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西暦2019年。この年の大きな出来事といえば、やはり改元だろう。
平成が終わり、時代はもうすぐ令和へと移る。だからといって人々の生活の何かが変わるということはないのだが、ナマエの元には変化の兆しが訪れていた。
「……独立?」
「そう。最初は完全なそれとはちょっと違うかもしれないけどね。でもいずれそうなるためにも、これは結構良い話だと思うよ」
四年目の、まだまだこの業界では新人の枠であるナマエにこのような話が飛び込んでくるのはとても貴重なことだ。職場での活躍も申し分ないし、知名度も上がり、少しずつナマエ個人のファンも増えてきている。
というのも、今は実力と人気さえあればやり方次第で個人で活躍もできる時代だ。SNSを駆使したり、様々な手段を使って独自に展開するアーティストやデザイナーは山ほどいる。ナマエももちろん学生時代から個人的なアカウントを活用し、作品の掲載等を行なってきた。それが少し前からかなり大幅に観覧数が増え続けていて、広まりつつある。
そこでナマエを見つけ出した相手からこの話が持ちかけられたというわけだ。ナマエ自身も、上を目指すならばいずれ会社は離れないといけないとは考えていた。しかしこんな早くのタイミングになるとは思っていなかったのも事実だ。
驚きはすれど、とても嬉しく思った。近頃はそのようにどこにも属さず個人活動をしている若手の台頭も珍しくはないことも考えると、遅いとか早いとかは深刻に考えすぎなくても良い。チャンスの巡ってきたタイミングできちんと一歩踏み出せば良いだけだ。それまでの経験や実力を生かし、立場や年齢に囚われずチャレンジできるのは今の時代ならではかもしれない。
「すごい話じゃん」
「うん。やってみようかなって思ってる」
「当たり前でしょ」
さも当然のようにそう言った角名に、ナマエは驚いたように目を見開いた。その反応に角名は僅かに目を細め、「何、俺がまだやめときなとか言うとでも思ってた?」と、少し茶化すように言う。
「そうじゃないんだけど、特に驚いてる様子もなかったから」
「俺はずっとナマエはもっと上に行けるって言ってきた」
「そうだけど」
「むしろやっときたかって感じ。ナマエは弱気なわけ?」
「ううん」
ナマエも元々角名にはこんな話がきた、と相談ではなくただ報告をする予定だった。答えなんてとっくに決まっていたからだ。角名なら絶対に応援してくれるとは確かにナマエも思っていたものの、こうも真っ直ぐに自分のことを信じてもらえているとなんだか不思議な感覚になる。
倫太郎はいつもそうだ。こうやって自然と私の背中を押してくれる。やってみなよと言うのではなく、やるんでしょと当たり前に私が選んで進もうとしている道の先を信じてくれている。
こうしたいというビジョンはナマエにもしっかりとあるが、それでもやはり今のこの環境を抜け出すことには多少なりとも不安はあるし、心配もある。それよりも大きな希望と期待が勝つからこそ一歩踏み出そうと思えるものの、決断を下す勇気を出す瞬間の心細さは計り知れない。そこを支えてくれるのが、いつも角名の一言なのだ。
黙り込んだナマエをじっと見つめる角名は、ナマエが何を考えているかがわかったかのように口角をあげ、不敵な笑みを作る。テーブルに肘をつき、顎を支え、そして見透かしたような瞳でナマエを捕らえた。
「自分だって当たり前のように俺がプロになる話してたじゃん。俺がそこに進めるんだと勝手に思い込んでただろ」
「…………確かに」
「おかげで俺は悩む隙も、細かいこと考える暇も、不安に駆られる余裕もなかったよ」
そう言って角名は手元のアイスコーヒーの残りに口をつけた。喫茶店に流れる静かなジャズが軽快に響き渡る。
角名がナマエへと向ける視線はどこか挑発的で、それでいてとても温かく、柔らかい。落ち着いた熱のあるその瞳がナマエに訴えかけるのは、立ち止まるなという一種の脅しと、突き刺さるほどに鋭利な信頼、そして大丈夫だという強いエールだった。言葉には出さないけれど、こうしてしっかりと届くように接してくれる。
無意識のうちにナマエは角名にしていたのだ。角名だって、ナマエに同じことをする。
互いを夢の協力者だと思っている二人は、いつだってこうして相手の夢へと続く道だけを照らす光となり、その道を進んでいく相手の背中を強く押すのだ。
退職については案外あっさりと話が進んだ。というのも、きっとナマエならばいずれこのような行動に出ると周りは誰もが思っていたらしい。惜しむ声はたくさん出たが、温かく送り出してくれた。
月末までの有給を消化しながらのんびりと過ごす午後。――とは、残念ながらいかないのが現実である。
学生を終えると同時に職場近くのこの部屋に移った。ここは都心への移動も簡単で、治安も良く、そして駅にも近い。つまり、そこそこに値が張るのだ。今までは会社から家賃補助が出ていたので特別気にはしてはいなかったが、今後はそれが受けられなくなる。先行きの未だ未定なチャレンジャーとなる身からすると、ここに住み続け高い家賃を払っていくのは些か問題があった。
贅沢はもっと先の見通しがついてからだ。そう思い引っ越しを決意したものの、なかなか手頃で良い物件は見つからなかった。出社は無くなるし、打ち合わせやらデザイン提出やらはリモートでできてしまう。たまに取引相手と直接の顔合わせは必要になるが、頻度は低いはずなので回数もそこまで多くはないだろう。つまり特別住む地域は問われない。ならばもういっそのこと東京を出てしまおうか。郊外ならばそこそこの家賃でそこそこの物件だって多いはずだ。
ナマエは意気込むようにフゥっと勢いよく息を吐き出し、ごろんとひんやりと冷たいフローリングへ大の字に寝転がった。
『顔合わせって実際どのくらいの頻度なの?』
「多分あっても月一回とかだよ。基本リモートで出来ちゃうし。相手も仕事とかあるからなかなか日中に会って時間とってってできないだろうしね」
『へぇ』
家賃は上がるけど、防犯だけはしっかりしてた方が良いよねぇとこぼしながら、ナマエはスマホをスピーカーに設定し、傍に置いていた不動産屋のフリーペーパーをめくる。
それに何も返事はせず、角名は何かを考え込むように口を閉ざした。何も言わない角名を不思議に思いながらナマエも同じように黙り込む。あのさぁといつもと変わらぬテンションで角名が話し出すのを、ナマエは静かに聞いていた。
『俺のとこくれば?』
しんと静まり返る部屋。まるで時間が止まったみたいにお互いのスマホからは呼吸音さえも聞こえてこない。何も発しないナマエに、角名が気まずそうに『なんか言えよ』と言葉をかける。
それでも何も言わないナマエに対して、これ以上の沈黙には耐えきれないと判断したのか『ごめん、軽はずみだったかも。新幹線にはなっちゃうけど東京まで一時間だし、頻度少ないんだったらこっち住んでもいいんじゃないって思ったんだけど』と、角名は珍しく焦りながら話を続けた。
「…………」
『…………』
「……行く」
『うん。……え?』
「倫太郎のとこ!行く!!」
突然発された大声に驚く。しかし角名は隠しきれない笑みを浮かべていた。ナマエにすらも見せられないと思える顔をしている自覚が本人もある。思わず電話越しではわからないはずなのに顔を隠すように腕で覆った。
ナマエはついつい大きな声を出してしまったことに対し、申し訳ないと思いながらも、角名が発した言葉を頭の中で何回も再生した。
意味を理解するごとに興奮が増す。顔が赤く染まる。鼻の奥が痛い。目頭が熱い。急激に襲いくる感情に追いつかない頭が痛い。言葉を発したいのに喉が詰まって声がうまく出せない。
お互いのやるべきことを優先させている結果の今があるため、多少離れていても不安はなかった。遠距離と呼ばれる関係の中では比較的短い距離ではあるし、他のカップルたちに比べると、シーズン中等を除けばまだ会えている方だろう。
しかし、もしも叶うのならばもっと一緒にいたいと願うことは当たり前のことである。頻度も時間も、できるだけ多く。自分達の将来に向けての歩みを止めないまま、二人で共に過ごせる選択肢があるのならば、それを選ばない手はない。
そうと決まれば即行動に移すのがナマエだ。角名もズルズルと引きずったり迷うことは苦手なために、スパッと物事を判断し行動に移す癖がある。
元々引越しをしようと決意していた為、ナマエの荷物は既にほとんどまとめられていた。有給消化の時間を上手く使い、二人で暮らすために必要なものは全て揃え、準備を整える。
退社したその翌日には借りていた部屋を出て、すぐに角名の元へとやってきた。そのあまりのスピードに二人して笑ってしまったが、一刻も早く一緒になりたいという思いは互いに常にあったし、角名も忙しいため、こうして時間のあるうちにさっさと進めておいた方が良いという考えもあった。
「二人で住むってなっても十分でしょ。でも作業するとなるとちょっと狭い?」
「そんなことないよ。十分すぎるくらい。今までここに一人で住んでたなんて贅沢」
「補助効くからね」
長旅というほどの距離ではないが、朝からドタバタと引っ越し作業をしていた体は疲労で悲鳴を上げている。
積み上がったままの段ボールのうち、すぐに必要になるもののみをまとめた一箱以外を残し、他は後日ゆっくりと片付けを進めることに決めた。
「何食べる?もう今日は作らないで食べに行っちゃうでしょ?」
「そーしよー。倫太郎何食べたい?私はげんこつハンバーグ」
「正気?今から行ったら三時間待ちだけど。もういつでも食べれるんだから今日は違うのにしよ」
「えー……でもそうだよね。もういつでも食べれるもんね」
嬉しそうに瞳を輝かせるナマエに角名が笑う。適当に近場で済ませようととりあえず外に出た。事前に店を決めずとも、駅の方へと歩いて行けばかなりの店数がある。
静岡の地へ引っ越してきて、ナマエはまだ一日目だが、ここにはもう何度も何度も訪れたことがある。幾度となく見てきたはずの街の光景を目に焼き付けるように周囲を見回した。
この見慣れているはずなのに一度も住んだことのなかった場所が、今日からは自分の生活圏になる。そのことに思わず疲れを忘れるほどに心を躍らせながら、ナマエは隣にいる角名の腕をしっかりと掴んだ。