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懐月









夕餉を終えて、自室で執務を進めていたなまえの手元を、ふわりと一陣の風が撫でた
顔をあげて窓の外をみればうっすらと夜の漂う宵時分の空が美しく、思わず筆を止めた

長いこと同じ姿勢でいた身体を伸ばし、少し休もうかと椅子から立ち上がったなまえにその時ちょうど誰かが声をかけた


「なまえ殿」
「…陸遜か」
「今お手空きですか?」
「んなわけあるか」


べっと舌を出すなまえの後ろの机の書簡の山に苦笑する陸遜
戦の後はいつもこうして書簡に追われる武将達
雄々しい身体を縮こめて、武器でなく筆を手に机に向かうのは慣れないようで、昨日も甘寧が爆発したばかりだった


「休憩すんだよきゅーけい。
いーだろちょっとくらい」
「もちろんです。そのために来たんですから」


手の中の酒をあげてみせる陸遜の用意の良さに驚きつつもなまえは半ば呆れたように陸遜を自室に招き入れた


「相も変わらず質素な室ですね」
「そういうのを余計なお世話っつーんだよ」
「今度私が花でも誂えてあげましょうか」
「よほど俺を怒らせたいと見た」
「やだなあ冗談ですって」
「あのなあ!」


ははは、と笑ってごまかしつつ、なまえのデコピンから額を抑えて逃げる陸遜は、普段の聡明な若手軍師の顔ではなく、年相応の少年の笑顔だった







「なまえ殿はお酒強いですよね…」
「ん?んーまあ普通じゃないか」
「強いですよ…いつも私が先につぶれる」



ちょっと拗ねたように言う陸遜になまえはからからと笑う
二人とも程よく酒が入り、かすかに顔に赤みがさしている


日はとうに落ち、すっかりあたりは夜になった
時折ゆるりと入り込む風も昼間より冷たいが、酒で火照った二人には心地いいことこの上なかった

なまえが自分の盃にまた酒を注いでいると、ふいに陸遜がじっと自分を見ていることに気づいた


「ん?」
「…ふふっ」
「?どした?」
「………」
「んん??」


徳利を細い指で持ったまま、陸遜へ耳を近づける
さらりとなまえの長くはない髪が揺れた
陸遜はいよいよ声を出して笑った


「なんだよ、なに笑ってんの」
「あはは、すみません、だって」
「だって、何」
「なまえ殿が『ん?』って言うの、かわいいんですもん」
「…はあ?」
「なまえ殿が『ん?』って言ってくれるの、私好きなんです」
「…なんだそれ」


にこにこと嬉しそうな陸遜のあまりに素直な感想に、なまえは気恥ずかしそうに頭をかきながら「ったく、酔っ払いはよー…」とごまかした


「失礼な、酔ってません」
「酔ってるやつほどそう言うんだよ」
「酔ってないから酔ってないです」
「わかったわかった、お前は酔ってないよ」
「酔ってなどいません!」
「わかったっての…」


苦笑しながら立ち上がると、なまえは寝台にごろりと横になって自分の隣をポンポンと叩いた


「えーもう寝るんですか?」
「えーじゃない。お前今日結構いっただろ?とりあえず酒はおしまい」
「えー」


不満の声をあげつつもすんなりとなまえの隣へ横になる陸遜
掛け布をぎゅうと握り締めるとバカ、俺にも寄越せとなまえが引っ張り返す


「酔ってなんかないのに」
「はいはい」
「なまえ殿」
「ん」


くぁあ、とあくびしながら応えるなまえに陸遜はまたふふっと笑った
それに気づいてなまえはハッとあくびをとめつつじろっと陸遜の方を見た


「あのさあ…」
「ふふ、あはは」
「…返事しにくい」


ごろ、と陸遜に背を向けてしまったなまえに陸遜はしかし楽しそうな表情を崩さない


「なまえ殿はそうやって、私の話を聞いてくれるから好きです」
「…俺以外の奴もちゃんと聞いてると思うけど」
「『ん?』って言ってくれます」
「………だからぁ………」


少し肩越しに振り向いたなまえはまたそっぽを向く
がしがしと頭をかくと蚊の鳴くような声でつぶやいた


「……おまえ、小さいし…聞いてやらないとって思ったんだよ」


陸遜は窓の外にいつの間にか登っていた月をぼんやり眺めながら、しかし笑みを引っ込めて聞いていた


「………そのくせ、蓋開けてみりゃ俺より頭はいいわ未来の都督様だわ、全然小さくねーのな、まったくよ」


また大きなあくびをしながら言い投げるようななまえに陸遜は小さく吹き出した
目の前の、なまえの背中を拳でとんとんとノックしながらご機嫌に笑う


「なまえ殿は大きそうに見えて意外と」
「…小さい?」
「空っぽです」
「てめっ…ちょっと自分が頭いいからってなぁ」
「あはっ嘘です!嘘ですって」
「あーあー可愛くねえなほんとに」


肘をつき体を少し起こして反論すると陸遜の至極楽しそうな顔にデコピンをくらわせた
いたっ、と言いながらも笑いの余韻でクスクスと笑みをこぼすこの目の前の青年の横で、なまえはほろ酔いのようなくすぐったさにデコピンした額を指の背で優しく撫でた


「早く寝ちまえ、な」


月の光を背に浴びて、表情は暗がりに埋れてよくは見えなかったが、自分の髪をちょっと乱暴に梳くなまえの目が優しく細まっているのが陸遜にはわかった

一瞬きょとんとなまえの顔を見つめると、何も言わずになまえに寄り添い、明るすぎる月の光から逸らすように顔をうずめた
なまえは寄せた体の温かさに酒の量を思いつつも、比べて冷えた肩に掛け布を引っ張りあげてやるともう一度髪をさらさらと梳いた
やはり自分より少し小さい陸遜の寝顔にちょっかいを出そうとして、やめる

もう寝てしまったのか、肩が上下し始めるとなまえも陸遜の隣に横たわった




いつも先に酔いがまわる陸遜の寝顔を、こうして起きていて隣で見るのが好きだと伝えるのはもう少しあとでいい


月明かりが少し眩しい中、なまえも目を閉じた





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