尾にどうしてそんな台詞を吐いたのか。そこだけは、よく覚えていなかった。だが、よく覚えていないことこそが問題であると伊武は思う。何か意図や含みがあって出した言葉でないのなら、即ち何の障壁も無い透過された感情を声に出してしまったということだ。そんなものを当時から彼女に抱いていたのだとすれば――考えて、少しぞっとする。
 中学で再び学校を同じくし、さらには同じ部に入ったことによって、小学生時代よりも格段に共に過ごす時間が増えた。するとそのうち、海馬の奥底で眠っていた記憶に苛まれるようになった。それは神尾に恋慕の情を抱いているという事実の裏付けにほかならなかった。鮮明な記憶は、認めたくないという葛藤についに打ち勝ってしまったのだ。
 神尾はきっと、その時のことを微塵も覚えていないだろう。何度も繰り返してきた喧嘩の一つとして、彼女の中ではとうの昔に風化されてしまっているはずである。
 だが万が一にも、憤りの感情としてでもいいから、彼女の海馬に何か引っかかりは残っていまいか。激昂する幼い瞳を思い出しながらそんなことを考えてしまう自分は、ほとほと参ってしまっているようだ。
「……気持ち悪い」
 ひとりごち、足早にトイレへと駆け込む。利用者の少ない遠いほうまで足を伸ばしたのは正解だった。誰も居ないことに安堵する。ここなら、神尾が来る心配も無い。
「……ぇ…っ……」
 洋式便器を抱え込むようにしてしゃがみ込み、つい先程胃に収めたばかりの弁当を少しだけ吐き戻した。胃液にまみれてどろどろになった母親手製の玉子焼きが、ぼんやりと視界を揺蕩う。
 神尾はきっと今、つい先程まで自分にしていたのと全く同じ話を、石田に滔々と語っていることだろう。あの時ブスだと詰った彼女よりも、これでは自分のほうがずっと不幸だ。
 ――むかつく。何で。神尾の癖に。
 腰に届く程長く伸ばされた流麗な黒髪を、細く白い指先にくしゃりと巻き付ける。
 自分が単なる同性愛者なのかもしれないと考えた時、一度、神尾以外では駄目なのだろうか、と疑問に思ったことがある。その時想像の対象に選んだのは、誰よりも敬慕する先輩だった。非道な虐めに晒されていた自分たちを、文字通りその手で救い出してくれた人――橘桔平。
 短く切り込まれたベリーショートがよく似合う。それは彼女の顔立ちがいかに整っているのかということを如実に物語っていた。すらりとした長身に見合うだけの適度にふくよかな胸部と、全身を覆うしなやかな筋肉。異性の目に彼女がどう映っているのかはわからないが、同性から見て格好良い女性というのは、まず間違いなく橘のような人を指すのだろうと確信を持って言えた。
 だがやはり、違うのだ。
 その引き合いに出すことすら罪悪感に苛まれるようなことを、尊敬してやまない先輩で何度考えてみても。幼馴染みのことを思う時の高揚には、到底至らなかった。
 胸も尻も薄く、全体的に肉付きが悪い細身。すばしっこく喧しく頭が弱い。アシンメトリーに長く伸ばされた左の前髪はスポーツ選手の風上にも置けない。いつも肌身離さぬ髪留めが気に食わない。列挙すればする程、どこが良いのかわからない。それなのに何故、こんなにも彼女に惹かれているのか――。
 髪の毛をするりと耳にかけ、伊武は重い体を持ち上げる。びっしりと生えた長い睫毛を忌々し気に上下させながら、そっと個室を出た。
 手洗い場に向かい、黒のカーディガンの袖を捲る。ひんやりと乾燥した空気に、日焼け知らずの白い肌が晒された。掬った水で口をすすぎ、手を洗ってハンカチを取り出す。
 古びた鏡に映る自分を、そっと見やる。
 びじん。幼い神尾が口走った台詞を、胸の中だけでなぞってみる。くっきりとした二重目蓋に彩られたぬばたまの瞳。すっと通った鼻筋に、つんと尖った鼻の先。形良く小作りな唇。小さな顔は陶器のように白く、対極にある色をしたロングヘアは、窓から差し込む光にきらきらと天使の輪を作る。
「……ばかは、私のほうだ」
 ぽつりと呟き、もう一人の自分から視線を逸らした。
 ハンカチで口許を拭い、そろりと廊下へと踏み出す。黒タイツに覆われた細い脚が長いプリーツスカートと絡み合う。早く歩むことが出来ないのは、込み上げてくる熱に阻まれているせいか。カーディガンのポケットにハンカチを突っ込み、両手で喉元を押さえた。
 アキラと呼ばなくなったのは、別に距離を置きたかったからではない。年齢が上がるにつれ幅を利かすようになった気恥ずかしさに身を任せていたら、いつの間にか苗字で呼ぶようになってしまっていただけだ。
 だからこそ、杏が彼女のことを『神尾さん』から『アキラちゃん』と呼び改めているのを知った時、この感情はきっともう報われないのだと、ほの暗い感傷に切迫されてしまった。
 橘杏。『橘さん』の、弟。
 彼は、悪い人間ではない。むしろその逆だ。姉とよく似て凛々しく端正な顔立ちをした彼は、明るく開けっ広げな性格をしているものの、自身の考えは硬派に貫く男である。
 虐めの蔓延る女子テニス部の門戸を橘が叩き、理不尽を強いる先輩共を一掃するまでの間。女テニ以外の同級生の味方は、ほとんど彼一人と言っても過言ではなかった。そんな見てくれも中身も十分過ぎる彼に好意を抱いてしまうのは、何ら不思議なことではない。だとすれば、尚更。自分が彼女の恋路を邪魔していい謂れはどこにもないのだ。
 神尾は、あの夏のことを覚えていない。生涯で恐らく最初で最後であろう伊武のプロポーズを、すっかり忘れてしまっている。だが、きっとそれでいいのだ。異性に自然な思いを募らせる幼馴染みを素直に応援出来るようになる日が来るのを、身を固くしてじっと待っていればいい。何度も何度も言い聞かせてきたことを、今日もまた懸命に胸の中で唱える。
 一体全体、どうしてあんなばかに惚れてしまったのか。涙より先に笑いが込み上げてきた。喉元に回していた両手を、そっと離す。宙ぶらりんになった白い指が空虚を掴んだ。何も無い。手の中には、何も残っていない。
「いた! 深司ー!」
 甲高い大声が鼓膜を劈いたのは、その時だった。
「は……?」
 間の抜けた吐息が、か細く唇を割り開き出てゆく。
 短いプリーツスカートから伸び出る、薄らと筋肉の発達した脚。大きく廊下を蹴りどんどんこちらへと近付いてくる何も考えていなそうな顔。小豆色をしたショートヘアが涼秋の空気に靡いている。同じ色をした瞳は、真っ直ぐ伊武だけに向けられていた。
「え、やだ。……何で。来ないでよ……」
 焦燥に見舞われようが、幸か不幸か、伊武はそれが伝わりにくい性分である。ぽそぽそと零した呟きは、あえかな拒絶だった。だが神尾には無論、そんなものは通じない。
「深司、どこ行ったかと思ったじゃんよぅ。何でこんなとこいんの?」
「いや……それ、こっちの台詞だし」
「だって、トイレ行くっつって全然帰ってこねぇからあたし心配で見に行ったのに、いねぇんだもん。何でこんな遠いとこいんだよーもー」
 心配されただけで喜べる程、感情はもう既に浅い所には無かった。
 神尾アキラという少女は、およそ自分には無いものを生まれ持っている。些か短慮だが、絵に描いたような明るく優しい子どもなのだ。平易な言葉を使うならば、性格が良い、だろうか。自分の性格が特別悪いと思ったことはないが、少し難儀な性分をしていることくらい自覚している。だが神尾には、そういう難しい部分が無い。裏も表も無く、ただそこにあるのが神尾だ。伊武は彼女のそんな愚昧染みた透明さがまぶしくて、そして何よりも好きだった。
 眦が、熱に圧迫され始める。どうにか抑え込もうとして、必死に唇を動かした。
「……何、その顔。やっぱりブスだよ、アキラ」
 無意識に、零れ落ちてしまっていた。
 その名を口にしたのは、いつぶりのことだろう。
「あ……」
 慌てて口許を覆う。だが、低く潜められた声はもう既に彼女の耳に届いていたようだった。
 神尾は少しだけ間を置いて、みるみるうちに目を見開いてゆく。三白眼が、さらに小さくなっていった。
「あ! またそんなこと言う!」
 伊武が発言に引っかかりを覚えるより早く、幼馴染みは唇を尖らせながら続きを捲し立てる。
「お前は忘れてんだろーけど、あたし覚えてっからな!」
 心臓が、ぎこちない駆動音を立てた。
 ぎ、と首だけを神尾に向ける美少女は、眼前にあるその瞳の色を、確かに覚えていた。鮮明に、記憶していた。
「結婚出来なかったら、お前があたしのこと貰ってくれるっての。知らねぇからな、あたしみてーなブス貰うことになっても!」
 ――ばぁか!
 大きな悪態が、二人以外に誰もいない廊下にきんと響く。
 伊武は、何も言葉を紡ぐことが出来ない。二酸化炭素が鼻腔の奥に詰まっている。呼気を吐くことさえ難しい。思考がみるみるうちに動きを止める。
 ただ、ほんのりと赤く染まる幼馴染みの右頬を凝視することしか、出来なかった。
「……何でそんなの、覚えてんの」
 やっとのことで吐き出した台詞が、力無く冷気に溶けてゆく。しかし神尾の鼓膜はその声をもきちんと拾い上げてくれたようで、「覚えてるに決まってるし」と腕組みされた。
「それともお前、あたしとの約束破んのか」
 尖らせたままだった唇をやわやわと元に戻した神尾は、挑むような視線を片目だけでこちらに送る。薄い目蓋が張った、とてもじゃないが良いとは言えない目付きの三白眼。その目に映る怜悧な顔をぼんやりと眺めながら、伊武はほんの少しだけ白い歯を覗かせた。
「私がそんな、ヤな奴に見えるわけ」
 問うて、クリーム色のカーディガンの裾を、ちょんと引く。
 パーソナルスペースの狭い幼馴染みからの珍しいスキンシップにどう思ったのか、神尾は一度視線を落とす。しかしすぐにそれを真正面に戻しては、ふっと口を開いたのだった。
「ううん、深司はイイ奴だ」
 窓外から差し込む秋の陽に照らされる彼女の破顔が、まるでプリズムのようにまばゆく目に飛び込んでくる。
 思わず目を細めてしまった伊武は、彼女のカーディガンからそっと指を離した。
 ――ああ、ずるいよなぁ。
 きっと彼女の頬が紅潮して見えるのは、憤りの記憶の色なのだ。そうわかっていても口許が緩んでしまうのは、何故だろう。浅はかな期待を、今までは持つことも叶わなかったような微かな希望を、胸の内に抱いてしまったからか。
 だとすれば、こんなにも罪なことはない。それでも神尾は、途方もなく明るくあけすけな思いを、一人の少年に抱き続けているのだ。
 自分が彼女に向けるものが実を結ぶ可能性は、極めて低いだろう。頭では、嫌という程にわかっていた。しかし意識と直結した心臓は、どくどくと加速を止めない。
 ――やっぱり、私のほうが。
 ――神尾なんかよりも、ずっとずっと、ばかだ。
 鋭い洞察力と機微を読む能力で、執拗なまでに相手の弱点を責める伊武のテニス。しばしば嫌らしい、しつこいと評されるプレースタイルだが、それは礼を欠いた評だ、と伊武は今まで思ってきた。しかし、不毛な片思いを諦めるどころかこの期に及んでさらに醸成させてしまう自分は、皆が言うように、確かに嫌らしくしつこいのかもしれない。自嘲的な溜め息が漏れ落ちる。
「神尾はやっぱり、すごくばかだよ」
 その思いを募らせる相手にばれぬように、美少女はそっと口端を持ち上げ、晴れやかな吐息を舌先に纏わりつかせた。
 愚かさを口では認めず、眦を拭い、彼女よりも先に一歩踏み出す。快足の持ち主にすぐに追い付かれてしまうことなどわかっていた。むしろそれを、待っている。全部ぜんぶ、知っている――そう思い詰める少女にも、しかし結末だけはわかりようもなかった。


◇ ◇ ◇


「それでさ、その時、杏くんのロブがぽーんって相手の頭上越えてさ! あたし本当に、ずっきゅーんって!」
 今日も今日とて、飽きる事なく同じ話が繰り返されている。
 内容は微妙に違っているようだが、聞き流しているほうとしては変わり映えしたものではない。だが昨日程嫌に思えないのは、彼女があの事を覚えていてくれたからか。我ながら少し単純過ぎやしないかと自己嫌悪する。
 返事にもならぬ程度に面倒臭く相槌を打っていれば、珍しい人物が弁当片手にこちらへとやってきた。
「入れてもらってもいいか?」
「珍しいね。皆大好き石田さんがこんなところに」
「え?」
「何でもないけど。私の代わりに神尾の話、聞いてやってくれる?」
 黒髪ボブに白手拭いを巻いた目立つ高身長の少女は、伊武と神尾に遠慮がちな視線を送る。無遠慮に神尾が座る隣席、その後ろに目を投げてやれば、伊武の目線に倣うようにして石田はそこに着席した。
「よっ」
「はは、神尾はまた杏くんの話か?」
「えっ、ばれた? 石田も聞いて聞いて!」
 話が無事に再開されるのをげんなりとした面持ちで眺めつつ、伊武は神尾のほうに向けていた姿勢をそろりと正す。授業の内容が板書されたまま残っている黒板が視界に広がる。伊武は手に持っていた弁当を、そっと机の上に置いた。
 箸で玉子焼きを摘まむ。もう二度と、吐き戻したりすることがありませんように。つい昨日のことを密やかに反省しつつ、口の中に丸ごと放り込んだ。
 咀嚼しながら視線だけを斜め後ろにやれば、女子が一人で平らげるにしては些か大きく感じられる曲げわっぱの二段弁当箱を広げる石田が見えた。
 彼女のことだから、恐らく教師か何かから任された頼まれ事を片付けていたら昼食を取るのが遅くなってしまったのだろう。お人好しが過ぎるのではないか、と少し呆れた。今だって律儀に神尾の話に逐一頷いてやっている。無意識のうちに自分を苦しめることになっていなければいいが、と伊武は一友人として時たま案じている。
「あのさ、しん……伊武さんいる?」
 聞き覚えのある溌剌とした声が耳に飛び込んできたのは、丁度玉子焼きを飲み下した直後だった。
 教室の出入り口付近へと顔を向ければ、きっちりと形作られたポンパドールが目に入る。パステルピンクのカーディガンに身を包んだ見慣れた姿。桜井だ。
 伊武の席は、教室の中央から少し斜め後方に入ったところにある。昼休みの喧騒の中そこまで声が届かないだろうと踏んで、桜井は出入り口付近で昼食を広げている生徒に声をかけたのだろう。
 しかし桜井に声をかけられた二年二組の連中はというと、揃ってへらへらと曖昧に笑い顔を見合わせるばかりだった。彼女に何か返答してやる気は無いらしい。自然、苛立ちが募る。クラスメイトたちのかしましいユニゾンの中、彼女の声を鼓膜が拾い上げてくれたのは幸運だった。伊武はゆるりと頭を振る。
 強気に吊った桜井の眉がぴくりと強張るのが、遠くからでもわかった。彼女は、内村や神尾に比べると決して喧嘩っ早いわけではない。しかしひと度スイッチが入ってしまえば、さきに名前を挙げた二人に引けを取らない程度には手が付けられなくなる。人一倍、負けん気か強いのだ。
「桜井。こっち」
 咳払いをして、ほんの少しだけ大きな声を出す。小さく上げた手でそのまま手招きをすれば、桜井はすぐにこちらに気が付いた。
「あ、深司。いた。良かったー」
 白い歯を覗かせつつ片手を上げてこちらに向かってくる彼女に、少しだけほっとする。伊武にしては珍しい声量に気付いた神尾と石田が、口々に彼女の名を呼んだ。
「あれ石田、今日こいつらと飯食ってんの? 珍しくね?」
「え、あ、うん。珍しいかな」
「杏くんの話聞きたいって言うからよぅ」
「あは、石田それ絶対言ってねぇし」
「そんなことねぇよな!」
「あはは。でも、友達の幸せそうなところ見てるとこっちまで幸せになるよ」
 軽やかに交わされる会話を傍で聞きながら、伊武は白米を口に含む。凛と整った石田の横顔が苦笑に染められるのを何とはなしに目に入れた後、視線だけを桜井のほうへと向けた。
「うっそぉ石田女神かよー知ってたー」
 そんな大仰なことをのたまう桜井は、石田の背中に抱き着くようにして身を寄り添わせている。よもや同輩のうちの誰かに憧憬を抱くことになるとは思ってもみなかったが、自身の感情に率直な彼女が羨ましい。無論口に出したことはなく、これからも出してやるつもりはないが。
「何か用?」
「んー? まぁ、大した用じゃないんだけどさ」
 薄らと目を細めつつ喉を鳴らす桜井に、伊武は僅か首を傾げた。長い黒髪が、肩からはらりと流れ落ちる。
 桜井は石田から離れると、伊武の机の前にそっとしゃがみ込んだ。目線の高さを弁当箱くらいにまで低くさせた勝ち気な少女は、ほんの少し眉根を寄せては声を潜めた。
「それ食べ終わってからでいいんだけどさ、ちょっとだけ、付き合てもらっていい?」
 何だろう。そう思う一方で少し察しがついてしまうのは、自分の洞察力が優れているからだろうか。それとも、桜井が曖昧な苦笑を浮かべているのが珍しいからか。
「別に、今でもいいけど」
 言うが早いが、彼女より先に立ち上がる。
「マジ? さんきゅー」
 あは、と一つ笑みを零した桜井は、一度後ろを振り返ってはひらひらと石田と神尾に向かって手を振った。
 条件反射のようにして朗らかに手を振り返してくる二人は、少し幼く見える。神尾と石田は、部の同輩たちの中でもとりわけ年相応なものの考え方をする二人だと思う。無論、自分も含めた皆がその気があることはわかっているが、二人を一言で簡潔に表すとすれば、橘に次ぐ『テニスバカ』なのだ。
 桜井の後ろを黙って付いてゆく。神尾のものと同程度に短く折られたプリーツスカートが、ひらひらと危なっかしく視界の真ん中を泳いだ。さみぃ。そう口にする彼女がどこに向かっているのかは知れないが、タイツを履けばいいのにといつも思う。お洒落に人一倍こだわりがあるらしい桜井は、寒さが深まれど紺色のハイソックスを履いている。
「ここまで来たら誰もいねぇかなー」
 奇しくもここは、つい昨日、神尾と思い出話を交わしたその場所だった。
 意識せずとも記憶がよみがえり、情けない気分になる。顔にほんのりと熱が迫ってくるのを悟られまいと、伊武は微かに俯いた。
「あのさ。えーっと、そのな……」
 桜井は語尾の歯切れも悪く、中々言葉を紡ぐことが出来ないようだった。物珍しい彼女の姿に少しだけ驚く。しかし桜井が言おうとしていることの察しが何となくついている伊武は、急かすことなくただ黙って視線を送り続けた。
 溌剌とした、という形容がこれ程までに似合う少女もいないのではないかと、伊武は桜井のことを評している。
 負けん気が一等強く、男勝りで物怖じしない。そんな性分を見込んでか橘が自身の後任に推したのは、ほかでもない桜井だった。勿論それ以外にも、統率力であるとか、そういったものを同輩たちの中で消去法で選んでいった結果、必然的に彼女に行き着いたのかもしれない。副部長を任されている神尾のほうが心身共に瞬発力は上かもしれないが、彼女には人を引率する力は些か足りていない。心密かにそう思ってきた伊武にとって、橘の判断はすんなりと受け入れられるものだった。
 だが、きっと今から桜井が口にしようとしていることは、それとは全く関係の無いことなのだろう。伊武は、逸れかけた意識をゆっくりと引き戻す。
「どうせ深司も、あの変な噂、聞いてんだろ」
 やっぱり、と胸の内だけで合点する。
 驚く素振りも見せずに首肯した伊武に、桜井は「あ、もしかしてお見通しって感じ?」と無理矢理形作ったような笑みを浮かべた。何となくその顔を見ているのが嫌で、眉を顰める。
「そう、そんでさ。まあ、お前とか女テニの奴らの中にあんなの信じる奴なんかいねぇってことくらい、わかってるんだけど」
 そこで一旦区切った桜井は、前髪の後れ毛を手持無沙汰に弄った。
 彼女の言う通り、伊武はその馬鹿げた噂を初めて耳にした時、思わず噴き出してしまったくらいだ。その程度の、本当に、話のネタにすることすら憚られるような根も葉も無い法螺。
 桜井に限って、まさかそんなことは有り得ない。そう思うのは、彼女が存外に硬派な性分をしていることを知っているからでもある。しかしそれより何より、彼女が一途に向ける恋慕の情に気付いるからでもあった。
「お前にこんなこと頼むのも、恥ずかしいけどさ。……石田にだけは、やっぱりあれ、知られたくねぇんだよ」
 ――あいつのことだからたぶん、まだ知らねぇだろ。
 言葉尻になるに従ってか細くなる声を聞きながら、伊武はしかと首を縦に振った。
「たぶんね」
 出来るだけ優しく聞こえるように、紡いでしまう。
 すると桜井は、「そっか、良かった」と心底安堵したようにほっと吐息した。
「知られないようにするの、難しいとは思うけど。私が出来る限りのことは、してあげてもいいよ」
 そっと吐き落として、じっと眼前の少女を見据える。一重目蓋に縁取られた黒鳶色の瞳。いつだって強い意思を湛えているそれがちらちらと揺らめいて見えるのが、ほんの少しだけ気分を暗くさせた。
 次期部長がそんなことで、どうするの。張り詰めそうになる空気を解す為にそう詰りたくなる。しかし喉の奥で引っ込めて、伊武は代わりの言葉をそっと舌に乗せた。
「君がそれを私にお願いしに来たのは、私が石田のクラスメイトだから、ってだけじゃないんだろうなぁ」
 ぽそぽそと呟くように吐き落としながら、ゆっくりと踵を返す。明らかに陽気の失われた桜井の顔は、やはり気分の良くなるものではない。
「私が君とおんなじだってこと、君は気付いてるよね。それで、私も君がおんなじだってことに気付いてる。だからなんでしょ」
 核心を突くのに勇気は要らなかった。伊武の目から見て、それはあまりにも明白だったからだ。
「……へへ。やっぱり私、お前にだけは敵う気しねぇよ」
 背中に届いた声は、震えてはいなかった。
 くつくつと喉を震わせる桜井は後ろ向きに一歩踏み出すと、くるりと身を翻しては隣に並んできた。
「神尾と何かあったら、いや、なくても。私に出来ることがあれば、協力してやっからさ」
 ぽんと軽く背を叩かれる。横目だけでじとりと見やれば、にっと悪戯っぽく笑われた。まだそんな顔が出来るのならば大丈夫だろう。胸の中だけでそう思い、口には何も出さず前を向く。
 思っている以上に、自分は人が好いらしい。ぼんやりと自惚れる伊武の形良い唇は、昨日よりも少しだけ穏やかに構えられていた。




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