大学入学にあたって、1人暮らしをすることにした。寮も考えたけれど、卒業後も暮らすことを想定して、小さなアパートを借りた。
 当然ながら、実家と比べて部屋数も少なければ部屋自体も狭く、キッチンも簡素なもので、おお、だなんて声が漏れた。
 炊事洗濯は辛うじて出来るから1人暮らしに不安は無い。しかし、冷蔵庫が備え付けであるのに、どうして洗濯機は無いのだろう。その問題はすぐに解決された。お隣さんによれば、近くにコインランドリーがあるから、皆そこを利用するのだそうだ。だから、冷蔵庫はあるが洗濯機は無いと。そういうことらしい。
 なるほど、と思い、ひとまずは荷物を出すべく段ボールの封を切った。

 例に漏れず僕もお世話になるだろうそのコインランドリーの場所を確かめて来よう、とひとしきり片付けてから、外へ出た。
 まだ地理のよくわからない町。小さい町だが小道が多く慣れないと迷いそうだ。例のコインランドリーも少し奥まった道沿いにあるらしい。大家さんに貰った手書きの簡単な地図を頼りに、右に曲がったり左に曲がったり目的地を目指す。

「全然近くじゃないじゃん……」

 僕が道を間違えているのかもしれないが、かれこれ20分程歩いているが、それらしい建物は一向に見つからない。一度立ち止まり、辺りを見回す。それで道が分かる訳では無いのだが、地図と睨めっこも疲れた。
 コインランドリーに辿り着くより、家に帰れるだろうかという新たな問題を僕は思い出した。同じ道でも行きと帰りで景色は違う。来た道と間違っていても気付けない。何しろ初めての土地だ。

 すぐそこよ、と恰幅の良い大家さんは笑顔で言った。だからブーツを履いたのも失敗だった。足が痛い。
 何だか急に心細くなり、意気消沈してしまう。まるで親とはぐれて1人ぼっちになった子供だ。人に尋ねるにも、人が通らない。変な裏道にでも入ってしまったのだろうか。
 とぼとぼと重い足取りで十字路の前まで歩く。直進方向には公園らしい場所が見える。左右を見渡す。右に曲がれば多分アパートの方向だろう。左は未知だ。今日はもう帰ってしまおうかと思ったが、知らない道が、どこか神秘的で魅力的なものに見えてつい左へ曲がった。

 曲がった先に神秘的な場所も魅力的な店も無かったが、僕が探していたそれはあった。
 歴史を感じる色褪せた屋根や滑りが悪そうな扉のそれは、物静かに佇んでいた。ゴウンゴウンと中から微かに音がする。5つある洗濯機のどれかが稼働しているのだろう。洗っている当人は不在で、中は無人だった。
 予想していた通り、建て付けの悪い扉を力づくで開け、中に入る。

 外装は改装する気がないらしいのに、中は小奇麗だった。白い壁紙は、ヤニか何かで薄ら黄ばんでいたが多分張り替えてそう何年も経っていないだろう。洗濯機が5つに対し、乾燥機が3つなのが少し気になったけれど、利用者がそう多くないのだろう。
 隅に置いてある週刊誌を手に取ってみた。発行日は割と最近だ。誰かが定期的に変えているらしい。自宅の要らないものを持ってきているだけかもしれないが。

 そうして狭い室内を探り回っていると、人が入ってきた。中年の男の人だった。綺麗に整えられた口髭とモノクルが紳士さを醸し出している。育ちが良さそうな人なのに、コインランドリーを理由するのか、と少し遠い目で彼を見遣る。2つ鞄を持っていて、大きめの鞄がこんもりと膨らんでいる。これから使うのだろう。

「……何かね」
「え、いや、別に……すみません」

 ずっと見ていたから、流石に咎められた。そりゃ誰だって知らない人に見られていたら良い気はしないだろう。彼は少し怪訝そうに僕を睨んでから、気にしない風で洗濯機に鞄の中身を放り込んだ。
 蓋を閉めて、お金を入れてスイッチを入れる。紳士風の男は、近くにあった丸椅子に腰かけ、もう1つの鞄から文庫本を取り出し読み始めた。栞を挟んでいたページを開いて、彼は顔を上げた。突っ立っている僕を訝しんでいた。
 少し何か考えて、先程から稼働している誰のものかわからない衣服を洗っている洗濯機を指差した。

「いつも、終わるまでずっと立っているのかね」
「あ、これ僕のじゃないです」
「は? じゃあ、君は何故ここにいるんだい。洗濯物を持っている様子も無いじゃないか」
「僕、今日引越してきて……」

 事の経緯を話すと、彼は興味を持ち出し本を閉じて乗り出してきた。
 まあ座りなさいと彼の正面の丸椅子に促される。この後の用事など、無事に帰宅出来れば何も無いので大人しく座った。

 1時間程話しただろうか。彼も僕も、最後まで名乗らなかった。途中洗濯が終わり、彼は洗濯物を乾燥機に移し変えている時もお喋りをやめなかった。何だか知らないが話したいことが余程溜まっているらしい。話し相手になってくれるなら初対面の僕でも構わないようだった。
 話も尽きた頃、彼は壁時計に目をやる。思っていたより時間が過ぎていたのか、目を丸くして苦笑していた。帰らねば、と鞄を持ち上げる。初めての町に、初めての知り合いを得た気分になっていた僕は少し寂しさを覚えた。

「よく来るんですか?」
「まあ、独り身だと何かと面倒でね」

 優しげな微笑みは見るからに人の良さそうな雰囲気を漂わせた。頭も良さそうなのに、独身なのか、いやもしかしたら奥さんに先立たれたのかも、と勝手な想像をして彼の背景を考えた。
 僕も帰ろうと彼に続いてランドリーを出る。そして気付く。帰り道が分からない。大家さんに貰った地図ではまた迷宮入りしてしまう可能性がある。

 では、と手を振り去ろうとする彼を引き止める。この辺に住んでいる人ならばあのアパートへの道も知っているだろう。
 アパートの名前を出して道を尋ねるととてもとても驚いた顔をされた。すぐそこだよ、と指を差す。へ、と彼の指差す方向を向けば、すぐ帰ってくるからと開け放たれたままの僕の部屋の窓からなびくカーテンが見えた。

 一体どういう道の迷い方をしたんだと彼は大笑いしている。僕はとんでもなく遠回りをしたようだった。途端に恥ずかしくなり火が吹けそうな程顔が熱くなる。
 彼は余程面白かったらしく、まだお腹を抱えて震えている。やめてよ! と声を荒げると、すまないと笑いに震える声で謝られた。謝罪の意志が全く感じられない。

「人の失敗を笑うのはよくない、と、わかっているのだが、」

 耐えきれなかったらしい、話している途中で彼は吹き出した。茶髪から覗いた耳は真っ赤だった。笑い過ぎだ。あんまりにも笑い続けている姿が予想外だった。正確な年齢はわからないけれど、十分落ち着いて良い年だと思っていたのに、これほど笑うとは。その姿に思わず貰い笑いする。
 笑い声に煽られたかのように、カーテンが揺れる。


 彼は賢者と人から呼ばれているらしい。本名よりもこちらの方が知れ渡っているとか。
 賢者。あの容姿や喋り口調、博識そうな雰囲気からしてもしっくりくるあだ名だった。お偉い先生なのよと大家さんは何故か誇らしげに言った。
 話していてとても楽しかった。また会えるだろうか。
 今度は僕も洗濯物を持って行った時に、会えたら良いなあ、そしたら僕も自己紹介をしよう。年の離れた友達が出来た気分だ。

 人の気配がまだ染み付いていない部屋はどこか寂しい。こんなものなのだろうか。それとも日暮れだからだろうか。
 大学が始まるまで2カ月程ある。その間にこの町に馴染んでいれば良いなあと綺麗な夕方の空を見た。



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