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ボールを視線で追いかける。テレビ画面という小さな小さな範囲の中なはずなのに、速すぎてすぐに見失ってしまう。選手たちはこれを実際に走って追いかけ、繋ぎ、そして相手コートに打ち込み、拾っているのだというのだから信じられない。

実際に以前、ナマエは角名にそう言ったことがある。角名も「俺もたまに信じられない」と言いながら笑っていた。


『今年度から代表入りした角名ですが、安定した活躍を見せていますね』


そう言ったのは、名前も知らない解説者の一人だった。もう一人もそれに賛同し、角名の先日の試合での功績を讃え始める。赤いユニフォームに身を包んだ角名は今、世界を相手にコートに立っている。それをじっと見つめるナマエの表情はいつになく真剣だった。

角名は、自分の目標や想いを安易に口には出さない。わかりやすい情熱も表に見せない。しかしいつも静かに、酷く冷静に虎視眈々と敵を狩り勝ちを掴む機会を窺っている。肉食動物が気配を悟られないように獲物に近づき、音もなく一瞬のうちに完璧に仕留めるみたいに。気がつけば背後にいて、そして相手が気づいた時にはもう食らいつかれているのだ。

しっかりと着実に上り詰めるその姿に憧れに等しい感情を抱いていた。かっこいいと、ありきたりな言葉ではあるがいつだってそう思っている。ナマエの目に映る代表として戦う角名の姿は、自分を鼓舞してくれるものであり、そしてまだそこには到達できていない自分にとって羨望と嫉妬の対象でもあり、そして何よりも喜びの対象であった。


「私も頑張らなくちゃなぁ」


テレビから視線を外し、手元のノートをパラパラとめくる。これでもう何冊目だろうか。高校生の時から思いついたものをすぐに描き出す習慣は変わっていない。その時々の流行りや自分の思考がこれらのノートにはいくつも描かれている。

最近は海外のファンも増えてきていた。もともとナマエの世界観は海外展開をメインに考えた方がいいのではないかという意見も多くあったため、そこに向けて自分も着実に動き出せている安心感はある。淡々とやるべきことをこなし、確実に力をつけていく角名に負けないようにと、ナマエも再び目の前のデザインに視線を落とした。





同じ家を自宅としているにもかかわらず、数週間単位で会えないなんて日々がザラにある。角名の合宿や遠征は一度や二度ではない。やっと帰ってきたかと思えばまたすぐに出発だ。国際リーグ期間が終われば、すぐに日本国内でのリーグが始まるためにまとまった休暇はほとんどない。


「体壊さないようにね」

「ほんとーに」


グッと伸びをする角名の顔には僅かに疲労が滲んでいる。そんな姿を見るのは久しぶりのことだった。

日本を背負うとなると、やはり試合の開催地の多くが海外となることは必然だ。トップクラスのスポーツ選手がいかに日々時間を削りながら生活をしているかが嫌でもわかる。しかしそれに対し、疲れた等の当たり前に抱く小言は言っても、文句を言ったり投げ出すようなことは一切口にはしないのだから、角名は自らをアスリートとする自覚と覚悟があるということもしっかりと伝わってくるのだった。

お互いに今の活躍に喜びを感じている。が、寂しいという感情がないわけではない。それとこれとはまた全く別の問題である。しかしナマエも角名もそれを口に出さないのは、それこそ望んだ未来の上にやっとのことで立っている今、これ以上のことは現時点では望めないこともわかっているからだ。


「ナマエ」


角名が手招きをして、それに素直に従うようにナマエが近づいた。二人分の体重に悲鳴を上げるようにソファが小さく軋む音を立てる。寝転がる角名にナマエが覆い被さった。角名が優しく後頭部に手を添えて、どちらからともなく唇を重ね合わせる。

あれ取ってだけで何を指しているのかがわかるようになった。はっきりと口に出されなくても伝わってくる。キスをするタイミングなんて手に取るようにわかるのだ。言葉や表情の裏に隠された本心だって。

一回、二回と回数を重ねる事に深まっていくキスに身を委ねながら、静かに体内に流れ込んでくるお互いの感情を感じ取る。音にせずともわかってしまうからこそ、儚く切ない気持ちになるのもまた仕方がない。

床を這う冷たい風が微かに肌を掠った。角名もナマエも、自分のやりたいことがはっきりとしている。ビジョンも明確に見えている。それに向けて歩けてしまう。一人だとしても。だからこそ相手が自分のことを、自分が相手のことを求めなくなってしまったらと考えフと怖くなった。

会えない日々が続いていても、二人ともそれぞれの道を一歩一歩止まることなく進めている。今までにお互いがかけてきた数々の言葉達が、しっかりと背中を押してくれることで前を向ける。常に二人で夢に向かって進んできたからこそ、いつだって自分の中に存在している相手が、会えない日々の中でもしっかりと支えてくれる。自分を作ってきた一つの大きな存在として確立してしまっている。


「倫太郎ってキス上手いよね」

「誰と比べて?」

「誰だろう?」

「比較対象が他にないのに上手いってわかるの?」

「…………」

「そんな顔すんなよ」

「……倫太郎のキスは気持ち良いから好きってこと」

「ハハ、うん、俺も好き」


夢の協力者として、一番大切で重要な人物にお互いが成り得た。恋人としての一番大切で重要な人物にもお互いが成り得た。


「倫太郎、」


小さく呟かれたナマエの声には甘い空気がまとわりつく。角名がナマエの顔の横に落ちた髪の毛を優しく掬って耳にかけた。

倫太郎の、自分のことでも近しい相手のことでも、しっかりと一線引いて見ることができるその冷静さが時折怖くなる。お互いのことは分かりきっているつもりだけれど、それでもわからないことばかりで。恋人といえど他人なのだから、そんなことは当たり前だろうと言われようとも、やはり時々不安になったりするのだ。でもそれがまた愛しい。わからないからわかりたいと思える。わからないだろうからわかって欲しくて工夫ができる。自分ではない大切な人が冷静な判断を下した上で、こうして今日も共にいてくれる。なければならない人だという確信の火が、心に灯り続けるのだ。

角名をしっかりと見つめ返した。優しく弧を描いた切長の瞳に鋭さが増し、興奮の色が浮かぶ。静かに冷たく燃え続けるその視線に包まれ、背中を這うような恐怖と心地良さがナマエをまた奮い立たせた。


「なに考えてんの」

「なんだろ」

「今は俺のこと以外考えないで」


今日が終わればまた数日間会えない日々が続く。行く先は海外ではなく国内だから数日程度で済むのが何よりもの救いだ。

誇らしく喜ばしい活躍。しかし、寂しさはどうしてもある。離れるからこそお互いの大切さが身に染みてわかるのだと言い聞かせて、甘美に部屋に響くお互いの声を全身に染み込ませた。

冷たい冬の足音はもうすぐそこまで聞こえてきている。だが、そんなことが信じられないくらいに、この空間は真夏のような熱に満たされている。
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