Novels | ナノ

ゆきお








「ん…?」

平山が自分のマンションに帰り部屋の前に立つと、ドアの隙間に鍵がかかっていないのが見えた
戸締まりしたよな、と思いつつドアを開けると、予感は自分のものより一回り小さな靴によって確信に変わった

「…ただいま」

静かで暗い部屋に声が響く
一応玄関先で声をかけてみるが返事はない
それどころか電気は一切消えていて自分が家を出た時のままであった

「…なまえ」

呼んでみても返事がない
またか…とため息をついて電気をつけて行く平山
着替えようと自分の部屋のドアを開けると、ベッドの上の布団が壁際に異様に膨れ上がっている
平山は呆れを通り越してフフ、と笑いを零した

「返事くらいしろよ」
「…」
「またそれか…」

以前も帰って来るとなまえが平山のベッドで立てこもっていたことがあった
何を言ってもだんまりで、結局布団ごと引っ張りだしてなまえの好きなオムライスを作ってやり、
やっとなまえが訳を話し出したのだった
平山はため息をついて疲れた身体を半ば放るように乱暴にベッドに腰掛けた
と、なまえ…というよりなまえがかぶっている布団が一瞬ぴく、と反応した
平山はそれを見て、そっと布団を引っ張ってみた

「…なまえ」
「…」

が、一向に布団ははがれず、返事もない
くい、くい、と何回か引っ張ってみたが同じだった
平山はベッドにあがってなまえと同じように壁に寄り掛かってなまえの隣に座った
きっとまたなまえに何か悲しいことがあったんだろうと思ったがしばらく黙っていた

「なまえー、お前な、人のベッド勝手に使うんじゃねーよ」
「…」
「しかも女の癖に男の部屋入り込んで男のベッド占領して…アホか」
「…うるさい」
「ん?」
「…ゆきおのバカ」
「は…はァ?オレ?」
「私ばっかり…いっつも…」
「なまえ?」

返事は返ってきたものの、どんどん潤んでいく声に平山は少し焦って声を掛ける
鼻をすする音が布団の中から聞こえる
予想はしていたが実際になまえが自分の前で泣いているのはどうにも心臓に悪かった
布団の上に手を置いて名前を呼んでみるがず、という鼻をすする音ばかりが返ってくる

「どうせだめなの…私が書いても…」
「なまえ?なんだよ、どうしたんだよ」

平山が布団をくいと引っ張るとそれはいとも簡単にずり落ちて、なまえの泣き顔がようやくあらわれた
目や鼻と同じように赤い頬には涙の跡がしっかり残っており、子供のようにひどい泣き顔だった
平山はそんな顔でもとりあえず見られたことに安堵した

なまえは布団をはがされても歪めた顔を斜め下に向けたまま平山の方も見ずにぼろぼろ涙を零している
平山はなまえ、と名前を呼んで頭をぽんぽんと撫でてやった
どうにか落ち着かせて、安心させて、安らかな笑顔に戻って欲しかった

「なまえ」
「んぐ…うるさい…」
「…なまえ」
「やだ…やだ…!」
「なまえ」
「ゆきおなんかあっちいって…!」

なまえはさらに顔を歪めてそっぽを向くと手をばたばたさせる
平山はわかったわかった、と横にずれてなまえから少し離れて座ると息をついて懐から煙草を出そうとしてやめた
なまえはまた顔を両手で覆って小さく嗚咽を漏らし始めた
平山は手を伸ばしてそーっとなまえの頭に触れた
しばらくしてなまえがぽつりぽつりと言葉を零し始めた
言葉通り蚊の泣くような微かな声を聞き逃さないよう平山は少し身をかがめた

「…ぅ…あの、ね」
「ん?」
「ぐすっ…今日ね、論文が返ってひぐっ…返ってきてね…」
「ん」
「私また…うっ…次点だったの…」
「…そうか」

平山はこの間までなまえがせっせと分厚い本を何冊も傍らに置いて机とパソコンを行き来していたのを思い出した
論文が次点というのは、簡潔に言えば不合格ということである
それだけなら大したことはないのだが、一位をとったこともある自分の得意科目のはずが
最近次点続きでとうとう今日最低点を取ってしまったというのだった

「だめなの…っく…できないの…」
「うん」
「途中経過はいいって…先生言ってくれたのに」
「うん」
「ぐずっ…だから、だから、今度は及第いけるかもって…思って」
「ん」
「はぁ…頑張ったんだけどね、…だめだって」
「ん」
「この間話した子、ぐすっ…いちばんだったよ…」
「ん」
「もうわかんない…ひっく」
「うん」
「進級、間に合わない」
「…ん」
「ゼミ、出たくない」
「…ん」
「もういや」
「なまえ」

平山はなまえの隣に戻るとなまえの肩に優しく腕を回し、頭をこつ、となまえに預けた
なまえも応えるように平山に頭を預けて寄り添い合う

「バカだな、腹減って元気出ないんだろ」
「…」

なまえは鼻を啜り、時折ひくっと嗚咽を漏らしながらも黙って静かな平山の声を聞いていた
心の疲れか泣き疲れかはわからないが、心なしかやつれてくたっと平山の腕の中で大人しくしている

「…オレ大学のことはわかんねえけど、
ゼミ出なくていいし…留年しても付き合ってやるし…学費だって助けてやるし、さ」
「…」
「なまえがそれじゃ嫌なら頑張れるように手助けもしてやるから」
「…」
「だから嫌だとか言うなよ」
「…」
「泣いてもいいけど…泣き終わったらちゃんと元気になってくれよ」
「…」
「なまえ」

ずっ、となまえが鼻を啜る音が響く
またかたく結んだ唇が震え始める
ぐい、となまえが平山の肩に擦り寄ると平山は両手でなまえを抱きしめた

「…ゆきお」
「ん」
「…お腹空いた」
「くくっ、やっぱり」
「…オムライス、作って」
「はいはい」

なまえの背をぽんぽんと叩いて立ち上がる平山
なまえもしばらくうずくまっていたが、やがてゆきお、とか細い声で平山の名前を呼びながら、
布団にくるまったままずるずると平山の後をついていく
キッチンでテキパキ作業を始める平山の背になまえが声を掛けた
平山は何やらもこもこの布団にくるまり何かいにしえの妖怪のようになっているなまえに噴出しながら返事を返した

「ゆきお」
「あ?」
「あの…ごめんね」
「は?」
「ごめんなさい…怒ってる…?」

なまえは叱られた子供のように俯いて言うが、自分の怒る理由がわからない平山は卵を一旦おいてなまえへ向き直った

「な、なんで」
「さっき…バカとか、いろいろ言ったから…」
「ぶふっ」

思わず平山は吹き出した
最初自暴自棄だったなまえの暴言を謝っていたらしい
そういえば、ばかだのあっちいけだの、やたら幼稚な暴言をかけられたような。
さして気にしていない平山はくくくと笑った

「バカ」
「…」
「…やっとオレの方見てくれたからもういいよ」
「…ゆきお…」
「…い、いいから座って待ってろバカ」

気恥ずかしくなったのか、ちょっと雑めに頭をぽんぽんと叩いて投げやりに言い捨てるとキッチンに戻る平山
なまえはそれを呆然と見送ると、またぽろぽろとその目から涙をこぼした
平山は慌ててなんだなんだどうした、悪い痛かったか、言い過ぎたかと長身をかがめてなまえと視線を合わせるが
なまえはとめどなく落ちる涙もぬぐわずに首を横に振った

「ゆきお、ありがとう」
「は?」
「ゆきお、ありがとう」
「あ…あぁ」
「ゆきお、ありがとう」
「ん、わ、わかったよ」
「ゆきお、好きです」
「あ、そう、」
「ゆきお、好き」
「あー…うん、オレも」
「ゆきお、ほんとに、ありがとうね」

なまえが平山にぎゅーと抱きつくと、平山は驚きながらもそーっと背中に手を回し、うん、と笑った
その日は二人で笑いながらオムライスを食べた
平山のオムライスにはなまえがケチャップで“だいすき”と書いてあげたのだった



Back
Top

-
- ナノ -