呟き
2019/11/30 15:00
アルトがピアニッシモのメロディを紡ぐ。残念ながら吸う訳でもなく傍らに置かれた煙草はブラックデビル。甲板での騒ぎ声にかき消されそうな小さな歌は、唯一の聴衆である煙に溶けていく。
「『荒れ野を行く時も嵐吹く時も行く手を示して絶えず導きませ』」
聴衆は他にも居たらしい。わざわざ探しに来た訳ではなく、片手に酒瓶がある辺り本当に偶然だろう。
「似合わねぇモン歌ってんな」
「よく歌詞覚えてたね」
「おれも驚いてる」
差し出した酒は少し間を置いてから受け取られた。一口煽って返される。立ち去らずにそのまま隣で瓶を傾けた。今更気にする間柄でもない、増えた聴衆を相手に鼻歌が続けられる。
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝が身を離れざれ
「…誰だ?」
「言っても知らない相手」
「そうかよ」
まだ中身が残る酒瓶を海へと投げる。舞ったアルコールとガラス瓶とが塩水の中へ飲まれていった。廃盤になってしまった煙草を手向けるに値するらしい名も知らぬ相手にかける、せめてもの敬意だ。いよいよ隣に立つ理由を失って、甲板に戻る事にした。
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