彼はいつも夕刻頃現れるようだった。
 仕事の関係なのか、理由は誤魔化すばかりで教えてくれないが、他の時間帯で彼と会った事は無かった。それに気付いてから僕は彼と会える時間を狙ってコインランドリーへ足を運んでいた。
 先に来ている時、決まって彼は文庫本を読んでいる。扉を開けると、彼は顔を上げて、やあ、と笑うのだ。それが何だか心地良く、彼が先に来ていないと少し迂回したりしていた。

 よく考えれば、名も知らない年齢も離れた男の人と会うのが楽しみになっているのは、あまり人に言えないことではないか。そう、名前さえ知らない。僕も彼に名を言った事も無かったし、聞かれた事も無い。
 彼と会うのは何時だってコインランドリーで2人だ。喋り出したら相手は1人しかいない。だから、呼ぶ必要も無いのだ。

 けれど、仲良くなったのだから、名前ぐらい知りたいと、思ってもいい筈だ。
 今日も今日とて、2人で雑談をしながら、衣服が洗い終わるのを待つ。彼の話す「美しい数学の話」が終わってから、言いたかった話題を持ち出した。

「ねえ、自己紹介しようよ」
「今頃だねえ」
「名前ぐらい知っても良いでしょ」

 彼はふむ、と漏らし手を顎に持ってきた。まるで教えたくないような素振りだ。
 返事を待っていると彼は組んでいた足を組みかえて、モノクルも掛け直した。僕は無意識に前のめりになっていた。男の名前1つ聞くだけなのに、どうしてこんなにドキドキしているんだろう。

「まず君から」
「えっ」
「それが礼儀というものだろう?」

 にこりと微笑み、彼は僕に先に自己紹介しろと促した。確かに尋ねたのは僕だし、僕だって彼に何一つ僕についての情報を教えていない。
 彼はゆったりと足を組んで、何時までも待つ姿勢を見せた。
 納得して僕は姿勢を正した。改めて名前を言うということが少し照れ臭くて緊張した。今まで散々喋って、十分仲良くなったのに、本当に今頃だ。
 名前と簡単な来歴を喋ると、足を組み直して彼は成る程と呟いた。

「イヴェール・ローラン。良い名だね」
「そうかい? ありがとう」
「冬と言うのは空気が澄んでいて美しいね。きっと君も澄んでいるんだろうね」
「……恥ずかしいこと言うね」
「はは、そうかい? 思った事を言ったまでさ」

 胸の内がむず痒い気分になる。彼はいつもと表情を変えず飄々としている。
 冬という名前は、小さい頃散々面白がられていたから余り好きな名前では無かったけれど、彼に良い名だと言われて少しだけ良い気分になれた。
 それに、と彼は少し僕に近付き顔を覗き込みながら、人差し指を自分の目を差した。

「その珍しいオッドアイも綺麗だと思うよ」
「気付いてたの……」
「そりゃ、顔を見ていれば誰でも気付くと思うがね」

 これも気にしていた一つだったのに。室内の電気は随分前に壊れたのに誰も修理しないから付かない。それにいつも夕方に会うから暗がりなら目の色などわからないと思っていたのに。観察眼が優れている彼には隠せなかった様だった。
 この目で小さい頃はよくいじめられたものだ。だから前髪は自然と長くなっていたし、いつも俯きがちにもなった。今ではそういうことも無くなったと思っているが、無意識の内に隠そうとしているのかもしれない。

「他人の特徴を蔑む者は感覚が貧しいのさ」

 彼は優しく微笑む。少しの後ろめたさを感じつつ、納得もする。それに、彼にそう言われると、妙に説得力があるように聞こえ安心できた。
 心にほっこりしたものを覚えながら、そうだ彼の名前を聞いていないことを思い出して、体を乗りだして彼に手を差し出す。
 彼は不思議そうに僕の掌を眺めてから、また不思議そうに首を傾げた。

「貴方の名前、教えて下さいよ。賢者様?」
「知ってるじゃないか」
「本名な訳無いじゃないですか。賢者、だなんて」
「君の冬の名も如何なものかと思うがね。良いじゃないか。私は賢者で。呼ばれ慣れているし、むしろ、今私の名前を呼ぶ人の方が少ない」
「でも、知りたい」
「……そうかね」

 いやに名乗る事を渋る彼に、ふと一つの不安が募る。
 もしかしてこの人は何かの犯人や、あまり日の当たる場所を歩けないような職業なのではと良からぬ考えが浮かんだ。当然名乗りたくは無いだろうし、周りで聞く様な凄い先生だとか賢者というあだ名は彼が作った「設定」ではないか。
 知り合って随分経つのに何も知らない彼の事が、途端に怖くなった。優しげに笑う裏に何を抱えているのだろうと訝しんだら、末恐ろしくなった。

 足を組み変えて姿勢を整えている彼を見て、直感が逃げるべきだと告げた気がした。いつも文庫本を取り出す鞄の中に、他に何を仕込んでいるのだろう。
 鞄へ意識を向けている時に、タイミング良く彼が鞄を開けて中から何かを出そうとした。生命の危機を感じた僕はあからさまに慌てて立ち上がって、乾燥機に洋服を入れたままであることを忘れて、帰るねと早口に告げた。

「私の名前は良いのかね」
「ま、また今度で良いやっ! 僕急用思い出したから、帰るね」
「……嗚呼、気を付けて。またそのうち」

 彼は訳が分からないといった、釈然としない顔をしていた。それはそうだろう。
 出ていく間際、後ろから「荷物は」と声がしたが、それよりもその場から離れることを第一に考えていた僕は返事もしないで走って帰宅した。

 電気を付けないと薄暗い夕方の明るさの中、僕は玄関に立ち尽くした。
 何してるんだろう。勝手に怖がって、彼を裏切る様な事をしてしまった。きっと困惑しているに違いない。コインランドリーの外から一瞬だけ見た彼の顔は、なんだか少し悲しげに見えた。何かを喪失してしまった様な顔に見えた。
 全て僕の思い過ごしなのかもしれない。けれど、手探りで築き上げてきた二人の間の何か、信頼や友情といった関係性は今崩れ落ちて、もう二度と修復できない様な気がした。

「だって、名前も知らないじゃないか」

 名前も知らなければ、住所も知っている筈も無い。彼があのコインランドリーへ訪れなくなったら会う事も出来ない。今日の事を弁明する余地も無い。
 まだ始まってもいない関係が終わった。僕が終わらせてしまった。
 じわりと、目尻に熱いものが滲んだのが分かった。





 大学の入学式である。
 新品のスーツに袖を通して、既に少し散り始めている桜を横目に大学内を進んでいく。
 入学式は外で行うから、既に来ている新入生やその親達がひと固まりになっているのが遠目からでも分かった。僕の親は来ないから独りぼっちだ。
 あの日以来コインランドリーで、彼と遭遇する事は無くなっていた。僕が避けていたのもあるけれど、彼も遠慮していたのかもしれない。

 学長やら学部長やらのつまらない話を適当に流していると、司会進行が次は教授の紹介だと告げていた。自分の学科の教授ぐらいは把握しないとなと思って少し気を張って姿勢を正す。名前を呼ばれては立って周りに軽い会釈をしている老齢の教授ばかりで、つまらないなと思っていた直後に僕は思わず立ち上がってしまいそうに成る程驚いた。

「クリストフ・ジャン・ジャック・サンローラン先生です。主に、犯罪心理学を研究しています」

 そう呼ばれて立ちあがって優雅に礼をしたのは、まぎれも無く寂れたコインランドリーで僕と会話をしていたその人だった。一人ハットをかぶっているから目立っていたのに、今の今まで気が付かなかった。彼は僕を見つけてはいなかったようだったけど僕がこの大学に入学するのを知っていたのだろうか。
 いや、言った覚えがある。あの時まず僕が自己紹介をした時に、今度からここに通うんだと嬉々として言った気がする。

 だから彼は、先生は知っていたのだ。なのに僕と来たら、犯罪者じゃないのかと妙な疑りなんかをして敬遠していただなんて。とんでもない勘違いに気付いてしまって、焦りと羞恥で体温が5度ぐらい上がった気がした。きっと、今顔真っ赤だ。恥ずかしい。彼の講義取った時、どんな顔をしたら良いんだろう。彼もまたなんて言うだろう。
 初めてコインランドリーへ目指した日を思い返す。酷く遠回りしたことを言った時の彼の耳まで真っ赤にして大笑いしていた光景を再生する。とんだお笑い草だ。出来るなら彼のゼミには入りたくない。

 入学式が終わり、帰ろうと歩き出したら声をかけられた。
 その声色にドキリとする。恐る恐る振り返ったら、ステッキを持って、まさに紳士のテンプレートみたいな姿の「賢者」が立っていた。

「ようこそ。これからよろしく頼むよ、イヴェール君」
「……なんて言ってくれなかったんですか」
「言う必要もあるまいと思ったし、私がここの教授と知ったら友人では無くなってしまうだろう?」

 軽快に笑いながら、先生は近付いてきた。また大笑いされるのかと勝手に落ち込む覚悟をしていたが、彼は僕の目の前まで来て手を差し出した。
 こうして正面に向かい合って立つのは初めてだと気付いた。少しだけ、彼の方が背が低い。と言っても、目線は殆ど一緒だった。

「改めて、名乗らせてもらうよ。長いから皆覚えてくれないのだがね」

 にこりと微笑む先生は楽しそうだった。やはり少し面白がっているのかもしれないけれど、それでも良かった。僕の勘違いで良かったし、こうしてまた彼と出会うことが出来たのが、なにより嬉しかった。
 差し出された手に僕も手を伸ばす。握手をしたのも初めてだ。
 やっと始まるのだ。僕らの関係は。





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おしまい






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