セヴンス・ヘヴン・ボイルド・ガールズ2 | ナノ


02


 内村が、例の噂の出所を殴り飛ばした。
 桜井がそれを聞き知ったのは、昼休みを告げる予鈴が鳴り終わって間もなくのことだった。
 自分のクラスで起きたイレギュラーを嬉々として報告してきた一組の野次馬根性旺盛な男子生徒は、わざわざ廊下を疾走し五組まですっ飛んで来たらしい。或いは、その噂の渦中にある桜井がこのクラスに居るからだろうか。
 いいオトモダチ持ったな、桜井。見るからに軽薄そうな笑みを浮かべた男の目がこちらを向く。名も知らぬ一組の生徒に下卑た声で名を呼ばれる謂れなど無い。ぞわり。嫌な熱を持った煩わしさが背中を駆けてゆく。
 友人数人と机を寄せ合い弁当を広げようとしていた矢先だった桜井は、教室の出入り口付近からこちらを見やるその男を静かに睨みつけた。
「お前も、その出所みてぇにぶっ飛ばされてぇか?」
 低くくぐもった声が喉から出る。ほんの少し首を傾ければ、前髪の後れ毛が男の顔に霞みを作った。
 昼休み特有の喧騒もなく、教室はいつになく静まり返っている。室内に残っていた担任教師が、何事かと学級委員に問いを投げる声が聞こえた。
 片手にしていた弁当を、音を立てて机の上に置く。やがて桜井は、一組の男子が顔を覗かせている教室前方付近へと大きく歩みを進めた。
「どけよインポ野郎」
 吐き捨て、出入り口を塞いだままの彼の隣を無理矢理すり抜けるようにして、桜井はさっさと教室を後にした。
 短いスカートから伸びる細い脚がずんずん空を切る。向かう先は、根も葉も無い流言をばら撒き始めた奴がいる一組――ではなく、二組の教室だった。
 その噂が不動峰中第二学年の間でまことしやかに囁かれるようになったのは、衣替えも終わった初秋のことだ。
 ――五組の桜井、妊娠して堕ろしたって。産婦人科から出てくるところ見た奴がいるんだってー。
 ――うわあ、引く。マジでビッチだったんだー。
 いつかの昼休み、頭の軽そうな女子二人がすれ違いざまに廊下でそんな会話を交わしていたのを聞いたのが、桜井が初めて噂を知ったきっかけだった。その話の主人公が紛れもない自分だと気付き立ち止まった時には、顔も声も覚えぬ彼女らはどこかへと歩き去ってしまった後だった。
 驚きのあまり、声も出なかった。どうしてそんな話が成立してしまっているのかもわからない。
 しかし問い質す相手もわからぬうちに、根拠の無い俗言は次第に独り歩きし始めることになる。
 初めのうちは、女子テニス部の目覚ましい活躍を妬んだ誰かが勝手に流布させようとした、浅ましくばかげた妄言だと放っておくことにした。何せ事実ではないのだから、すぐに消え失せてしまうだろうと思っていたのだ。かつての非道な先輩たちに受けていた虐めに比べれば、変な噂を流されるくらい何てことはない。下手に否定して構ってやるまでもないだろう。桜井はそう思い、徹底的に無視をすることに決めたのだった。
 それでも、日が経つにつれ尾ひれ背びれを付け始めた流言はどんどん肥大してゆき、いつの間にか桜井のクラスメイトまでもが密かに囁き合うようになっていた。
 明るく社交的で場の空気がよく読める桜井は、クラスの中でも男女関係なく好かれるタイプだ。しかしその噂が出回り始めてからというもの、一部の仲の良い者たち以外からはすっかり距離を置かれるようになってしまっていた。
 ――あの時と、同じだ。
 橘のもと新生テニス部を立ち上げた当初のことを思い出す。その時、多くの者が女子テニス部員から一定の距離を置いていた。しかし地区予選大会で準優勝を果たした頃くらいから、まるで手の平を返したように皆が態度を豹変させ始めたのだ。
 同輩たちの中でも、桜井はそんな現金な者たちに対して比較的穏健に接してきたほうだった。だが、再び同じような事態に陥った今、彼らを許せるだけの心の余白は正直あまり残されていない。
 無論、誰も彼もがその噂を信じているわけではない。賢明な者は変わらず接してくれる。事実無根のことなのだから、気にしなければそのうち本当に過ぎ去ってゆくのかもしれなかった。
 それでも桜井には、どうしても懸念してやまないことがあった――それは、石田の耳に、その噂が行き届いてしまうかもしれないということ。
 彼女が下卑た人言を信じたりしないだろうことなど、桜井が一番よくわかっている。だが、もしも石田の耳に卑しい評が届き、万が一にも自分がそのようなことをする人間だと勘違いされたとしたら。想像するに、怖くて堪らなくなる。ただ噂を流されるだけならばまだ構わないのだ。ただ、それが石田の耳に入ることを考えると、冷えた汗に全身を嬲られる思いがした。
 どうして石田に露見することに、それ程までに怯えてしまうのか。理由ならある。それは、自分が産婦人科に通っているということを彼女に知られたくないからだった。
 初潮を迎えてからこのかた、重い月経に苦しめられている娘を見かねたのだろう母親に産婦人科に診せることを薦められたのは今年の初夏のこと。理不尽な虐めに打ちひしがれていた一年生の頃は半年間程月経が止まっていた為、受診をずるずる先延ばしにしてしまっていた。生理に関してだけは、その間のほうが遥かに楽だったと言える。
 始まれば必ず一日は学校を休まなければならない程に重かった月事も、処方された薬を服用するようになってから少しは軽くなった。しかし、桜井はまさにそのことを、石田にだけはどうしても知られたくなかったのだ。
 どうしてそれ程までに知られたくないのか。それにも、無論明確な理由がある。それはほかでもなく、桜井が石田に、相方や親友といった枠組みを超えた好意を抱いている為だった。
 誰よりも好いている相手に、あらぬ心配をかけたくない。彼女はただでさえ、自身よりも他者を優先するような、お人好しで片付けるには些か自己犠牲的すぎる性分なのだ。そんな石田が、気を遣わずに甘えることの出来る存在になりたい。その為には、案じられる側でいるわけにはいかない――いつしか桜井は、そんなふうに強く思い詰めるようになっていた。
 もしも噂が彼女の耳に入ってしまえば、否定する為の文句に事実を持ち出さなければならなくなるだろう。それだけは、絶対に避けたかった。
 廊下を急ぐ。あの野次馬の調子を見るに、二年生全クラスに一件を告げに奔走していてもおかしくない。何が楽しくてそんなことをされなければならないのだろう。桜井は歯噛みする。指の先が冷たくなる程、強く拳を握りしめた。
 内村を責める気には、到底なれなかった。むしろ感謝している。彼女とは顔を合わせれば軽い憎まれ口を叩き合う間柄だ。犬猿の仲とまでは言わないが、それに近しい関係性にあるように思っている。そんな彼女に庇われる形になったのはどうにもむず痒いが、内村の性分を知っている身からすれば、よくやってくれたと手放しで褒めたいくらいだった。
 そんな内村に感謝の言葉を告げるより先に相方のもとに向かっていることを、胸中で小さく詫びる。だが内村ならばわかってくれるだろうと、桜井は勝手に彼女を信頼していた。
 すれ違う度、大仰なまでにこちらを振り向かれる。だが今は彼らをねめつける余裕さえない。三組の教室を通り過ぎる。森と神尾はもうこのことを知っているだろうか。考えるだけに留めて、桜井は足早に二組の前まで来た。
 しかし――扉を前にしたところで、突然足が動かなくなる。
 まるで重い鎖と枷を付けられたかのようだった。首の裏に冷たい汗が噴き出す。この有り様ではもう、石田の耳に届いている可能性のほうが高い。それでも、この期に及んでもまだ、彼女が何も知らないでいてくれることを望んでしまう。
 騒音を奏でる心臓から流れ出た血脈が、どぐどぐと鼓膜の中に雪崩れ込んでくる。そっと扉に指をかけた。次いで、勢いよくスライドさせる。
 二年二組のクラス中の視線が、一斉に教室の後方扉へと集まった。無数の瞳に宿る卑しい好奇を無視しながら、桜井は恐る恐る室内へと目を這わせる。
 目立つ長身の少女は、すぐに見つかった。
「桜井!」
 震える唇を動かす前に、大きく名前を呼ばれた。
 ばくばくと波打つ心臓が跳ね上がる。呼応するかのように、同じタイミングで肩も跳ねた。
 ――石田。
 呼び返した声は、思っていたよりもずっとか細く、戦慄いていた。
 並ぶ机の合間を縫うようにして、石田がこちらへと駆けてくる。豊かな胸部を彩るスカーフが風を切るのが、まるでスローモーションのようにゆっくりと網膜に映写された。石田のすぐ後ろを、ぬばたまの黒髪を靡かせる美少女が追いかけてくる。
「桜井、わたし……」
 沈痛に細められた石田の瞳は、ゆらゆらと揺らめいていた。
 その目を眼前にした桜井には、彼女が次に何を吐こうとしているのかわかってしまった。きっと今にも石田は、自責の言葉をぽろぽろと吐き落とし始めることだろう。
 ――知られて、しまった。
 次の瞬間。今まで張り詰めていた何かがふつりと途切れたかのように、一気に力が抜けてゆく。視界がふらりと傾ぎ、半歩後ろに足を踏み出してしまう。
 倒れる――そう思った直後、咄嗟にぎゅっと手首を引かれた。驚いて上目に視線を向ければ、真一文字に引き結ばれたぽってりとした形良い唇があった。体格の良い相方に抱き止められるような形になってしまったことに、場違いに脈が高く鳴る。
「桜井……気を付けてたのに、ごめん」
 石田の後ろからそっと顔を覗かせた伊武が、いつも以上に低く潜めた声でぽつりと零す。雪のように白い肌をより一層青白くさせている彼女に、桜井は無理矢理に口端をひん曲げた。
「いいって。こんなんなっちゃったら、もー無理だろ」
 そう言って、へらりと情けない笑みを浮かべる。黒曜石のような瞳を石田と桜井に交互に向けた伊武は、やがて小さく溜め息を吐いた。
 名残惜しく思う心を叱咤しながら石田に小さく礼を述べ、桜井はそっと身を離す。
 二組の連中が、石田と伊武の向こうでひそひそと何か交わし合っているのが聞こえた。横目にそれをねめつける伊武は、類い稀な美貌の持ち主がゆえに怖い顔をしていると迫力が増す。
「もしかして……私に知られないように、してたのか?」
 自身の前後を順番に見やった石田が、ぽつりと漏らす。びくんと心臓が飛び跳ねた。ぱっと伊武に視線を流せば、彼女も口を噤んでしまっている。
 顎の長さで切り揃えられた石田の黒髪が、ふわりと動く。光に当たると緑を刷いて見える瞳が、不安げに揺れていた。精悍な眉が顰められる。石田に――好いた相手にそんな顔をさせていることが今一番情けなく、不甲斐ない。
 桜井は、静かに唇を舌で湿らせる。口の中がからからに干からびてゆく。こくりと唾を嚥下してみても、まるで言葉が張り付いてしまったかのように喉から出てくるものは何も無い。
 出てこない言葉の代わりに、咄嗟に腕を掴んでいた。
 ストイックに鍛え上げられた右腕ではなく、その反対側の左腕。驚いたようにこちらを見下ろす石田の目が、直視出来ない。
「ごめん深司、……私、石田と話してくる」
 流れるようなロングヘアが目の前で静かに上下する。わかった。たった一言そう呟いた伊武は、そのままくるりと踵を返し一人クラスメイトへと向き直った。女子テニス部の誇る天才プレーヤーの小さな背中はいつになく頼もしい。桜井は、その背にありがとうとごめんを一つずつ投げた。
 石田の腕を引いたまま、廊下に飛び出す。
 黙って後ろを付いて来てくれるのは信頼されているからか。それともただ単に、彼女が口数の多いとは言えない性分だからだろうか。
 手を引かなくとも付いて来てくれるとはわかっていても、今ばかりは離してしまうことが怖かった。確かな温もりを逃してしまいたくなかった。むくむくと首をもたげる不安が、胃の腑から喉元までをも満たしてゆく。彼女が不埒な流言などを信じるような子ではないとわかっていても、思考とは関係のない無意識が石田の左腕を手離そうとしない。
 つい先日、伊武と二人で話した廊下に出る。さらに先を進み、利用者の少ないトイレの前を突っ切った。二年生が滅多に使わないほうの階段へと向かう。
 上履きが廊下を蹴る音が二人分だけ響いている。ちらりと窓外に目を向ければ、秋晴れが白々しく目に飛び込んできた。視線を進行方向へと戻し小さく息を吐く。
 縺れたままの舌を解すかのように、桜井は再び下唇を舐める。色の付いたリップクリームの味が、微かに舌先に残った。
「お前がどこまで聞いたか、知らねぇけど」
 後ろを振り向かぬまま、そろそろと口を開く。
 喧騒が遠い廊下に、石田が息を飲む音だけが聞こえた。
「私が病院行ったってのは、ホント。ほら私、生理重いほうだからさ。薬貰う為に通ってる。それはマジ。でも薬飲むようになってマシになったからそれはもう全然大丈夫なんだけど」
 取り繕うように笑みを浮かべる。声が震えているのは、笑っているせいだ。そう勘違いしてくれればいいのにと願う。
 空いているほうの手で横髪を撫でつける。カーディガンの長い袖口で、汗の玉が落ちる頬をなぞった。
「桜井」
 左腕を掴んだままの手を振りほどかれたのは、行く宛てもなく階段を下った先、最初の踊り場に降りた時のことだった。
 驚き、咄嗟に振り向いてしまう。
 教室で顔を合わせて以来初めて真正面から見据える形になった瞳は、ただ一心に自分の顔だけを映し出していた。
「私があんなの、信じるわけがないだろう」
 その声には、静かな怒気が籠められていた。
 ひくんと肩が跳ねる。嫌われたくない。幼気なままの思いに思考が侵食された――次の瞬間。
 ふわりと、優しい重みが両肩に乗せられた。まめのたくさん出来た大きな両手から、じんわりと熱が伝わってくる。
 桜井は、おずおずと目を見開いてしまう。
 身長差の問題で、石田と対話する時はいつも頭一個分程高い位置から見下ろされる形になる。だが、今ばかりは違った。膝丈のプリーツスカートに隠された長い脚をほんの少し曲げた石田は、桜井の目線の高さに、そっと顔を構え直してくれたのだった。
 長い睫毛。自分には無い二重目蓋に彩られた、凛とした瞳。通った鼻筋、程よく肉付いた形良い唇。きめの細かい白い肌。整った目鼻立ちがすぐそこに、眼前にある。一拍間を置いて現実を受け入れられた時、左胸からぶわりと熱が駆け上ってきた。何を返すことも出来ない。
 精悍な眉尻をほんの少し下げた石田が、か細く吐息した。
「桜井、ごめん。……私、知ってたよ」
 ――つい、この間。偶然、聞いてしまったんだ。
 視線を床に向かわせながら、石田はぽそりと吐き落とした。
 汗の玉が、氷の礫のような冷たさで額から顎へと伝い落ちてゆく。左胸を占拠していた熱が一気に収束してゆくのがわかった。血の気が失せるとは、恐らくこういうことを言うのだろう。
「う、うそ」
 思わず口を突いて出た短い言葉に、石田はすぐに視線をこちらへと戻す。肉付きの良い唇が、慌てたようにぱっと持ち上げられた。
「どう切り出したらいいのか、わからなかったんだ。もしも桜井が私に隠してるんだとしたら、それを問い質すようなことをしてしまってもいいのかって。私は、お前が悩みとかそういうものを打ち明けるには足りない存在なのかなって……そ、んなふうに、私、自分のことばかり考えてしまって……」
 ――さもしくて、ごめんなさい。
 両肩に乗る手から伝わる熱が、じんと高まった気がした。
 閉口することしか出来ぬ桜井は、その真摯な双眸をただじっと見つめる。拙い謝罪を口にした石田の顔は悲痛な幼さを纏っていた。凛々しさの失われた面差しが、胸に迫る。
 石田のほうが桜井よりも多く言葉を連ねるのは、二人にとって慣れぬ状況だった。
 上手く出てこない言葉の代わりに、桜井はふるりと頭を振る。顎のラインより少し長い黒鳶色のミディアムヘアが、ふわりと冷気に当たって跳ねた。
「あんな噂なんて、どうでもいい。ただ、お前の体がそんなに辛かったことに、私どうしてもっと早く気付けなかったんだろうって。……それから、」
 一言ひとことを心底大事そうに、苦しそうに紡ぐ石田の頬が、ひくりと痙攣する。そこまで吐き落としたところで一度ぎゅうと唇を引き結んだ大柄な少女は、つるりと視線を横に滑らせてはそっと俯いた。きっちりと結ばれた手拭いの先が、ひらりと揺れる。
 やっぱりだ、と、桜井はまじまじと相方の顔を見つめる。
 彼女はやはり、自責している。
 桜井は密やかに下腹部に手を宛がう。そもそもこんなものが無ければ、今回のようなことにはならなかったのではないか。ただでさえ毎月自分を苦しめるものだ。無いほうがましに決まっている。どうせ自分は、同性である彼女を好きになってしまったのだから――回らぬ思考で、不毛なことを巡らせる。
 俯いたままの石田の視線が、下腹部にきつく押し付けられた桜井の手を捉えた。重く瞬きをして、やがて少しの間を置いた後、石田は今一度視線をこちらに寄越した。
「そいつを殴り飛ばすのは、私の役目だったのに、って」
 しかし、次の瞬間。
 彼女の唇を割り開き出てきたのは、桜井の予想だにしない台詞だった。
 ラケットを片手にした石田は、平素とは打って変わって迸る激情を隠そうとはしない。しかし好戦的なまでに対戦相手に喰らい付いてゆくその姿勢は、確かな努力に裏打ちされた自信の証だった。一方で、日常にある彼女は優しくおおらかで、誰からも好かれ頼りにされる逞しくも穏やかな少女だ。そんな石田の口から出た、抑えきれぬ悲憤を孕んだ言葉。怒りを低く低く押しとどめているかのような、熱の籠った声。
 鼓膜を確かに揺さぶった相方の摯実な言葉に、桜井は、眦に這い上がってくる熱をやり過ごすことが出来ない。
「何で、お前の役目?」
 しばらくぶりに口を開いたからか、その声は少し掠れていた。
 空気を弱く振動させた音は、しかし石田の耳を確かに打ってくれたらしい。緩慢な動作で屈んでいた姿勢を正した石田は、小さな両肩に置いていた手を、そっと離す。まるで身を包むように寄り添ってくれていた熱が離れてゆくことに、無意識のうちに切ない吐息が零れ出た。
 桜井の問いに、石田は熟慮するように視線を斜め上へと向けた。数拍の間を置いて、ふっとこちらに戻される。
「あ、相方だから……?」
 右手をそっと頬に宛がい、首を傾げる。つい今しがた勇ましく頼もしい台詞を放った彼女とは似ても似つかぬその仕草に、じんわりと心臓が温まった。思わず「ふふっ」と小さく笑ってしまったその拍子、つぅ、と頬に涙が溢れ出す。
「ごめんは、私のほう。……ごめんな、石田。本当はずっとずっと、お前に相談したかった。あんなん言われて平気なわけねぇし、すっげーきつかった」
 初めて吐露する弱い本音に、腹の底がびくびくと震える。鼻の奥がつんとした。涙の粒がぽろぽろと止め処なく落ちてゆく。
「でも私、どうしても石田だけには知られたくなかったんだ。それが一番、怖かった。お前がそんなの信じるような奴じゃねぇってのはわかってるけどさ、やっぱ、ほら、……相方だから? 恥ずかしいとこ、見せたくねぇじゃん」
 わざと同じ言葉を選んで、へらりと笑みを貼り付ける。
 本当は、それだけではない。自分のそれは、石田が向けてくれる真っ直ぐで濁りの無い感情とは、少し違う。その先にある、ゆき過ぎた熱情。だけど口には出せず、桜井は緩やかに唇で弧を作ることしか出来ない。
 相方の吐露を一言一句聞き逃すまいと耳を傾けてくれていた石田が、ふっと力が抜けたように眉を八の字にさせた。やがて釣られるようにして、やんわりと口角を緩める。
「私……桜井を、守れなかったんだな」
 ぽつりと吐かれた言葉は、尚も彼女自身を責めるものだった。
 何も色付けのされていない言葉が、桜井の胸をどうしようもなく締め付ける。がんじがらめにされた心臓が、どぐどぐと鼓膜の裏で悲鳴を上げていた。
 見上げる位置に戻った穏やかな表情が、黒鳶色の瞳にまばゆく映る。天井近くに備え付けられた窓から差し込む爽秋の陽が、凛と整った顔立ちを照らし出していた。
「別に、守ってもらわなくてもいーし。ていうか、うん。仮にお前が私のこと守ってくれるんだったら、同じだけ私も石田のこと守り返してやるからって感じ!」
 へへ、と小さく笑い、ぱっと石田の右手を取る。
 僅か見開いた目をぱちぱちと瞬かせた石田は、再びやわやわと頬を緩めては、ゆっくりと目を細めた。その頬に微かに赤みが差して見えるのは、自分の欲目のせいなのだろうか。
「なぁ、……今の、ちょっとだけ訂正してもいい?」
 自分のものよりも一回り大きな右手を、両手で優しく包み込む。いくつも出来たまめ。努力家の証を撫でながら、桜井はただじっと上目に石田を見つめた。こちらを向く長い睫毛が、桜井の二の句を待つようにぱちりと上下する。
「自惚れみたいなこと、言うけどさ。私、お前が私のこと守りたいと思ってくれてるくらい、私も石田のこと、守りたいんだ」
 もっと甘えてほしい。もっと、頼ってほしい。恋人になれなくたって、互いに親友や相方と呼び合える仲ならば、そういう存在になることは出来る。そのくらい望んだって、いいだろう――高鳴る左胸にささやかな願いを唱えながら、桜井はぎゅっと唇の端を持ち上げる。
 長さの違う互いのスカートが触れ合い、さわりと揺れた。
「ふふ、ありがとう。でも私なんて、守られるような奴じゃないよ」
 唇に苦笑を乗せる相方に、胃の腑でふつりと熱が爆ぜる。きっと彼女は、自身の背丈や体格のことを指してそう言っているのだろう。
 ――お前は全っ然、わかってない。お前はお前が思ってる程、強いばっかりじゃない。皆が思ってる程、強いだけじゃない。
 口を突いて出そうになる言葉を必死に飲み下した――その、代わり。
「私こんなに生理重いのに石田のこと好きになっちゃったの、カミサマに意地悪されてるとしか、思えねぇよ」
 ほんのりと色付いたリップクリームの施された、小さな唇。
 はらはらと零れ落ちていった台詞は、弱い十四の少女には制御出来ぬ、率直な思いだった。
 石田の返事も聞けぬまま、顔を見ることも出来ないまま。握り込んでいた右手を離した直後、その身に飛び込むようにして咄嗟に体を預けてしまっていた。
 体勢を崩した石田が壁際にもたれるのとほぼ同時に、豊かな胸に躍るスカーフを引く。そして思い切り背伸びをして、桜井は目の前の唇に、そっと口付けたのだった。
 すぐに顔を離し、ぎゅっと瞑ってしまっていた目をおずおずと開く。唇を重ねた瞬間、心臓なんて止まってしまったと思ったから、体が動くのが不思議だった。
 茫洋とこちらを見下ろしてくる石田の顔を見上げる。驚きも浮かべられない様子の呆けた表情は、いつもより少しだけ近い位置にあった。
 長身の少女の小さな顔を見上げているうちに、今度こそ本当に嗚咽が込み上げてくる。
「……あは、だめだ。守るどころか、襲っちゃった」
 ――どうして、どうしてこんなことをしてしまったのだろう。絶対に、死ぬまで、言うつもりなんてなかったのに。ましてや、こんな行為に移すだなんて。何で、どうして。何で、だろうか。
 血の巡りが凝固してしまったかのように、頭が上手く回ってくれなくなる。それ以上出てこない言葉の代わりに、ぽろぽろと生ぬるい涙が際限なく零れ落ちてゆく。
 言い逃れが出来ないことを、してしまった。後悔がしとどに押し寄せてくる。しかしもう全て、何もかも遅いのだ。
 硬直したままの石田の体から、桜井は静かに離れた。震える脚を叱咤する。今すぐに、彼女に背を向けて走り出してしまいたかった。だけどそうしたら本当にもう最後になってしまうような気がして、怖くて最初の一歩を踏み出すことが出来ない。
 相方。彼女が口にしてくれたその関係すら、断たれることになってしまうのだろうか――。
「ま、待って!」
 細く震える声と共に、ぎゅっと腕を掴まれる。
 踵を返しかけていた桜井の短いスカートが、揺れて元の位置に戻った。
「わかった。桜井、私わかったよ。『役目』って、どうして思ったのか」
 優しく腕を引かれれば、そのままとさりと再び彼女の胸に飛び込む形となった。ふくよかな胸部が、柔らかに鼓動を圧迫してくる。おずおずと腰に回される熱を感じて、桜井は静かに目を見開いた。
 言葉を紡ぐ石田の目は、きらきらとした輝きを帯びている。
「私きっと、きっと桜井のことが好きなんだ。とっても、すっごく好きなんだ。だから私、今、嫌じゃなかった……」
 彼女の唇から放たれた声を、きちんとした意味を持つ言葉として捉えることが出来ない。何故か。決まっている。その一言一句を、鼓膜が俄かには信じてくれないからだ。
「……な、」
 ほとんど吐息のような掠れた声が、ぽつりと落ちていった。
 石田の凛とした相貌に、みるみるうちに赤みが差してゆく。紅潮するその頬に、震える指を伸ばしてみた。そっと触れれば熟れるように熱い。とくんとくんとはちきれそうな鼓動が、互いのセーラー越しにじんじんと伝わり合う。
「なんでそんなこと、言うんだよぉ……っ」
 一度堰を切ってしまえば、とどまるところを知らなかった。
 ぼろぼろと零れ伝い落ちてゆく涙を、石田の長い指が慌てて掬ってくれる。しかし次から次へと止まらぬ大粒に、ついに彼女は、優しく体を抱きしめてくれたのだった。
 同じだけの力で、ぎゅうと抱きしめ返す。控えめな性格とは裏腹に豊満に主張する胸部に、溢れかえる涙をすりすりと押し付けてやった。石田が困ったようにくすぐったそうな笑みを零すのが、すぐ近くに聞こえる。いとしくて、可愛くて、今一度頬をすり寄せた。柔らかな脂肪の塊に、むにゅんと頬が吸い寄せられる。息を詰めたような吐息が聞こえて、じくりと下腹部が熱を持った。
「実は、……私、一週間前くらいにさ。一年生の女の子から、告白されたんだ」
 頭上から落とされた言葉に、ぼんやりと幸せを揺蕩っていた意識が一気に引き戻された。
 こんなにも立て続けに驚かされることが、これまでの人生の中であっただろうか。
「え、えぇっ!? お、おんなのこ……?」
 大きな声が踊り場に響く。彼女の腰に回していた片手を、ぱっと口許に宛がってしまった。
 石田は男女問わず好かれる性格をしているが、決して大っぴらに美少女と持て囃されるタイプではない。凛と整った相貌や校内の誰も敵わぬだろう見事な曲線を描いた抜群のスタイルは、幼い精神年齢しか持ち合わせぬ同年代の男子にはまだあまり響かないらしい。彼女の豊かな胸部と臀部に目を付けた不埒な評が耳に飛び込んできたことは何度かあったが、幸か不幸かそれ以外で彼女が男子にモテているのはあまり見聞きしたことがなかった。
 ただ、稀に本気で彼女に懸想をする者がいるのは事実だった。誰に対してもわけ隔てのない優しく温厚な性分と、体格の良さで見過ごされがちではあるものの、申し分のない顔立ちと体付き。むしろ気付いていない奴は目が節穴だと常々思っている桜井だが、石田に恋慕する一人としては、安堵の材料にもなっていた。そう、思っていたのに――まさか。
 自分より先に、それも同性の後輩に、告白されただなんて。再び、力が抜けそうになる。
 確かに、部活動中の迫力ある勇壮な姿と普段見せる穏やかな笑顔の差に、憧れの目を持ってしまうことはおかしくはない。そんなふうに、桜井は相方を贔屓目に見てしまう。
 都大会出場決定以降ちらほらと見学に訪れるようになった女子たちは、皆テニス部に興味がある者か、そうでなければ橘目当てだと思っていた。まさかと思わざるを得ない。確かに、橘にそういった目を向ける者が実際にいることを考えれば十二分に有り得る話なのだが、と桜井は自分のことを棚に上げたまま熟考する。今後はもっと目を光らせなければなるまい。
 それにしても、どうして今、そんな話を切り出されたのだろう。戦慄く唇で問い詰めようとする寸前、石田が控え目に口を開くのが目に入った。
「私その時咄嗟に、好きな人がいる、って答えてしまったんだ。何でだろうなって、ずっと引っかかってた。だって私、桜井も知ってるだろうけど恋愛のことには本当に疎いし、そんなふうに思ってる男の子もいないし……」
 そこで一度言葉を止めた石田は、じっとこちらに視線を注ぎ続けたままだ。二の句を促す代わりに瞬きも忘れて見つめ返していれば、鼻と鼻が触れ合いそうな距離に好いた相手の顔があることに、気分の高揚が抑えられなくなってくる。胸の高鳴りに任せ再び腰に両腕をきつく回せば、石田の顔がより一層紅潮してゆくのがわかった。
「でも、今。桜井、から。その。……きす、されて、合点がいったというか……はは、気持ち悪い、かな……」
 緩慢な動作で面映ゆそうに赤い頬を掻く石田の顔の輪郭が、視界の真ん中でじんわりと滲み始める。
 ぶんぶんと音がする程強く頭を左右に振って、これ以上力を籠められない程に、強く強く石田の体を抱きしめた。彼女が息を詰める音が、頭上にはらりと落ちてくる。しかし何も言わずに抱きしめ返してくれる健気な熱を感じながら、桜井はすんと鼻を啜った。
「そんっっなこと、ない!」
 ふるりと喉が震える。全ての表情筋が、力無く肢体を投げ出した。目尻は下がり、口許は緩む。勝ち気に吊った眉も、釣られて八の字に形を変えた。
 そんな桜井の面差しを映し出すくろがね色の瞳は、ただ一心にこちらに向けられたままきらきらと澄んでいる。
 心音が、鼓膜を劈きそうだ。だけど石田も、同じはず。そう考えてしまうのは、きっと自惚れなどではないのだ。
「だって私今、嬉しすぎて死んじゃいそうなんだもん!」
 再び背伸びをして、鼻先に、ちゅっと唇を触れさせる。
「私、石田が好き。……大好き!」
 かっと熟れたように熱くなる頬を弛緩させる。釣られるようにして、石田も顔を綻ばせた。花やぐような穏やかな笑み。ずっと焦がれてやまなかったもの。それが今、自分の腕の中にすっぽりと収まっている、途方に暮れてしまいそうになる程の、幸せ。
 口付けと呼ぶにはあまりに拙いその行為を、純真で清廉な相方がおずおずと真似てくれるまで。三、二、一――。


◇ ◇ ◇


「ああ、だから最近、私たちのとこにご飯食べにくるわけ」
 怜悧な美貌を湛える少女から投げられた緩やかな問いに、相方はやんわりと曖昧な苦笑を浮かべた。
「あんな噂信じるような子たちと話すことなんて、何もないよ」
 きっぱりと言い切って、石田は大きな曲げわっぱの弁当箱からかぼちゃの煮つけを持ち上げた。美味しそうに頬張る彼女を横目に、桜井はうっとりとその肩に頭を乗せる。
「あーん私の彼女ってばちょー格好良いしちょー可愛いー」
 はらりと視界を横切る前髪の後れ毛越しに、伊武からじっとりとした視線を向けられた。
「いつの間に彼女になってんの。ていうか、ここ、二組だけど」
「私今ハブられてるからー」
「嘘でしょ。すっかり手の平返されてんじゃん」
「まあね。桜井サンがそんなことするよーなコなわけないじゃんねーとか今更すり寄られてもって感じ、マジで。罪滅ぼししてぇなら練習試合の人数合わせにくらいなってくれってさ」
 そこまで言うと桜井は、石田の弁当箱から唐揚げを一つ摘まんだ。「あっ、楽しみにしてたやつ……」と彼女が声を上げるのも束の間、丁寧に半口サイズに切られたそれを、石田の口許に持ってゆく。
「はい、あーん!」
 机をいくつかくっつけた向かいに座る伊武に、苦々し気な視線を送られた。恥じらうように躊躇しつつもそっと唇を持ち上げる石田の姿は愛らしい。彼女の口の中に優しく唐揚げを入れて、桜井は自分の弁当箱に向き直った。
「本当、調子いいよなぁ……」
 ぽそりと呟き唇の端をひん曲げた美少女は、そっと頬杖を突く。しかし暗色の瞳に柔らかな光が宿っているのを認めて、桜井はそっと目を細めた。
「深司っ!」
 すると、不意に。
 聞き慣れた甲高い声が、弁当箱を突き合わせる三人の少女の鼓膜を揺すった。
 視線を向ける間も無く快足飛ばしてやってきたのは、言わずもがな神尾だった。しかしその表情がいつになく険しいものであることに、桜井は訝しんで石田と伊武と顔を見合わせる。
「石田と桜井もいて良かった!」
「うるさいなぁ。何」
 面倒臭そうに問い返しながらも、伊武も幼馴染みの機微の変化には敏く気付いているようだった。
 座る三人に片目をぎょろりと這わせた神尾は、こちらの反応も窺わずに乱暴に口を開く。
「森が泣かされた!」
 三人とも同じタイミングで、箸を落とした。
 からからと音を立てて転がった箸が、机と机の境界線で身を止める。今度は何だと言うんだ。そう問い返す間も無く、神尾が二の句を吐き出す。
「例の奴、ほら、桜井のことホラ吹いてた奴! 一組の、内村がグーで殴った」
 早口で捲し立てられる続きを聞き終わらぬうちに、桜井はがたりと音を立てて椅子から立ち上がった。遅れて石田と伊武も席を立つ。望んでもいないのに今日もまた、二年二組のクラス中の視線を集めてしまうことになっていた。
「なに、そいつが来たの? わざわざ?」
「いや、それが違くてさ」
 いつにない早口で問いを投げた伊武に、その三倍の早さで神尾が返した。
 ちらりと石田を見上げれば、精悍な眉が吊り上げられている。温厚な彼女が憤りを露わにした顔は、あまり見られるものではない。背丈と相俟って、その迫力は十分だ。
「森の話じゃさ、そいつ今度は内村のあることないこと言い始めてるらしくて。取り巻きつけてさ。今朝その話森にされて、あたし聞いてるだけでイライラしてきて、もーそいつらのこと内村みてぇにぶっ倒しに行こうかって思ってたんだけど、」
 神尾と森は、同じ二年三組のクラスメイトでもある。女テニ面子の中で今日誰よりも真っ先に顔を合わせた神尾に、森は相談したのだろう。今日は珍しく朝練が無かったのだ。
 まさかそんなことになっていたとは、と桜井は閉口せざるを得ない。昨日の部活動時間、内村と森とはそれぞれ顔を合わせたというのに、何も気付くことが出来なかった。些細なものであれ部員の変化に気付けないなど部長失格なのではないか。さっと嫌な思考が脳裏を掠めるが、今はそんな個人的なことにうだうだ耽っている場合ではない。
「昼休みになってすぐ、森とよく一緒にご飯食べてる子たちに、森知らねぇかって聞かれたんだけど、あいついなくて。どうしたのかなって思いながらご飯食べてたらさ、わんわん泣きながら森が帰ってきて、びっくりしながらなんとか話聞いてやったら、あいつ一人でそのクソ共のとこに行ってきたみたいでさ!」
 驚きか怒りか、或いは双方からか。興奮冷めやらぬ表情の神尾を、三人の少女は言葉を発することも出来ずに黙って見つめていた。神尾の熱が、じくじくと伝わり胃の腑で固まる。怒りを抑えるのに必死なのは、きっと自分だけではないはずだ。
 そもそもこれは、発端として自分も大きく関わっていることなのだ。
 桜井は頭を振り、周囲にちらりと視線を這わせる。ひそひそと何か囁き合う二組の連中の目がこちらを向いていた。小さく舌を打つ。
 桜井は話途中の神尾の腕を引くと、石田と伊武にさっと目配せした。そのまま四人で足早に教室を飛び出し、室内に声の届かぬ距離まで移動する。
「あたしあいつのあんな顔初めて見たからパニクっちゃって、どうしたらいいかわかんねぇけどとりあえず今内村の奴に言ったらマズそうだって思って、なんかお腹めっちゃ痛いみたいですってことにして保健室連れてってさっきまで付き添ってたんだけど、あいつが泣き疲れて寝ちまった隙に出てきたんだよ」
 そのほんの短い道中も、憤りを孕んだ神尾の言葉は途切れることはなかった。
 いつでも前向きな笑みを絶やさぬ心優しい同輩の泣き顔は、確かにここにいる全員が、今まで一度たりとも目にしたことのないものだった。だからこそ、何があったのかとぞっとしてしまう。
 誰も何も返事をせぬ代わりに、尚も神尾は言葉を吐く。
「流石に胸クソ悪すぎるからさ、どうしようかって思って! お前らに言いに来たんだよ!」
 今にも件の出所の元へ向かわんと血の気が滾っている少女の背を叩き、桜井は「待て待て神尾」と諌めた。
 視線を配れば、伊武は心を寄せる幼馴染みの意気に珍しくも同調してしまっているらしく、崩れたポーカーフェイスに怒気を浮かべている。石田に至っては、黙りこくってぱきりと指を鳴らしている始末だ。体格が良いばかりに様になっている。
『そいつを殴り飛ばすのは、私の役目だったのに、って』
 彼女が告げてくれた言葉を思い出す。余程腹に据えかねているのだろう。こんな場面だというのに、無意識のうちに喜びがむくりと胸に沸いて出た。だが、今表現すべきはそれではない。
 桜井とて無論、途方もない程の怒りを胸に据えている。むしろ、あらぬ事を言いたい放題に流布され、要らぬ厭悪を味わわされてきた桜井こそが最も憤っていて当然だった。
「私、一組行ってくる。一人で」
 冷静な思考は、最早働いていないらしい。自分でも俯瞰でそれがわかっているのに、到底平静ではいられぬ不思議な感覚。
 驚きと不安の入り混じった視線を、皆がこちらに注いでくる。
 持ち上がる勝ち気な眉もそのままに、桜井は無理矢理に口角を吊り上げた。
「森はたぶん、うちらん中で一番強ぇだろ、口喧嘩。だからあいつ絶対、泣かされたんじゃねぇよ。泣く程キレちまうようなこと言われただけなんだと思う。大事な人の」
 桜井の想像に異論を唱える者は、一人として居なかった。大事な人。それが誰を指しているのかも、皆がわかっている。
 揃って憤りを孕んだ鋭い視線を向けてくる少女ら三人に、桜井は大きく口を開く。
「丁度、内村に借り返してぇと思ってたんだよ」
 ばかげたことを言っている自覚はあった。石田の頬が、案じるようにひくりと動く。そんな相方の背を安心させるかのようにばしりと叩き、桜井は軽やかな笑みを浮かべた。
「あはっ。心配なら、五分後に加勢しに来て!」
 上手なウィンクを投げるやいなやひらりと手を振る。爪先はもう既に、一組の教室のほうへと向けられていた。
 相方の不安げな声が背中に届く。しかし追っては来ないことに、信頼し尊重されているのだと嬉しくなった。伊武も神尾も、制止することはない。
 内村と森も含めて、皆が皆揃いも揃ってなんてばかなんだろう――考えるうちに笑えてくる。この一年の間に自分たちは、誰よりも敬慕する先輩に酷く影響されてしまったのだ、とすぐに合点がいった。ますますおかしくなってきて、一組の教室へと駆けながら、桜井は息をつくような笑みを零した。
 大きな音を立てて、一組の教室の後方扉をスライドさせる。
 もはや視線を集めることが恒例になってきた。そんなものは試合中だけで結構なのに、どうしてこんなことになってしまっているのか。決まっている。事の発端は全て、その出所だ。
「内村、改めてこないだはサンキューな!」
 数日前の一件から今まで、早朝や放課後には部室やコートで何度も顔を合わせてきた。しかし気恥ずかしくて上手く感謝の言葉を述べられずにここまで来てしまっていたのだが、激昂とそれに付随する興奮に満ち満ちた今ならば、迷わずすっぱりと口にすることが出来た。
「は?」
 突然の来訪に、ただでさえ小さな瞳を点にさせた内村と目が合う。くつりと喉が震えた。
 彼女が小柄な痩躯をぱたぱたとこちらに向かわせてくるより早く、桜井は早々に件の女を見つけ出す。いかにも人の悪口をオカズに白飯を食って生きていそうな雰囲気を纏った、何人かの取り巻きを周りに置いた少女。げっ、と声に出されたかと錯覚する程にわかりやすく顔を顰めた彼女を睨む。反して、口角は吊り上がったままだ。
 ざわつく生徒たちの合間を縫ってさっさと彼女の前まで進んだ、次の瞬間――桜井は、大きく手を振り上げたのだった。
 スローモーションの世界の中、大好きな野球のコールが脳内に響く。スリーストライク、バッターアウト。チェンジ。




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