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杏仁恋華





「なまえ殿!!」
「うきゃっ!ば、馬将軍!」

今日も馬超は朝の鍛練を終えて、部屋に戻る途中の廊下で、雑巾片手の一人の女官に話し掛けた
が、その声は近い距離にそぐわず話しかけるというよりは怒鳴って居るようであり、女官は一瞬びくっと肩を揺らした
しかしすぐに笑顔になる
最初は自分よりも一回りも二回りも大きな猛将に怯えきって小さな身体をさらにちぢこめていたのだが、
見かけるたびに溌剌とした(空回りとも言う)挨拶を一生懸命くれる馬超に、慣れた今では笑顔を返すようになったのだった

「お、おはようございます」
「あぁ!今日も早いのだな」
「将軍こそ、朝からお疲れ様です」
「あぁ!」

なまえと呼ばれた女官がにぱっと笑いかけると、馬超は嬉しそうに頷いた
馬超はなまえにほのかに好意を抱いていたのだった
本人は自覚した上でそうなのかどうかは定かではないが。
朝の鍛練を終えて、部屋へ戻る道を少し遠回りしてなまえの掃除の管轄である渡り廊下を通るのが日課になっていた
最初の頃はいつもいる城であるにもかかわらずこの渡り廊下と自分の住まい、そして鍛錬場の位置関係が把握できず
うろうろしたこともあったが、最近では整えられた花園の花を、名前はわからないが視界の端に楽しみながら歩く余裕も出てきたようだ
馬超にとって特にこの廊下は綺麗に見えるのだ
時折、なまえの方が先に長身で目を引く馬超を見つけてくれることがある
そんな時馬超は嬉しくて心から笑顔になってしまう
そしていつものように和やかに挨拶を、たまに少しの世間話を交わすのだった

「あっ将軍…」
「なんだ?」
「頬に泥が…」
「何っ、泥?ここか?」

泥をつけてなまえに会って、さらに指摘されたことが恥ずかしくて慌てて頬を手の甲でこする馬超
そんな馬超になまえも慌てて手を振る 

「あぁあ、反対がわです」
「何っ、こっちか!」
「もうちょっと下!」
「む、とれたか!?」
「もーーちょい右に…あ、将軍から見て左に!」
「くっ…!これでどうだ!」
「とれてません…ふふっ」
「??」
「お手も汚れていらっしゃったんですか?もう、そこかしこに泥がついてしまいました」
「ん何ィ!?」

やだもー、といってからからと笑うなまえに馬超は驚き半分で心臓が早鐘を打つのを聞いていた
いつもくれる笑顔に増して、こうして声をあげて笑うなまえも可愛いと馬超は思った

「馬将軍。…馬将軍?」
「はっ、や、その…!」
「いかがなさいました?
あの、もしかして…私が笑ったからお気に障って…」
「ち、違う!!そうではない!!ただ、少し考え事を…」
「そう、ですか?なら良かった」

安心したようにまたにぱっと笑うなまえに、
またさっきの様な胸の高鳴りを覚えて、何気なく顔を逸らす馬超
そんな馬超の前に、一枚の綺麗な布が差し出された
馬超は一瞬ぽかんとしてなまえの顔を見る

「…?これは?」
「もう綺麗な布で拭ってしまった方が早いです」
「そっ、それだけのために使えん!!」
「でも、そのままでは笑われてしまいます」
「し、しかし…そこの水場で洗えば済むこと!」
「ではお顔を拭く時にお使いください!ね?」
「だが…」

なまえはしぶる馬超の手をとってその上に自分の手巾をおいた
驚いて、何も言えずになまえを見ている馬超になまえまた微笑むと、まだ仕事があるからと去ってしまった
突然のできごとに動けずにその場で立ちすくむ馬超
自分の手をとったなまえの手が自分のものとはてんで別物で小さくてやわらかかったことにびっくりしていた
そしてその感触を思い出すと自分がなまえに触ってしまったのだと今更ながら実感して馬超は赤くなってしまった
破廉恥な!!!とぶんぶんと頭を振ってもなかなか顔の熱は収まらなかった






ある晴れた日、馬超はこの間の手巾をなまえに返そうと朝から緊張していた
あのあと顔の泥を洗い落とし、いざ手巾を使おうとしたとき、一瞬ふっと花のような香りが馬超の鼻hを掠めた
それでなんとなく、使えなくなってしまった馬超
結局、顔がびしょびしょのまま部屋へ帰り、手巾も使っていないながらちゃんと洗った
そしていざ、拳を握って決意を固めると綺麗に折り畳んだ手巾を手にして部屋を飛び出した
今日は結構な時間を潰してしまったので、今日は鍛練はせずにまっすぐなまえのもとへ向かった

「いた…!なまえ殿…」
馬超が視界になまえを捕らえたその瞬間、動きを止めて強張った

「え!?そうなんですか〜」
「えぇ、私も驚きでした」
馬超の目に入ったのは楽しげに談笑するなまえと、蜀の麒麟児、姜維だった

「私…ほんと大好き!」
「…私もですよ」

馬超は頭を鎚で殴られたような錯覚を覚えた
少々頬の血色をよくしてはしゃぎ気味に姜維に笑いかけるなまえと姜維の優しげな横顔
頭が混乱して目の奥がガンガン煩く鳴っている気がした
力が抜けて、今にも崩れ落ちそうな足になんとか踵を返させ、2人に気付かれぬよう部屋へ戻った




「…?馬超殿がいないな…まだ鍛練でもしているのか」
「さぁ…いつもはもういるはずですけどね…?」

人が集まり始め、賑やかな食堂は時間を追うごとに高くなる陽がさして今は晴れやかな朝を感じさせる明るさだった
いつもの食事に加え、諸葛亮から言いつけられた栄養食、そして月英特製の旬の野菜和えを加えた珍しく豪華な膳を前に、
朝餉の席に現れない馬超に首を傾げる趙雲と姜維
そこへ何も知らないなまえが手に杏仁豆腐を持ってやってきた

「姜維様!これです、お持ちしました!」
「なまえ殿!ありがとうございます」
「やあなまえ」
「趙雲様、こんにちは!趙雲様もどうぞ」
「?これは?」
「趙雲殿ご存じないですか?白鳳堂の杏仁豆腐です、お勧めですよ!」
「今日からこの食堂でも食べられるようになったんです!お姿が見えたので趙雲様の分もと思ったんですが…お嫌いでしたか?」
「いや、ありがとう、では頂いてみようかな」

ニコ、といつもの人好きのする笑顔で笑って趙雲が匙を持つと、姜維となまえは嬉しそうな顔を見合わせ笑った

「なるほど…それで杏仁豆腐にあんなにはしゃいでいたのか」
「これはおおごとですよ!」

クス、と笑いを零す趙雲
話を聞けば、なまえと姜維は杏仁豆腐好き同士話が合い、2人御墨付き白鳳堂の杏仁豆腐が食堂にくるのでちょっとした話題だったという

「君らがそんなに杏仁豆腐好きだったとは知らなかったな」
「どうですか趙雲様!美味しいでしょ?」
「そうだね、こんなに美味しい杏仁は初めてだ」
「やったー!!」

何がやったのかはよくわからないが、とにかく嬉しそうに笑うなまえに2人も微笑んだ


「時になまえ…」
「はい?」
「馬超殿を知らないか?今日朝餉にきてなかったみたいだが」
「え…っ」
「心配だなぁ…誰か様子を見に行ってくれると安心なんだが…」

どこか宙を見つめてそう言ったあと片目でちろっとなまえを見やって口角を僅かにあげる趙雲
なまえは一気に真っ赤になってしまった

「ち、趙雲様!か、からかわないでください…」
「ははは、すまない
ほら、行ってあげなさい」
「…ありがとう、ございます…」

目を泳がせたなまえは、真っ赤な顔のまま俯いて消え入るような声でそう言ったと思うと、
足早に食堂から去って行った













「馬将軍」

馬超の部屋の空間を区切る掛け布の向こうから細い声がかかった
馬超は自室の机に竹簡を広げて、それを進めるでもなく頬杖をついてボーッと見つめていた
書簡の仕事は苦手だが、なまえの頑張る姿に元気をもらうと嫌いな書簡にも向き合えるのだが
どうやら今日はだめらしい

訪問者が女官だと思い込んだ馬超は、そちらに目も向けぬまま入れ、と一言かけた

「あの…失礼します」
「え…なまえ殿…!!?」
突然のなまえの来訪に馬超は驚き目を見開いてガタッと立ち上がった
心臓がドキマギと変な脈を打っている
恭しく礼をするなまえのほうを見て驚きを隠そうともせず立ち上がったまま唖然として動かない馬超
なまえはちょっと困っていたが、すこしそわそわしながら話し出した

「あ、あの…馬将軍、朝餉の席にこられなかったようなので……し、心配で…」
「え…あ、あぁ…」
変な緊張が馬超にどもらせ、らしくない歯切れの悪い言葉しかでてこなかった
2人の視線はどちらも床をはい回るばかりで、なかなか思っていることがいえない
先に赤みを帯びた顔を上げたのはなまえだった

「あのっ馬「なまえ殿は…」
「…へ……?」

勢いを遮られ、半ばつんのめってしまったなまえに構わず、というよりは構っていられず、
俯いたまま言葉を絞り出す馬超

「…なまえ殿は……その、……き、姜維が…好き、なのか……?」
「……へ………?」

思いも寄らない馬超の質問に、なまえの思考は驚きで全て吹き飛んでしまった
「な、な…何故、そのような…」
「き、姜維とは…仲が良いのか…?」
「しょ、将軍…?な、何をおっしゃって…」

なまえを混乱に落としつつ、自分も混乱に陥り気味の馬超は埒が明かないこの状況に痺れを切らしたようで
意を決して口を開いた

「俺は…その…姜維の様に才知に溢れる訳でも、物腰柔らかいわけでもない」
「…将軍…?」
「だが…この想いを偽ることは、できないのだ…」

馬超は、なまえを真直ぐ見つめた
一瞬ひるんだなまえの華奢な肩に馬超の大きくて無骨な触れた

「なまえ殿!好きだ!」

突然、なまえの目から涙がぽろぽろとおちた
馬超は、一瞬悲しそうな表情をして、机の上にあった手巾をなまえの頬へあててやった
「すまんっなまえ殿に辛い想いをさせると知っていながら」
「っ…いえ…いえ、将軍…ちが…っ」
「無理をしなくていい…」
「ちがう…っ将軍、私…
…私も、将軍をお慕いしてました…っ」
「………は……?」
「私も…将軍が……その、好き…です」

心臓がうるさく鳴るのを聞きながら、馬超の思考は停止してしまった
本気で状況をつかめない馬超
軍議中に諸葛亮の話が難しくてよくわからないときのような顔をして瞬きをしている

「……………?」
「え…あ、あれ…?そういうことじゃないんですか…?」
「い、いや…ちょっと待て。
では…では何故、なまえ殿は泣いて…」
「そ、それは……う、嬉しかったからです…っ」

また俯いて言葉を零すなまえ
馬超はいつもの笑顔になった。うれし涙と女心がようやく馬超にも理解できたらしい

「なまえ殿!!」
「わわっ!」

いつもの声量でなまえの名前を呼ぶとなまえの小さくてやわらかい手をとって笑う馬超
なまえもいつものように驚いてしまうがすぐに笑顔になって馬超を見上げた

「俺が、なまえ殿を守る!」
「…嬉しいです」

馬超と想いが通じ、ついでに馬超が元気になったことが素直に嬉しいなまえは、
馬超に手を握られたまま馬超にそっと寄り添った





「す、すまん…また使ってしまったな」
「いいんです、自分の涙だし。それより将軍!!」
「な、なんだ」
「これ、持って来たんです」
「これは…杏仁…?」
「絶品なんです!私と姜維様のオススメ…あっ」
「?」
「将軍、私と姜維様が杏仁の話してるの見て勘違いなさったんですか?」
「そう…だったのか?」
「姜維様は杏仁友達です
あ、どうですかお味」
「ん?あぁ、うまい」
「…ちゃんと味わいました?」
「(ギクーッ)あ、あぁ、絶品だな!」
「…」
「それより、なまえ殿!」
「は、はい」
「何故俺だけ馬将軍なんだ!?」
「え、だ、だって…
…は、恥ずかしくて…」
「お、俺は…正直、姜維が羨ましい…」
「で、では、…馬超様、と?」
「字でも構わん」
「えぇ!そそそんな出過ぎた真似できません!」
「!!(ガーン)」







「…やっぱりですかぁ」
「ふふ…なにがだい?」
「もう全て分かってらっしゃるんでしょう、趙雲殿は…」
「まぁ、ね」
「…本当は私、杏仁ってそんなに好きじゃないんです」
「…うん」
「なまえの気を引こうと思って…
浅はかでしたね、あっさり馬超殿に負けてしまいました」

杏仁を口に運んだ匙を咥えたまま、姜維は眉を下げて苦笑した

「そんなことないさ、なまえが心置きなく杏仁の話ではしゃげるのは君の前だけだ」
「私はもう杏仁はお腹いっぱいですよ…」

2人はハハハと笑みを零した



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